ブラック・ドッグ

笹野にゃん吉

プロローグ

 家に帰り、時計を見ると二時だった。

 昼ではなく深夜。いつもの帰宅時刻だ。


 しんと静まり返った家中には、寝息すら聞こえない。

 彼には妻子などいないし、そもそも恋人すらできた事がない。田舎に住む両親とは、もう何年も連絡をとっていなかった。


 ふと、テーブルに放りだしたスマホを見て、久しぶりに連絡してみようかと思い至るも、この時間だ。

 明日はどうだろう。

 と、過ぎった自己への提案に、卑屈な笑いがこぼれたのはすぐだった。

 明日もこの時間に帰ってくるのは解りきっている。

 出社時刻も早い。夜食を省いても、軽くシャワーを浴びたら、ほとんど明日だ。両親への連絡どころか眠る時間すらない。


 せめて休みがあれば……。


 考えるだけ虚しくなった。微睡に麻痺した頭で、先月の休みがあったかどうか思い返すも、記憶は模糊もことして曖昧だった。一日だけぐったり眠ったような気もするし、ずっと暗闇の中でデスクワークを続けていたような気もする。


 では、先月の残業時間は?

 もう数えるのも億劫だ。

 じゃあ、今月は――。


 そんな事を考えているうち、やがて「社畜」というワードが浮かんできた。

 会社という小屋の中に押しこめられたブタだ。

 いや、ブタならまだいい。家畜は餌を貰える。

 だが、社畜かれ餌は与えられない残業代は支払われない


 俺はなんのために生きてるんだ……?


 社会人になってから、働いて寝るだけの人生だ。

 それ以外にやれることなんて何ひとつなかった。


 昼休みのテレビでは、お金が必要のない趣味だとか、低賃金の人のための副業だとかを紹介している。

 学生の頃は、なるほど、こういうのもあるのかと興味をもったし、それをいちいち紹介してくれるテレビに感心もしていた。


 けれど、いざ社会に出てみれば、その歪さに気付かされる。

 汗水流して帰ってきても、口に糊することができない。副業をしなければ食っていけない。そもそもそんな時間はない。あったとしても、今度は休む時間のほうが消えていく。それが現代社会の真実の姿だ。


『心を豊かにするために。楽しい今日を生きるために』


 メディアはそれっぽいことを喧伝けんでんし、未来に漠然とした希望の種を蒔き続けている。けれど、腐った種からは芽もでない。社会は時間を奪うばかりで、提供してはくれない。パソコンやスマホの普及によって、情報の取得は容易となった。しかし、それを収集する時間、知識を活かす時間はない。


 俺はなんのために――。


 おなじ疑問をくり返そうと、


「……」


 答えなど出てはくれなかった。

 ただ眠れば明日がやって来て、気付けば始発の電車に揺られているだろう。


 つまりはそれだけ。

 意味なんてないのだ。


 社員なんてものは会社の部品。人格など必要とされない。人生をこう生きたいだなどとうそぶく者は、会社の回転を損なわせる欠陥だ。


 みんな頑張ってるんだ。努力してるんだ。俺より働いている奴だって、きっといる。でも、俺は不満ばっかりだ。社会が悪いんじゃない。社会を受けいれられない俺がクズなんだ……。


 心にぽっかりと穴が開いたようだった。

 その中で黒い犬が、じっとこちらを見つめているような気がする。『ダメだ、ダメ』と、囁いているのは自分だろうか。それとも、いつからか心に棲みついた黒い犬が吠えているのだろうか。


 頭から血の気が引いていく。


 薄らと埃の積もった床を踏んで、台所の前にたった。腹なんて減っていない。吐き出したいものはあっても、入れたいものはなかった。

 ただ、まな板のうえに放置された、しろがねの鈍い輝きに惹かれていたのだった。

 いや、フォルムだろうか。そこに色なんてものは存在しない。いつからか世界はモノクロームに染まって、味はなく、声は雑音、シンプルなものへと変わっていた。


 俺が間違いなんだ。みんなもっと強いんだ。強いから幸せで、きっと生きていけるんだ。


 おもむろに包丁の柄を握る。久しく触れることのなかったそれは意外なほどに軽い。これが自分の命の重さだろうか。


「ああァ……」


 包丁を正面に掲げると、手のひらからパラパラと黒い粒がこぼれ落ちた。

 錆だろうか。あるいは腐朽した柄の表面が剥がれ落ちたのか。


 どうでもいい。


 刃を己の胸へむける。

 もう何年も味わうことのなかった快感が、ほんの一瞬だけ胸を満たした気がした。


 ああ、幸せってこんな感じだったっけ? 俺もみんなから幸せを貰えたらよかったのに。


 手のひらから黒い粒が落ちる。


 パラパラ。パラパラ……。


 こぼれ落ちていく。砂時計のように。残像のような軌跡きせきを描きながら。


 みんなから幸せを貰えればなァ。貰えればァ。貰えれば……。


 包丁の切っ先が、ちくりと肌を刺す。

 もう一押し。もう一押しですべてが終わる。

 未練がないわけではない。漠然と、もっと幸せになりたかったと思う。いつかの過去など忘れてしまったけれど、きっと幸せな時があったことを憶えているから。


 幸せを……。


 ザザザッ。


 手中から黒い砂が溢れだす。それが足許に溜まって、磁石にひかれた砂鉄のようにうごめいた。


 そうだ。奪えば。みんなから奪えばァ。俺はまた幸せになれるじゃないか……。


 包丁を放りだす。シンクに転がって耳障りな音をたてる。


「ああァ……ァァアァ」


 不明瞭な呻きをあげ、彼はくずおれた。

 そのまま胎児のように身体を丸めると、おもむろに瞼を閉じていった。


 疲弊ひへいした肉体は休息を求め、れた心は潤いを求めていた。

 一方で、奇怪にうごめく黒い砂は、肉体を求めていた。

 彼がとっぷりと眠りの中に落ちるとき。

 黒い砂は、彼の心身を――そのすべてを呑みこんだ。

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