第6話 とある友人の言うことには
夜の恐ろしい森を走り抜けたわたしは、結局狼さんに出逢うことなく、無事に家に辿り着きました。
こんな怖い思いは二度とごめんだと玄関を開けた瞬間……そこには鬼のツノを生やした母が仁王立ちで待っていて、びっしり一時間こっぴどく叱られました。
こんなに怒った母を見るのは久々です。あまりの恐怖に涙すら引っ込みます。やっぱり母は狼さんと同じくらい……いえ、狼さんより恐ろしいです。こんなこと、口が裂けても言えませんが。
自室に戻り、時計に目をやります。気がつけば時刻は二十三時。こんな遅い時間になっていたなんて驚きです。そりゃあ母も怒るはずです。
……でも、きっと、大神さんと過ごす時間はそれほどまでに楽しかったということでしょう。もう二度と会うことは……ないのでしょうけど。
ベッドに横になり、深い溜め息を吐きました。ケータイを手に取り、メールの受信画面を開きます。
そこにあったのは、わたしの大好きな彼からのメールです。……そう。わたしの、大好きで、嘘つきな、彼。
知っています。
あなたはきっと、ごめんなんて微塵も思っていないのでしょう?
急な用なんて最初からなかったのでしょう?
どうせ今週末の約束だって簡単にやぶるのでしょう?
全部全部知っています。
それから……大神さんの言うことも、ちゃんと全部わかっているのです。
彼はもう、わたしを好きじゃないなんてことくらい――そんなことくらい、とうに気づいているのです。
それなのに怖くて先へは進めません。わたしは、誰かがこの手をそっと取って、さらには背中を押してくれなければ……一人では前へ進めない臆病者なのですから。
瞳がじわりと熱くなります。いけません、思い出すとまた泣いてしまいそうです。
そうだ。こんなときは楽しかったことを思い出しましょう。楽しかったこと、嬉しかったこと、幸せだったこと。それを思い出せば、きっと悲しくはならないはずです。
そっとまぶたを閉じました。
最近あったいい思い出を、ひとつずつ思い出しましょう。
楽しかったこと。
『……ああ! だからオオカミさんなんですね! 狼さんではなく、大神さんだったと。なあんだ、なるほどです。わたしはてっきり中二びょ』
『なあんだ、なるほどです、じゃないだろ』
嬉しかったこと。
『ケーキなんてどうだ』
『ケーキってあのケーキですか?』
『それ以外になにがある』
『む、無理です無理です! そんなもの、わたしに作れるわけがありません!』
『やってみなきゃわからないだろう』
幸せだったこと。
『うまいか』
『はい、とっても!』
『それはよかった』
……あれ。なんでしょう。
『おまえにはこの大きいのをやろう』
『いいんですかっ?』
『ああ。いっぱい食べて大きくなれよ』
なんなのでしょう、これ。
『ここ、クリームついてるぞ』
『え、本当ですか』
なんだかわたし、おかしいです。
『――沙雫』
楽しかったことを思い出しているはずなのに。
嬉しかったことを思い出しているはずなのに。
幸せだったことを思い出しているはずなのに。
……涙が溢れて、止まりません。
「……お、おおかみさぁん……」
たった一日だけの思い出です。それなのに、こんなにも楽しくて、嬉しくて、幸せでした。きっとこういう人と一緒になれば、悲しい思いなんてしなくても済むのでしょう。
わたしはバカです。大バカです。こんなふうにしているあいだにも、まだ会いたくて仕方がありません。どうしてでしょう。
ねえ。大神さん。
あなたは本当に、いったいどんな魔法をわたしにかけたのですか――?
◇ ◆ ◇
翌日。
わたしは一人で汽車に乗り学校へと向かいました。窓から見える森を見て、昨日の出来事を思い浮かべます。
なんだか夢のような時間でした。
今になってみると、あれは本当に夢だったのではないかと思えてきます。
だって、どう考えてもおかしいじゃないですか。
今まで十七年間あの森に通い続けてきたのに、今さらあんなところで人と出逢うなんて考えられません。そもそも人が住むような場所じゃないでしょう、あそこは。それに狼さんの警告をする大神さんだなんて、あまりにもできすぎた話で冗談めかしています。きなくさいです。
……ううん。ということは、ですよ。
もしかしたら、彼は本当に狼さんで、きつねさんやたぬきさんのように人間に化けて出てきたのかもしれません。あの森は動物が多いですから、そういう力を持つ子もいたっておかしくはないでしょう。
目的は……そうですね。
――わたしを食べるために。
「……なんちゃって」
それこそまさかです。
わたしは一人、ふっと笑いました。
もういいです、忘れましょう。あの時間はあの時間で楽しかったし、夢を見ていたと思えば、なんてことはありません。
そうです。昨晩はぐっすり眠れましたし、きっとそうに違いないのです。
でもいつまでも寝ぼけてなんていられません。わたしはお勉強をしなければいけません。やはり学生は勉強が資本ですからね。しっかり学んで明るい未来にそなえるのです。
……明るい未来。
わたしは将来、どんな人と共に人生を歩むのでしょうか。
父のような、たくましく勇ましいかたがいいです。
祖父のような、優しくたおやかなかたも素敵です。
今はまったく想像もできませんが……こんなに頑張って今を生きているのですから、きっと明るい素敵な未来のはずです。
そう考えましょう。先のことなんて誰にもわからないのです。
今は、今を一生懸命に生きればいいのです。
そんなふうに一人で未来の想像をしているうちに、汽車は駅へと到着しました。
さて、今日も一日頑張りますよ!
「ひどい顔をしているね、沙雫」
……たった今頑張ろうと思ったのですが、前言撤回します。
なんだかわたし、頑張れそうにないです。
ああ、まったく、会って早々なんて失礼なことを言うのでしょう。正面から聞こえてきた声に、わたしはむすっと頬をふくらませました。
「もしあなたがわたしの親しい友人でなければ、今のせりふはきっと一瞬で友情もなにもかもぶち壊しですよ。……ひなた」
腰に手を当て、笑いまじりにわたしを見てくるのは、
漆黒の髪は耳のあたりで短く切り揃えられていて、瞳はクールな切れ長、体型は長身かつ細身のモデル体型、スポーツもできれば勉強もできるといった、ちょっとできすぎているわたしの友人です。
「おや、傷つけたかな? だけど僕は本当のことを言ったまでさ」
「ふん、大きなお世話です。わたしはもとからこういう顔なのですよ」
「怒らないで。言いかたが悪かったかな。本当は、こう言おうと思っていたんだ。『今日の沙雫はいつもと違う、表情が暗いよ』ってね」
歩き出すわたしの横にやってきて、頬をつんとつついてきます。
だったら最初からそう言っていればいいものを、会っていきなり「ひどい顔をしている」なんて言われたら誰だって気分が悪くなります。いくらわたしたちが幼稚園に通う頃からの長い付き合いだとしても、許せることと許せないことはあるのですよ。以後気をつけるように。
「それで沙雫、なにか悩み事でも?」
「いいえ、わたしがひどい顔をしているということ以外はとくに」
「悪かったって。沙雫はかわいいよ、とても僕好みだ」
またそんな軽口ばかり。呆れて溜め息が出ます。
そういうことばかりを言っているから、よそで変な噂がたつのです。
「ひなた、知っていますか」
「うん? なにをだい?」
「一部でわたしとひなたが付き合っているという噂が流れているそうですよ?」
とても恐ろしいことだとは思いませんか。わたしは信じられません。わたしとひなたが……なんて、ありえない話なんですから。
だけど、ひなたは目をぱちぱちとしばたかせたあと、ぷっと吹き出しました。
「あはは! へえ、そうなのか。それはとてもおもしろいね!」
さいですか。もうなに言ってもダメですね、この人。
「まあ、僕と君は長い付き合いだ。その親しさから、そう思う人間もいたっておかしくないだろうね」
「そう思われたら困るのです」
「どうして?」
ひなたの瞳がまあるくなり、わたしを真っ直ぐにとらえます。
……というか、近くないですか? 近いですよね? ちょっと離れてください。歩きにくいし、なによりこんな至近距離は恥ずかしいです。そういうつもりがなくたって、さすがのわたしもドキドキします。
「そんなの当たり前でしょう。だって……」
「もしかして沙雫、まだあんな男と付き合っているの?」
ぐっと喉がなります。
『あんな男』という言葉が指す人物を、悔しいことにわたしはすぐに理解してしまいます。自分ではほんのちょっとも思っていないのに、母や大神さんやひなたに言われ続け、脳が勝手に変換してしまうようになったのです。
ひなたは真剣な顔で言いました。
「つまり、沙雫はまだ『あんな男』と付き合っているから、僕との噂がたつのが恐ろしいと……そういうことかな」
わたしはなにも言えず、ただくちびるをきつく結びました。体の横でこぶしをぎゅっと握ります。
ひなたはそんなわたしを見て浅く溜め息を吐きました。
「……ねえ、沙雫。僕は何度も言っているよね。あの男はやめたほうがいい」
「……どうしてです」
「僕は見ているんだよ。この目で、はっきりと、彼の不行跡を」
「ひなたが見ていても、わたしは見ていません」
「いい加減に目を覚ませ。いい噂だって聞かないだろう。彼は毎週のように違う女と……」
「その話はもう聞き飽きました!」
足を止め、声を荒げました。周囲の人々がこちらをちらちらと見てきます。
それでもわたしは気にしませんでした。ひなたもまったく動じません。それどころか眉根を寄せてわたしをじっと見据えてきます。
やめてください。やめてください。
彼のことを言うのは、もう、お願いですから。
「どうして君はそこまでしてあの男にこだわる」
冷たい声音でした。
それはまるであのときの大神さんを思い出させるような。
みんなは決まって同じことを言います。
あの男はだめだ。どうして付き合っているんだ。別れなさい。今すぐに。
そればかりしか言いません。
それでもわたしは信じたかったのです。
彼を、信じ続けていたかったのです。
バカと言われてもかまいません。
だって、彼は。
「――彼は、わたしの世界を認めてくれた人でした」
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