明日の黒板

吉岡梅

春子

 いつもと同じ6:45分発の電車に乗り込み、いつもの位置まで歩き、いつもの吊り革へとつかまる。ただそれだけの事が感慨深いのは、3年間続いたこの儀式めいた行為も、これで最後だからだろう。今日は卒業式。あと何時間かすれば、私はもう高校生ではなくなる。なんだか不思議な感覚だった。


 改めて車両内を見回す。立っているひとも、座っている人も、何回か見かけたことのある同じ顔触れだ。名も知らぬこのひとたちとも今日でお別れ。そんな事を考えていると、スマホが振動する。画面には夏男からのメッセージが表示されていた。


 さりげなく振り返って乗降口の脇を見る。そこには、夏男がこちらに目を合わせないようにして座っていた。


 返信をしてスマホをしまう。夏男と一緒に通学するのも今日で最後だ。あと何時間かすれば、私と夏男も、今のままの私と夏男ではなくなるのだろう。


 窓の外を流れる景色を見ながら、ふと、「シュレディンガーの猫」というパラドックスを思い出した。


 箱の中に1匹の猫を入れ、一緒に50%の確率で有害なガスを生み出す装置を入れてふたを閉める。1時間ほど経過した後でこの箱を開ける。このとき、猫は生存、もしくは、死亡しているが、どちらかは開けてみるまでは分からない。では、箱を開けるまでの猫は、いったいどのような状態と言えるのか。その答えは「生きている」でも「死んでいる」でもない。「生きている猫と、死んでいる猫が、共に存在している」状態なのだ。


 何度聞いても首をかしげてしまう。元々は量子力学の分野の、一見不条理な言説を批判するために作られた話だ。今では、物理学の話というよりは、「ものごとというのは、結果をはっきりと確認するまでは、曖昧で混じりあったままなのだ」という、妙な教訓めいたことわざのように使われていたり、SF系映画などの創作の場面において、「世界がいくつかに分岐する」話の根拠に使われている場面の方が多い。


 初めてこの話を聞いたときに私が感じたのは、量子力学への興味でも拒絶でもなく、猫ちゃんかわいそう、でもなく、私たちと似ているな、という感覚だった。


 私たち、正確には私と夏男は、50%程の確率で互いに好きあっており、好きあってはおらず、結果は確定されていない。混じりあった状態だ。


 少なくとも私は、それをよしとしている。それがよしと思っている。


 ものごとというのは、確定するまでの、フラフラで、妙に熱量だけ高くて、いろいろな結果を想像・検証しているときが一番楽しい。結果が確定すると、生きていても死んでいても、そこからいろいろ大変なのだ。そう自分を納得させていた。


 面倒くさいことに周りの観測者たちは、私たちの関係を確定させようと、何かと理由をつけては結論めいた願望を突き付けてくる。それでも私たちは、――少なくとも私は、ご飯を食べた後の猫のように興味の無い目でスルーしていた。時ににこやかに、時に冷ややかに受け流しているうちに、いつの間にか卒業の日まで辿り着いてしまった。

 

 駅に着き、改札を抜けて学校への道を歩く。春の風がふわりとそよぎ、頬に桜の花びらを運んできた。数日前には満開だった沿道の桜も今は少しずつ綻び、はらはらと花びらを散らしている。


 このままずっといられたらいいのだけど、そういうわけにもいかないんだろうな。私は立ち止まって、桜を見やる。閉じられた箱は、いつかは開けられなくてはならない。たとえ望まない結果が確定しようとも。その日がやってきたのだ。

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