Interlude2 ジャスティス・タイガーの、ある一日

 正義の味方「ジャスティス・タイガー」が、悪の秘密組織「ウルトラ・ショッカー」のエース怪人「ドラゴニアAエース」を苦戦の末に倒した、その数日後のことだった。


 ――日曜日の昼下がり、午後三時。

 都会のおしゃれな街中のカフェには、薄黄色の滑らかプリンのような暖かい初秋の陽射しが降り注いでいる。

 そんなカフェのテラス席にひとりとり残されたようにポツンと座っているのは、ジャスティス・タイガーこと「海谷かいや正義まさよし」だ。

 現在、愛しの彼女との待ち合わせ中。

 人混みの中に紛れるようにして佇む彼の姿は、どう見ても普通の若者にしか見えなかった。ただ、ひとつだけ一般の若者と違うことがあった。その服装だ。


 【正義のヒーローたるもの、普段着はホワイトジーンズに純白のカッターシャツ、首には真紅のネッカチーフを巻くに限る】


 これが先代ジャスティス・タイガーの遺言だった。

 しかも遺言には「ベルトは極太で大きな金のバックルが目立つもの、ネッカチーフは強風に負けないよう洗濯時には固く糊付けするように」という、厳しい注文も但し書きとして添えられている。


 いつもなら、外出前にぴしりとアイロン掛けすることを欠かさない彼だ。

 だが今日は何かと朝から忙しく、アイロン未処理のネッカチーフが彼の首を悲しげに取り巻いていた。


 ――も、もしかして彼女、いつも同じ格好の俺に飽きてしまったとか?


 急に不安な気持ちが沸々と湧き上がってきた彼は、萎びたネッカチーフを指でじりじりと捻るように摘みあげた。自然と、深い溜息が漏れる。

 次いで、腕時計をちらりと見遣った。

 既に彼女との約束の三時から、五分が過ぎようとしている。先代から受け継いだ年季の入ったベルトに手を掛け、そわそわとしだした彼。


「注文は、彼女が来てからで」


 それは来店時、店員さんが注文を訊きに来たと同時に海谷が声高らかに言い放った言葉だった。

 しかし――今や彼が来店してから、優に二十分は経過している。

 遂に痺れを切らした若い女性店員が注文を訊きにやって来た。もう我慢ならぬと、のしのしとした足運びがそう云っている。

 可愛らしい白エプロンと短めスカートの黒いメイド服が揺れる。

 そのイラついた表情には似つかわしくないほど彼女の足は細く長く、綺麗だった。


「お客様。そろそろご注文をお願いします」 

「あ、じゃあ……アイス・コーヒーをひとつ」


 彼女の勢いに押され、ジャスティス・タイガーこと海谷正義は素直にそう答えた。

 ――当然である。

 新米と云えども彼は正義の味方。「自らが平和な場を荒らしてはならない」というのが、ヒーロー界の決して破ってはならないことわりなのだから。



 数分後、屋外の白いテーブルの上に置かれたアイスコーヒーにガムシロップと縦縞ストローを音のしないよう慎重に注ぎ込みながら、彼は考えた。


 ――それにしても彼女遅いなぁ。まあ、それはそうとウルトラ・ショッカーの奴ら、今日だけは大人しくしてろよ! 何たって今日は、僕にとって大事なデートの日なんだからっ!


 早くも汗をどっぷりとかいた、アイスコーヒーのガラス容器。

 その横に置かれた白いボディーのスマホ画面をちらちら見遣っては、その度に溜息を吐く。スマホの様子が、気になって仕方がないのだ。

 もちろんそれは、彼がスマホ中毒だからではない。この人生の大事な局面に「委託元」からの連絡が来るのを恐れているのである。


 実は、警察の「外部委託勇者」である、ジャスティス・タイガー。

 「着ぐるみ風・悪の組織」全般の担当勇者であり、そんな感じの悪の秘密組織が動き出したことを警察が察知すると、外部委託勇者「ジャスティス・タイガー」へと警察から出動要請が来ることになっているのだ。

 彼の収入は、主に税金由来である警視庁からの振り込みがほぼ占めている。それはスピード違反者や駐車禁止の違反者など、彼らたちの血と汗と涙の結晶ともいえるものだ。当然、出動要請は無下にできないのであるが、でもだからといって今日ばかりは……。

 そんな風に考えてしまう彼は、まだまだ未熟な若者だった。


 警察からの連絡先は、彼がジャスティス・タイガーに変身するためのアプリも内蔵するスマホだ。契約によれば、例えそれが人生を賭けたデートの最中であったとしても、要請を受ければすぐに現場に駆けつけねばならない。

 止め処ない貧乏ゆすりの中、警察からの連絡のないことを願いながら彼女の来店を待ち続ける、若き正義の味方なのであった。



  ☆



 しかし、何もないまま二十分が経過した。

 幸運にも警察からの連絡はなかったことに、海谷は心密かに安堵する。

 だが、そんな幸せな気持ちとは裏腹に、彼の注文したアイスコーヒーはそのほとんどが氷が解けただけの生温い水という代物へ変身を完了していた。


「……」


 透明なアイスコーヒーを見た正義の気持ちが、急降下してゆく。

 とろんとした虚ろな目で白ジーンズの後ろポケットから彼が取り出したモノ……それは、少し古めのロケットペンダントであった。

 何を隠そう、この前のドラゴニアAとの戦闘で得た戦利品である。


「なんでアイツ、最後にこれを僕に託したんだろう……」


 彼の脳裏に蘇る、ドラゴニアAエースとの壮絶な戦い。

 正義の体が、勝手に身震いを始めた。


 ――あのとき手加減してたら、確実に僕がやられていた……。間違いなく、アイツは今まで僕が闘った怪人の中で一番強かったもの!


 それは、一人の若者「海谷正義」が命の危険を感じた初めての瞬間でもあった。

 広げた右の掌を、じっと見入る。今もその指先に残るのは、冷たくむにゃっとした妙な感触だった。ドラゴニアA、そして彼を危機から救おうと猛然と自分に向かってきた年配のヒラ戦闘員――その二人の体を貫いた、あのときの不思議な感触が今も手に残っているのだ。


 ――正義の味方というのも、因果な職業だよ。


 限りなく水に近いストロー越しのアイスコーヒーの味が、彼の喉に酷く重苦しい刺激を与えた。

 とそのとき、ペンダントの裏蓋が開く構造になっているのに気付く。


 ――もしかして、これって蓋が開くの?


 手の爪を使って、ロケットペンダントの蓋を開けてみる。

 ぱかり――蓋が開いた瞬間、彼は閉口してしまった。

 何故なら、そこに貼られていたのが、さも仲の良さそうな男女が肩を並べて映っている見たくもない写真だったからである。その、妙に幸せそうな二つの表情が、今の彼の心をグサリとえぐった。


「なんだよ、これ。古臭いカップルの写真? こんなもの、僕にどうしろと? あ、そうだ! 気味悪いから、今度カピバランがひょこひょこやって来たら、無理矢理アイツに持って帰らせることにしよう!」


 そして、もう一度ポケットをごそごそとやった。

 そこから取り出したのは、もう一つの戦利品である「自動車運転免許証」だった。


「こんなモノまで僕に渡すとはどういうことだよ……。ん? 本山もとやま和夫かずおだって? ……そういえば、孤児院にいたときに、そんな名前の子がいた気がするな。顔も覚えてるぞ。確か、ひとつ下の学年だったっけ……。え? ならもしかして、僕が倒したドラゴニアAは――本山君だったってことなのか?」


 待ち合わせ時間をだいぶ過ぎても姿を現さない彼女のお陰でただでさえ沈んでいる気持ちが、更にどよんと沈み込む。そしてそれは、暗い深海に迷い込んだプランクトンのように、深く、どこまでも深く、そのまま沈んでいった。

 なにせ、倒した相手がもしかしたら自分の知り合い――しかも孤児院の仲間だったかも知れないという恐ろしい現実が彼に突きつけられたのだ。

 免許証を持つ手ががたがたと震えだし、そのまま止まらなくなる。


「……でも、待てよ。確か彼には、同じ学年の親友がいたよな。名前が――」


 記憶を辿る彼の手の震えを止めたのは、ブリブリと震えるスマホだった。一通のメールが届いたことをテーブルに置かれた白いスマホが身悶えして知らせたのである。

 一瞬、警察からのものかと身構えた海谷正義だったが、画面表示が警察のものでなくて、ほっと胸を撫で下ろす。

 と、彼の視界が急に明るくなる。

 メールが、待ち合わせの彼女からだったのだ。


『海谷君、ごめんネ。今日、行けなくなっちゃいました。それから――もう二度と会えないかも。さようなら?』


「な……何かの間違いだ、きっと」


 そう思った海谷正義は、何度もそのメールに返信してみる。が、彼女からの返事はなかった。電話を掛けてみても、当然、通じない。


「彼女とはLINEはやってないし……とにかく、待つしかないな」


 良い子の憧れ、正義の味方「ジャスティス・タイガー」こと海谷正義はそう決心すると、もう一杯だけアイスコーヒーを注文することにした。



  ☆



 約束の時間から、既に三時間。

 結局――彼女は来なかった。


「会計……お願いします」


 汗か涙か、はたまた都会の澱んだ空気の湿り気のせいか――。

 妙な水分を含んで入店時よりもかなりぐったりと元気を無くした真紅のネッカチーフとともにレジに辿り着いた海谷が、店員さんに皺くちゃになった伝票を手渡した。

 店員さんは、最初に彼に注文を取りに来たのと同じ、足の綺麗な女性だった。今の彼には、その白くすらりと長い足が妙に輝いて見える。


「ありがとうございましたぁ……」


 注文を取ったときとは打って変わった優しい笑顔で見送ってくれた彼女の円らな瞳には、明らかに彼に対する深い憐みの色が湛えられている。

 扉を開けてカフェを出ると、彼は最寄りの駅へと向かった。

 20kgの重さの鉛の板を中敷きに仕込んだ靴を履いたかのような、重い足取りだ。


 ――また、フラれたよ。正義の味方って悲しいな。


 街角で立ち止まった海谷は、シャツの胸ポケットからスマホを取り出した。そして、手にしたスマホを雑居ビルの壁に向かって投げつけようと、振り被った。


「……」


 心の底から湧き出る暗黒のパワーに辛うじて勝ったのは、彼の良心だった。残念ながらその様は、普段の悪の組織との闘いのときのようなスマートな勝ち方ではなかったが……。

 ぴたり、振り被ったままの姿勢で腕の動きを止めた海谷は、荒い息を吐いた後、ポケットに純白のスマホを戻した。


「くっそー、ウルトラ・ショッカーの奴らめ。どうして今日に限って大人しいんだよ! このバッカヤロー!!!」


 都会の夕焼け空に向かって叫ばれた、魂の叫び。

 けれどもビルの谷間の小さな空は、一人の若者の声を抱え込んだまま何事もなかったかのように黙り続けるだけであった。



 <Interlude2 End>

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