第161話 唯花と〇〇〇〇
さて、無事に
ついでに葵のニヤニヤできる決意も聞けて、俺は大変満足だ。
と、思っていたら、ふいに
そして何を思ったか、ささっと葵の背中に隠れる。
まるで俺から逃げるように。
「唯花お姉様さん? どうしたんですか?」
「葵ちゃん、あたし、思い出しちゃった」
「思い出しちゃった……? 何をです?」
「えっとね、あ、でもこんなこと言っちゃっていいのかな……」
「いいです、いいです。なんでも話して下さい。わたしたち、女の子同士じゃないですか。遠慮なんていりません」
「うぅ、ありがとう、葵ちゃん。実はね……」
刹那、壮絶に嫌な予感がした。
唯花は何やらわざとらしく小動物のようなSOSオーラを発している。
葵は庇護欲を刺激されたのか、自分の肩に置かれた唯花の手を握り、何やら
伊織は俺同様に何か感じ取ったのか、すでに「また何か始まった……」と微妙な顔になっている。
「待て、唯花! お前一体、何を言うつもりだ……!?」
己の直感に従い、俺は唯花の口を封じようと手を伸ばす。
しかし一歩遅かった。
俺の手が届くより一瞬早く、にまーっと笑って、唯花は言いやがった。
とんでもないことを。
「あたしね、奏太からちょこちょこ言われてたの。もしもあたしが外に出られたら――」
恐るべき策士の目で。
「――その瞬間、秒で童貞さんを卒業するって!」
拝啓、お父さんお母さん。
中学生女子の俺を見る目が一瞬で変わりました。
「な……!? 最っ低! 奏太兄ちゃんさん、最低です!」
「ちがーう! 違うんだ、葵! いや違くはねえけど、違うんだって!」
確かにそういう旨の発言を何度かしたことはある。
でもあれは唯花が無防備な格好とかおかしな挑発をしてきた時のことであって、俺だって本気で言ったわけじゃない。
……が、純真な中学生女子にはそんな言い訳は伝わらなかった。
「唯花お姉様さんに近寄らないで下さい、このケダモノ!」
「ケダモノ!? お兄様さんどころか獣扱い!?」
「わーん、怖いよぉ、葵ちゃん!」
「安心して下さい。唯花お姉様さんはわたしが守護ります! ケダモノ兄ちゃんさんには指一本触れさせません!」
「ついに名前までケダモノ化したーっ!? いや冷静になれ、葵! 今の『わーん』、完全に棒読みだったろ!?」
俺には唯花の企みが手に取るようにわかる。
この恐るべき策士は俺をダシにして
なんという邪悪!
石仮面冒険的に言うならば、吐き気をもよおす『邪悪』とはッ、何も知らぬ
「騙されるな、葵! わざとだ! 唯花はお前の気を引きたくて、わざと怖がってるフリをしてるんだーっ!」
その証拠に唯花は葵の背中で『見たかね、唯花ちゃんの策士っぷりを!』というドヤ顔をしている。
そこに葵が振り返る。
「え、わざとなんですか?」
「ううん、わざとじゃないよ?」
唯花は瞬時に真顔になっていた。
「ほら! 唯花お姉様さんはわざとじゃないって言ってるじゃないですか!」
「なんで信じるー!? ずりいぞ、その女子同士のツーカーで信頼関係構築する感! 俺が今までコツコツ稼いできた、葵の
「そんな気持ち悪いポイント、最初からありません!」
「ないの!? ぐわぁぁ、ちくしょう……!」
俺はがっくりと崩れ落ちる。
もはや言葉による反抗は無意味。
視線で唯花に抗議する。
「『卑怯なり、諸葛唯明! 義の心を忘れたのか……!?』」
「『くっくっく、
「『慈悲を! せめて我ら民にも
「『愚かなり! 敗者に慈悲などないのでーす!』」
なんということだろう。
葵の背中に隠れたまま、唯花は後ろからハグするような姿勢に移行する。
「葵ちゃんの髪、良い匂い~♪」
「えっ、そうですか……? 唯花お姉様さんの髪こそツヤツヤで羨ましいです」
「およ、ほんと? 触ってみる?」
「いいんですか?」
「どーぞどーぞ♪」
「わぁ、やっぱりサラサラ。いいなぁ」
「葵ちゃんこそ、髪の毛ふわっふわで気持ちーよ? ほら、ふっわふわー♪」
「きゃっ。も、もうくすぐったいですよ~」
唯花が髪に顔を埋め、葵が身じろぎして照れている。
つまり女子同士でキャッキャウフフしている。
ちくしょう、なんだこの気持ち。
唯花が誰かとじゃれ合ってるなんて、本来は感動ポイントのはずなのに、なんか多角的に妬けてしまうぞ……!
「おのれ、こうなったら……伊織!」
「え、僕? ……いやー、巻き込んでほしくないんだけど」
「女子同士が結託してるんだぞ!? だったら俺たち男同士も協力して、どうにか唯花の策を打ち崩す作戦を考えるんだ。このまま葵を取られていいのか!?」
「いや、そういう話なの、これ……? そもそも奏太兄ちゃんの問題発言が発端だよね?」
俺の弟分はものすごく気乗りしない顔だった。
するとこっちの様子に気づいた葵が口を開く。
どこか窺うような視線を伊織に向けて。
「伊織くん……。伊織くんはわたしの味方になってくれないの?」
「――!」
伊織がはっとした顔になった。
おい、嘘だろ?
もう嫌な予感しかしない。
俺の懸念は的中し、伊織は葵と俺を交互にゆっくり見る。
そして迷うことなくあっちにいった。
「奏太兄ちゃん、最低だよ!」
「ブルータス、お前もかーっ!」
俺の精神は三国志から古代ローマに飛び、今度こそがっくりと突っ伏した。
どうやらこの四人でいると、俺が不利な立場に立たされることになるらしい。
ちくしょう、なんてこった……。
そうして哀しみに暮れていると、ふいに唯花が「あ、そうだ」と声を上げた。
「あたし、みんなでやりたいことがあったんだ」
「なんだなんだ、今度はなんだ?」
「そんなに警戒しないのー」
唯花はハグした葵とドッキング状態のまま、自分の通学鞄を開ける。
取り出したのはスマホだった。
「これ」
嬉しそうな笑みを浮かべて言う。
「四人で写真撮りたいなって」
「あ……」
「そっか!」
葵が気づいた顔をし、伊織も即座に頷いた。
そういうことなら俺も大賛成だ。
「よし、撮ろうぜ!」
修学旅行の朝、俺と伊織と葵は三人で写真を撮って、唯花に送った。
伊織と葵が並んでいて、俺は伊織の横。
そして葵の横には一人分の空間を空けておいた。
いつかそこに唯花がくるんだぞ、というメッセージを込めて。
そのいつかが、今、来たのだ。
俺は唯花のそばにいき、スマホを受け取る。
すると葵が小首を傾げた。
「あ、でも誰が撮るんですか?」
伊織も思案顔になる。
「そうだね。自動でも撮れるけど、せっかくならウチを背景にした方がいい気がするし、そうなると道路から自動で撮るのはできないし……」
確かに撮り方には工夫が必要だな。
「奏太、腕とか伸ばせない? こう、ビヨーンって」
「生憎、悪魔の実は食ってないからな……」
ここは素直に助けてもらうのが一番だろう。
なので、俺はやや大きめの声で言ってみた。
「あー、誰か俺たちの写真を撮ってくれる親切な先生はいねえかなー」
「――まったく、わざとらしい言い方をする奴め」
呆れたような声が曲がり角から聞こえてきた。
「私で良ければ、撮ってやるぞ?」
そう言って曲がり角から出てきたのは、ポニーテールがトレードマークの中学教師。
朝ちゃんだ。
通勤前だからか、今日の格好は清潔なワイシャツにロング丈のタイトなパンツ姿。
ちなみに朝ちゃんは現在、伊織の担任である。なので中学生組がまず目を丸くし、挨拶をした。それに先生然とした顔で挨拶を返し、朝ちゃんはこっちにやってくる。
その視線は俺にばかり向いていて、唯花を委縮させないように気遣っているような雰囲気だった。なんというか、この人らしい。
「……私のことは気にするなと言ったろ」
「写真を撮ってくる人が必要になっただけだって」
小声の早口でそんなやり取りを交わした。
あらかじめ朝ちゃんをここに呼んでいたのは俺だ。
せっかくの唯花の門出なのだから、ずっと俺たちを見守ってきてくれたこの人を呼ばない理由はない。
だが子供の頃に遊んでもらっていたことを俺も覚えていなかったように、唯花にとっての朝ちゃんは中学校の頃の担任以外の何者でもない。
だから朝ちゃんは路地からそっと唯花の登校を見送ると言っていた。
それを知っていたから、こうして呼んだというわけだ。
さて、どうするか。
唯花にこの場で事細かに話してもいいが、それは朝ちゃんも遠慮しそうだし、とりあえずは中学の頃の担任がたまたま通りかかったという
しかも。
それは俺も朝ちゃんもまったく予想していなかった言葉だった。
「あーっ、朝ちゃんだー!」
「へ?」
「な……っ」
唯花は俺の横を駆け抜けたかと思うと、なんと朝ちゃんに抱き着いた。
完全に懐いている顔だった。
「朝ちゃんもきてくれたの? やった、嬉しー! これもあたしの人徳のなせる技というものだねっ」
「き、如月姉……いや、ゆい……その、私のことがわかるのか?」
「え、わかるよ? 当たり前じゃん」
きょとんとして、唯花は朝ちゃんの顔を見つめる。
「子供の頃、ウチにきて、いっつもあたしや奏太と遊んでくれたでしょ?」
「お、覚えていたのか……っ」
朝ちゃんの両目が大きく見開かれる。
信じられない、と言うように。
俺も思わず唯花の肩を叩く。
「マジでか? 本当に朝ちゃんのこと、覚えてるのか?」
「いや覚えてるでしょ、そりゃ。お母さんが大量にお菓子買ってきて、ぱくぱくやってる時に『唯花、撫子先輩みたいに暴飲暴食な大人になったらダメだぞ』って諭してくれたのは朝ちゃんだし。ずっと引きこもってたあたしが今もこうしてスリムなのは、あの時の朝ちゃんの言葉のおかげだし」
「マジでか……」
「マジマジ。あと『いつか、もう誰にも頼れないという時がきたら、奏太を頼れ。お前の世界が壊れそうな時でも、あいつは変わらずそこに立っている』って教えてくれたのも朝ちゃんだし。子供の頃は意味がわからなかったけど、引きこもった時、あの言葉を覚えてたから、あたしは勇気を出して奏太にだけは甘えられたんだよ」
思わず朝ちゃんの方を見る。
俺たちの先生はほんの少し潤んだ目で苦笑していた。
どうやら本当にそういうことを言っていたらしい。
いや、これはマジで恐れ入った……。
子供の頃から俺たちを見守ってくれていた、この偉大な人は、本当に先の先のことまで見通して、布石を打ってくれていたのだ。
そして唯花はその長年の優しい眼差しにちゃんと気づいていたらしい。
「中学校の頃も担任しながらずっとあたしのこと、フォローしててくれたよね。たぶん先生らしくしたいんだろうなって思って、あたしも朝ちゃんって呼んだりはしなかったけど……」
唯花は恩師の手を握り締める。
「ずっと感謝してたんだ。ありがとう、朝ちゃん!」
「ば……っ」
満面の笑顔で告げられた、お礼の言葉。
朝ちゃんの目頭が緩み、慌てたように顔を逸らす。
「馬鹿を言うな。礼を言われるようなことじゃない。私はお前たちのオムツだって変えてたんだぞ……? お前たちは……」
つぶやきが風に乗って耳に届く。
「……私の弟と妹みたいなものなんだから」
そんな自分の言葉に朝ちゃんは苦笑した。
「そうだな。弟や妹に遠慮などする必要はないか……」
手を伸ばし、優しく唯花の髪を撫でる。
そして。
そっと囁くように言った。
とても暖かい、春の日の陽だまりのような笑顔で。
「おかえり、唯花」
打てば響くように返るのは、元気いっぱいの嬉しそうな返事。
「うんっ、ただいま! 朝ちゃん!」
…………。
…………。
…………。
それから俺たちは朝ちゃんに写真を撮ってもらった。
伊織と葵が真ん中に並んで、伊織の隣には俺、葵の隣には唯花が立った。
もうぽっかりとした空間は空いていない。
シャッター音が鳴る間際、俺と唯花は自然にお互いをチラリと見て、目が合った。
どちらともなく手を伸ばし、伊織たちの背中越しに手を繋ぐ。
軽やかに響くシャッター音。
如月家を背景にした、俺たち四人の最高の写真が出来上がった。
朝ちゃんに『帰ってきたら一緒に晩御飯を食べよう、写真も撮ろう』と約束し、やがて見送ってもらった。
両親に笑顔で『いってきます』をして。
照れ屋で優しい姉に見送ってもらって。
そして。
唯花と俺たちはついに学校へ辿り着く――。
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