第160話 唯花と葵(葵視点)
わたしは今、
「どうしよう……心臓の鼓動が収まらない」
緊張でどうにかなってしまいそう。
わたしは自分の胸に手を当てて、深呼吸を繰り返す。
今日、伊織くんのお姉さんが学校にいく。
ずっとお部屋にこもっていたお姉さんがついに外に出る。
その付き添いにわたしも呼んでもらえたことはすごく嬉しい。
でも同時に不安で不安でしょうがない。
わたしなんかが一緒にいて、いいのかな。
お姉さんが学校にいくなら、奏太兄ちゃんさんはぜったい必要。
すごい変態さんだけど、すごく頼りになる人だから。
修学旅行でそれがわかった。
きっと奏太兄ちゃんさんがそばで支えてくれたから、お姉さんは今日という日を迎えられたのだと思う。
奏太兄ちゃんさんはすごい人。本当に変態さんではあるけれど。
それにお姉さんを支えるのなら、伊織くんもいなきゃダメ。
優しくて優しくて、どこまでも優しくて、でもいざという時、伊織くんは本当に格好良い。伊織くんがそばにいたら、お姉さんも安心できると思う。
でも、わたしなんかがいて……いいのかな。
どうしても心配になってしまう。
自分なんかがいて役に立てるのかなって。
「……だめだめ、そういう考え方はやめるって修学旅行で決めたんだから」
ついマイナス思考になっていたことに気づいて、慌てて首を振る。
伊織くんはわたしを選んでくれた。
修学旅行の時、怖気づいて逃げ出してしまったわたしを伊織くんは追いかけて、そして引き戻してくれた。
もう逃げない。
自信を持とう。だって……。
「……わたしは伊織くんのカノジョなんだからっ」
「え?」
「え? ……あっ」
玄関の扉が開いて、伊織くんが顔を出していた。
目を丸くしてこっちを見ている。
聞かれた。今の一言、聞かれちゃってた……!
頬が一気に熱を帯びる。
やだ、恥ずかしい。泣きそう……っ。
「ご、ご、ごめんなさいっ。違うの、えっと、わたし、今勇気を出そうとしてて、それでつい……!」
「ぜ、ぜんぜん! ぜんぜん謝ることなんかじゃないよっ、本当ぜんぜんだよ!」
伊織くんが慌ててこっちに駆けてくる。
玄関から出て、わたしの前へ。
「あのっ、僕もね……!」
ぎゅっと手を握ってくれた。
嬉しくて、びっくりして、わたしは息をのむ。
そして、
「葵ちゃんのカレシだってことが僕の勇気になってるから……!」
伊織くんは真っ直ぐにそう言ってくれた。
鼓動が跳ね上がる。
ドキドキし過ぎて心臓が飛び出してしまいそう。
「伊織くんも……?」
「うん、僕もだよ。葵ちゃんと同じ気持ちだよ」
「……嬉しい」
きゅっ……とわたしも伊織くんの手を握り返した。
途端、伊織くんが「わっ」と小さく声を上げる。
その反応が可愛くて、ちょっとイタズラ心が湧いてきてしまった。
また、きゅっ、きゅっと力を込めてみる。
「も~っ」
からかわれていることに気づき、伊織くんもきゅっとしてきた。
「あ……っ」
わたしも声がこぼれてしまう。恥ずかしくなって「あ、あはは」と笑って誤魔化した。
でも伊織くんは逃がしてくれない。奏太兄ちゃんさんみたいなイタズラ顔で見つめてくる。
「葵ちゃんの今の声、可愛かった」
「か、からかわないで……」
「先にからかってきたのは葵ちゃんだよー?」
「うー……」
伊織くんの顔が近い。
恥ずかしくなって目を逸らす。
わたし、きっと顔が真っ赤になっちゃってる……。
でもなんだか良い雰囲気だった。
「葵ちゃん、こっちを見てくれたら……嬉しいな」
「でも……」
と言いつつ、わたしは伊織くんにお願いされたら断れない。
おずおずと顔を上げる。
目が合った。
伊織くん、まつ毛長いな……。
見つめ合っているうち、次第に距離が近づいていった。
ゆっくり、ゆっくり……そしてわたしたちは修学旅行以来のキ――。
「あー、お二人さん。悪いんだけど……いや本当、心底悪いとは思ってんだけども、そういうのは後でいいか?」
いきなり声を掛けられ、ビクンッとわたしたちは飛ぶように離れた。
デジャブを感じる。
修学旅行の時も似たようなことがあった。
声のした玄関の方を見ると、
「奏太兄ちゃん!?」
「奏太兄ちゃんさん!?」
「おー、お前たちの奏太兄ちゃんだぞー?」
扉を開き、奏太兄ちゃんさんがひらひらと手を振っていた。
見られた。
また見られちゃった……っ。
どうしてこの人はいつもこういうタイミングで出てくるのだろう。
いや今回の場合、お姉さんの大事な日に盛り上がったわたしたちが悪いけれど、それにしてもタイミング……っ。
「おー、葵がわかりやすくへこんでるな。安心しろ。そういう時期は誰にでもある。俺と
「どの口が言うんですか、って百万回くらい言いたいのに、今のタイミングだと言い返せない自分が情けないです……っ」
「あと伊織。グッジョブだ」
「やめてやめて奏太兄ちゃんやめて本当やめて。『さっき俺たちに言ったことがブーメランになってんぞー、と思うけど、俺は話のわかる兄貴分だから言わないぜ?』みたいなドヤ顔でサムズアップしないで。僕と葵ちゃんは奏太兄ちゃんとお姉ちゃんとは違うから。二人と違って根本のところがちゃんと常識人だから!」
奏太兄ちゃんさんにニヤニヤされて、伊織くんとわたしはすごく落ち着かない。
すると突然、奏太兄ちゃんさんが半開きにしている扉の奥から声が響いた。
女の人の声だった。
「――いってきまーす!」
あ、もしかして……っ、と思った瞬間、奏太兄ちゃんさんがニッと笑った。
「待たせたな。唯花の登場だ」
扉が開かれていく。
奏太兄ちゃんさんはお姉さんに扉を開けてあげるために、半開きで待機していたらしい。
ど、どうしよう……!
わたしは緊張がピークに達するのを感じた。
不安が一気に増してくる。
奏太兄ちゃんさんに変なところを見られたせいで、気持ちがぜんぜん整っていない。
お姉さんは今日、本当に久しぶりに外に出る。
きっと心配や不安が胸に渦巻いてるはず。
玄関から出た瞬間は本当に不安だろうし、ひょっとしたら泣きそうになってるかもしれない。
だからこそ、わたしの方がしっかりしてなきゃいけない。
初対面でもちゃんと挨拶をして、大丈夫です、一緒に頑張りましょう、って伝えなきゃいけない。
なのに、そのわたしがこんな動揺したままで……っ。
「足元気をつけろよ?」
「ん、わかってる」
奏太兄ちゃんさんが支えるように手を添える。
そして、ついに――お姉さんの姿がわたしの瞳に映る。
その瞬間、わたしは息をのみ、呼吸さえも忘れてしまった。
「……っ」
なんて、きれいな人だろう。
風にそよぐ髪は黒曜石のように艶やかで。
肌は透き通るように透明感に溢れていて。
顔立ちは絶世の美女という言葉そのものの。
こんなにきれいな人がこの世にいるなんて信じられない。
中学校の伝説にもなっているし、伊織くんから写真を見せてもらったこともある。
だけど実物のお姉さんはそんなもの超越するほどの美少女だった。
つい茫然と見つめてしまっていると……お姉さんがわたしに気づいた。
「あ……」
玄関にいるお姉さんと、門扉の前の道路にいるわたし。
視線が合い、一瞬の間が生まれた。
「ひょっとして……葵ちゃん?」
まるで上質なフルートの響きのように声さえも美しかった。
返事をしなきゃ。
すぐに答えなきゃ。
頭ではわかっているのに、上手く口がまわってくれない。
「は、は……はいっ」
ようやく絞り出すように言い、焦りはさらに加速する。
すぐに次の言葉を言わなきゃ。
お姉さんを不安にさせないように、何か気の利いた言葉を……っ。
でも焦れば焦るほど、頭が真っ白になっていく。
もともと気負っていたところに予想を遥かに超えたお姉さんの美しさに当てられて、わたしはもうパンク寸前だった。
でも突然、お姉さんがブツブツとつぶやきだした。
「葵ちゃん……伊織のカノジョ……それはつまり……」
え、わたしの名前?
それに伊織くんのカノジョって……。
と、目を瞬いた瞬間、キラーンッとお姉さんの目が輝いた。
「あたしの
「ええええええっ!?」
弾けるように地面を蹴り、お姉さんがしてきたのは、まさかのダイブ。
一瞬で距離がゼロになって、思いっきり抱き締められた。
「葵ちゃん! 葵ちゃん! 葵ちゃん! 逢いたかったよ、あたしの
「えええええっ、まさかのテンションが奏太兄ちゃんさんと同じベクトルーっ!?」
「まあ、幼馴染だからなぁ」
「まあ、幼馴染だからねぇ」
一歩下がったところでほのぼの見てる奏太兄ちゃんさんと、どこか諦めた顔の伊織くん。
助けてくれる気配がぜんぜんない。
わたしはまるでぬいぐるみみたいにぎゅぎゅぎゅーっと胸に抱かれてしまう。
お姉さんはプロポーションもすごくて、女の子同士だけど、スタイルの良さと胸の柔らかさに圧倒されてしまいそう。
「ねえねえ、葵ちゃん!」
「は、はい、なんでしょう……?」
「あたしのことはっ」
至近距離できゅぴーんと笑顔。
「唯花お姉様って呼んでくれていいからね!」
「ゆ、唯花お姉様……さん?」
目をぱちくりして反芻。
すると今まで大人しくしていた奏太兄ちゃんさんが声を上げた。
「ちょっと待った! 俺が『兄ちゃんさん』なのに、なんで唯花は『お姉様さん』なんだ!? 不公平だぞ、再審議を要求する!」
「えー、なによー。じゃあ、奏太も『お兄様さん』って呼んでもらえばいいじゃない?」
「名案っ、それはすこぶる名案! じゃあ葵、今日から俺も『奏太お兄様さん』な?」
「嫌です」
「即答!?」
とりあえず奏太兄ちゃんさんの提案は却下。
わたしは呼吸を整え、改めてお姉さんを見上げる。
「えっと、あの……」
「うん? なになに、どうしたの?」
すごく楽しそうな笑顔で興味津々にわたしの話を聞いてくれようとしている。
なんか……無敵感がすごい。
調子に乗ってる時の……というか、頼りになる時の奏太兄ちゃんさんと似たような雰囲気がある。
わたしが思ってた不安とか心配なんてぜんぜんないみたい。
「は、はじめまして、星川葵です。ちゃんとご挨拶しなきゃと思って」
「あっ、そっか。そうだよね。これは失敬」
ようやく胸から解放され、お姉さんはごほんと咳払いした。
宝石みたいにきれいな瞳がわたしを見つめる。
「如月唯花です。奏太の幼馴染で、伊織のお姉ちゃん。葵ちゃんの話もね、奏太からいっぱい聞いてるよ」
「え、いっぱい? そうなんですか?」
「うん」
にひ、と笑い、耳打ちされた。
「ファミレスのこととか修学旅行のこととか。伊織はほんっとーに葵ちゃんのことが大好きなんだなぁ、っていうのがあたしの感想だよ?」
「……っ」
なんだかすごく照れてしまう。
だって実のお姉さんからの言葉だから。
伊織くんとの仲をご家族に認めてもらえたような感じがして……嬉しさでドキドキしてしまう。
「伊織がいつもお世話になってます」
「こ、こちらこそ! 伊織くんのおかげでわたし、毎日が楽しくて、自分のことも好きになれて、あのっ、すっごくすっごくお世話になってます……っ」
「そっかぁ」
こぼれるような微笑み。
お姉さんは少ししゃがんで、わたしに視線を合わせてくれた。
そして今度は真面目な雰囲気と、とても優しい瞳で囁く。
「葵ちゃん、伊織を選んでくれてありがとう。あたしに奏太がいてくれたように、伊織も葵ちゃんに出逢えたことで強くなれたと思うんだ。弟のこと、これからもよろしくね?」
胸が熱くなった。
認めてもらえたような、じゃない。
わたしは今、認めてもらえたんだ。
何もない、平凡な女の子だったはずのわたしが。
あの伊織くんのご家族に。
こんなにきれいな人に。
認めてもらえたんだ。
「唯花お姉様さん……」
わたしは背筋を伸ばす。
感動の勢いのまま、唯花お姉様さんに返事をする。
「はいっ、こちらこそ末永くよろしくお願いします! 伊織くんのことは……わたしがぜったい幸せにしますから!」
「葵ちゃん!?」
「その意気や良し! それでこそあたしの
「ふっ、妬けるぜ。俺たちは素晴らしい
ほくほく顔で満足している唯花お姉様さんと奏太兄ちゃんさん。
伊織くんは真っ赤になって動揺していて……その数秒後、わたしもはっと我に返って、顔から火が出そうなほど狼狽したのでした。
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