サナのねがいごと

秀田ごんぞう

プロローグ

 ロンドンのとある病院。私は「Sanae Aso」というネームプレートを確認し、ノックをしてから病室に入る。


 病室には白い大きなベッドが一つあって、彼女はベッドの上ですうすう……と、穏やかな寝息を立てていた。


 壁も、床も、天井も……カーテンに至るまで白系統の色で統一された病室は、まるで彼女が眠るこの空間が、世界から切り離されているような感覚を与える。もう夜だというのに、この部屋にいると真昼のような印象を受ける。それもそうかもしれない。三年前のあの日から、私と彼女の時間は止まっているのだ。彼女が眠ってしまったあの日から――。


 ベッド脇に設置された心電図モニターはピッ……ピッ……ピッ……と無機質な音を出し、彼女の心臓が規則的に鼓動していることを告げる。


 彼女は何も言わない。何も食べない。何も欲っしない。


 ある日の不幸な事故によって物言わぬ体となってしまった彼女は、体中をたくさんの管で繋がれ、かろうじてその儚い生命を維持している。

 このたくさんの管のうちのどれか一つでも外そうものなら、たちまちに彼女の呼吸は停止し、心臓はやがて動きを止め、彼女は決して覚めることのない永遠の眠りへと誘われる。

 今や彼女の体の状態は、植物のそれと酷似していた。


 私は彼女の額に手を触れてつぶやく。


「早苗……お前が眠ってからもう三年だ。いつになったらお前は目を覚ましてくれるんだ? またお前が作ったムニエルが食べてみたい。父さんはお前が眠ってからずっと一人ぼっちで寂しいよ。だからどうか……目を覚ましておくれ……」


 しかし、彼女は私の呼びかけには応じず、何も答えない。穏やかな寝息を立てるだけで、私の声には反応しない。彼女に私の声が届いているのか、それさえも分からない。

 ふと、彼女が以前言っていたことを思い出す。事故に会う前、イギリスへ引っ越してきたばかりの頃、彼女は窓の向こうを寂しげに見つめながらよく言っていた。


「――ねえ、お父さんの願い事ってなあに?」


「願い事? そうだなぁ……今手がけてるプロジェクトの成功かな。これが成功すれば世の中はひっくり返るぞ!」


「もう、お父さんは仕事の話ばっかり。お母さんもきっと呆れてるよ」


「そ、そうか!? じゃあ、早苗の願いはどうなんだ?」


「私? 私は――出来ることならもう一度あの子に会いたいなあ。”れんとん”って言ってね、すごく優くて、かっこよくて、向こうにいた時の私の一番の友達なんだ」


「……また、いつか会えるといいな」


「うん!」


 その時の彼女の眩しいまでの笑顔が、今でも忘れられない。


 娘が事故にあってから、私は狂ったように研究に没頭した。植物状態の娘に私ができる事は、せめて、彼女の願いを叶えてやることくらいしか無かった。その思いで、文字通り血肉を削って研究に打ち込み、ようやく私は娘の願いを叶える方法を発見したのだ。


 私はベッドに横たわる彼女の手を取り、そっと握る。長いこと日を浴びていないために真っ白くなった彼女の手は、それでも確かな温もりがあった。


 やがて面会時間を過ぎて、私は名残惜しくも病室を去る。去り際に彼女を見ると、彼女は一瞬だけ笑っているように見えた。自分の願望が見せた幻想だろうが、それでも私には彼女が「またね」と言っているように思えた。


「早苗。また明日来るからな」


 それだけ言って私は病室の戸を閉めた。ガラガラと、戸のローラーが床を擦る音が響いて、やがてパタンと閉じた。


 ふぅ……と息をついて私は病院を後にした。


 外はすっかり冷え込んでいて、コートを着ても寒かった。見上げると、張り詰めた空気のおかげで星空が綺麗に見える。星々はそれぞれ違った輝きを放ち、それらが組み合わさって、とかく幻想的な星空を作り上げている。


 その時、一筋の流星が光の糸をひいて消えていった。





 ――早苗……お前の願いは父さんが叶えてやるからな。だからどうか……。


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