魔王と勇者は、結婚していた。
タナカつかさ
第1話 それはとても平和な世界での話。
剣撃と拳撃の応酬、魔術と法術、不可視の力と、せめぎ合う気迫の激突――
常識を覆すような速度と密度の、命と命の凄絶な奪い合い。
それは、人を越えた者達の戦いだ。光弾が撒き散らされ、焔が宙に咲き乱れ、氷の刃が戦塵を巻き起こし、血風が吹き荒れる、いつ何が覆されるかも分からないその終止符は勇者が振り翳した乾坤一擲、聖剣の一刀で訪れた。
魔王の体を清廉な銀の刃が通り抜ける。その存在を否定するように斜に走った赤い線から命の水を噴出する。
そして、末期を悟った魔王は、紅き衣を纏った勇者の前でそれでも狂気に彩られたよう踊りながらに慟哭する。
「この世界は悪夢だ! 終わりのない永遠の理想郷! 私を倒してもこの幻想は終わらない! この物語は夢幻ゆめまぼろし! 我々魔族から見た悪夢はこの世界そのものだ!!」
それは奇々怪々に、
「『現実と空想が入り乱れた永遠に続く無間にして夢現の時の狭間』『永劫という呪いの中で踊り続ける虚構の住民よ!』『――世界が見た悪夢、人間よ!』『貴様らこの世界にいる限り、決してこの呪いは解けない!』『人の心に悪がある限り、この夢から覚めることは永遠に訪れないのだ!』」
魔王の五つの獣の相を持つ体が、それぞれに壊れたように叫びだす。
そして堂の上に載った人の顔が、最後に狂笑いを吐き出して、
「ふふふふふふふぐくくくくくくハハハハハハ、はははははははっ!」
「我らは全て、夢から生まれた無間の住民……全てが咎人……」
まるで慙愧の念であるかのように、、
「我らは……我らは……」
赤い鉄錆を口から吐き出し、魔王は天を仰いだ。
何を言っているのか、そこにいる勇者たちは理解できない。まるでそれを言う本人ですらもそうであるかのように、彼の貌からは知性と理性は感じられなかった。
だが、最後にふとそれを取り戻したように、穏やかな眼をして、命が尽きようとしている。
そこで何を見たのか、魔王は幽鬼のよう歩き始める。
そして、突如として微笑み、
「……あぁ、ようやく、我も……」
紅いガラス玉のような、瞳に灯る最後の光が、消えた。
魔王は穏やかに、その玉座に腰掛け眠りについたのだ。
「――ハイ、こうして魔王は勇者に倒されました」
パタン、と本を閉じる。それは歴史の教科書である。
その後「そして世界に平和が訪れた」と記されているように、魔王は敗北し勇者とその仲間の旅は終わりを告げた。それから彼らは世界を巡り、荒れ果てた国々を復興する為に尽力するかと思われたが、彼らは忽然とその姿を消した「勇者が世界を救うとしても、その後の平和――ごくごくありふれた日常支えて行くのはごく普通の人々だから」と。
その力は世界が危機に瀕したときのみ役立てるべきだと――四人の戦士たちはその行方を晦ました。だが今も陰ながら世界を救う為に奔走している――とかしていないとか、まことしやかに囁かれている。
その真相は誰も知らない。しかし――
「――そもそも、何故勇者は魔王と戦ったのか」
教師は疑問を投げ掛け、そして返答する。
「それは天候不順です。天気が悪いと作物が育たなくなります。お腹がふくれません、暴動が起きます――飢饉です。
――それは誰の所為ですか? 人が理解できず制御できない未知の存在――魔王、や、魔族、はたまた精霊か悪しき神々か――でも違います」
黒板に各国の農業収益、犯罪数などを書き連ねたグラフが教室の天井からスクロールで垂らされ、そのどれもが魔王の悪行を否定している。
その事実にどやどや、がやがやと席がざわつく。
身も蓋の無い言い方をすればそれは、
「ぶっちゃけただの冤罪です、まあ常套手段ですね。そして人と魔族との対立も概ねとんだ風評被害か陰謀か――まあこの手の話の古典的なネタはよく尽きませんが、潜在する不安や不満に実像を――目に見える形を与える――それには未知の存在、人の姿を逸脱し超越した力を持つ魔族は格好の対象だったわけです」
本当に身も蓋もないが、魔王は別に世界征服をしたかったわけでも破壊したかったわけでもない――むしろノータッチ、そんな風にあっけらかんと教師は教壇で鞭を取る。
あれはどちらかといえばれっきとした正当防衛だ――と、心の中で実感を噛み締めながら、その教師は自分の知識を言葉にする。
「――そもそも魔族と言うのは過去、旧世界における突然変異で生まれた特殊能力者や、見た目がちょっと変わってしまった人達――そして、減り過ぎた人口を増やすために作られたいわゆる亜人種が、差別、被支配階級、生まれながらの奴隷として同じ人間に迫害されるときに用いられた蔑称です」
青い肌、爬虫類の鱗、頭から生えた角、獣耳やしっぽに牙に爪、剣も通さない体毛。
翳した手から火を、水を、風を、翼も無いのに空を飛び、一振りで大地に谷を作る腕に千里を見通す眼――異能力。
死を否定するほどの寿命であろうと、元は立派な人間であった。もしくは人の都合で人間になった者たちだった。
だが、
「あ、この辺歴史から抹消されてますから気を付けてくださいね、よく覚えておくように――抹殺されたくなかったら誰にも言わないでください」
「先生、そんなことぽろっと言わないでください」
機密の保持はどうなっているのか。しかし友好的フレンドリーに教師は軽く笑って、
「何言ってるんですか。これは歴史の授業ですよ? ちゃんと真実を学びましょう」
生徒たちも苦笑する、良好な関係である。
何故そんな歴史の真実を知っているのかと、疑問に思う生徒は居ない、何故なら教師はその長命の魔族だからだ。
それはなんとも微笑ましい授業風景だった。気さくに単純明快に、しかしさりとて風紀が乱すわけではない。
生徒たちは皆机の下で爪先を乱そうと綺麗に目を揃えて教師に視線を注いでいる。
その好奇心に任せて、
「でも、本当なんですか?」
「本当ですよ? ウン万年どころかウン十億年生きてる私が保障します――まあそれだけ生きてると記憶もだいぶ曖昧ですが」
「ダメじゃん!?」
「ですがここ最近の出来事に関しては確かですよ?」
鉄板の寿命ネタにそぞろな笑い声が響くと、教師は朗らかに白衣を翻し黒板に向かう。
「まあ、色々あったんですけどね。一度世界が崩壊して正確な記録媒体や歴史自体が途絶えて、口伝の民間伝承が曲解や誤解を招き、根も葉もない創作物の悪い印象やイメージが先行して……で、今から丁度1万年くらい前あたりで改めて人と魔族が接触、そこで見れば異形の第一印象から――こいつらは敵だ、と」
座席に着く生徒たちを指す。
そこにはただの人間と、犬耳、猫耳、樹皮の皮膚、鱗の肌、龍頭、虎顔、ウサ耳、文字通りの岩肌まで、大小さまざまな異種族が居た。生徒たちはそれを眺め、睨み合うものも居れば苦笑いしあそれも居て、どこ吹く風と笑い合う者達もいた。
とても争い合っていた種族同士とは思えない。今でこそこうして同じ場に何気ない日常を送るようになったが――
それこそ初めて顔を合わせた時は眉間に皺が寄り、歯に衣着せぬ様な状態だった。
その恥ずかしい過去を思い返す様に、それを若干頬を引き攣らせてもいた。
それは今の話、そしてこれは過去の歴史だと意識しながら、彼らは教師の語り口に耳を傾ける。
「――そこでやっぱり戦争が勃発、相手は生物として相いれない害獣、悪魔――これは人類の埃と生存権を掛けた聖戦だ! と――紛争に次ぐ紛争、宗教的な対峙も巻き込んで、世界はいわゆる末世と呼ばれる状況に陥り……双方にもはや拭い去れないほどの罪の歴史が積み重なってしまったわけです」
もっとも初期の闘争の理由は、同じ人族同士での結束を深める為である。
旧世界崩壊時、この世界に魔物が溢れ出したとき、それまでの豊かな生活の保障を奪われた数多く人々の精神的均衡を保つ為、時を同じくして現れた異形の人間を生贄に捧げられたあまりにも大きな犠牲だった。
だがそれはそのとき死んだ人間の事ではなく、そのとき犯した罪と、人としてあるべき心を失い手に染めてしまった狂気のことだった。
「――もっとも、人種差別という問題は世界が人と魔族とで二分される前からの問題ですね。悲しいですねえ……世界が変わり、時代が変わり、人が変わり……それでも歴史は繰り返す、それが何よりも悲しい歴史といえるでしょう」
変わらない未来、と、過去という奴だ。進歩の無い証である。
これまでずっと、魔族と呼ばれるようになった人間を人間とは認めず、殺戮、虐殺、禁忌の嵐――奴隷、標本、牧場――その復讐の為に、魔族側が生存権や人権を主張し彼ら人こそ人の心を失くした悪魔だと人族の殲滅を志していた。
住む場所を完全に分けてからは領土と資源問題――利権が絡み、旧世界と同じ闘争が開始された。その言い訳に作られる新たな正義と倫理、上塗りされていく嘘、人を狩ることが整然とされ誰もが正気を失っていく様な戦争や紛争が繰り返され――
それはもはや戦争ではなく、狂気こそが理性である世界だった。
あのとき、本当の意味で世界は崩壊したのだと教師は思う。
まあそれは過去の話――しかしそんな長い闘争によって文明、文化が衰退し、かつて栄華を誇った旧世界はそれこそ滅び世界の精神性は退行した。
それでも残った人間達で失われた知識と技術を復活、復旧を進めつつ、新たに世界に加わった【奇跡】【加護】【魔法】【魔術】という法則を利用した新世界文明が築かれ始めて幾星霜の彼方……今日がある。
そして。
魔王と勇者の戦いが終わったことを切欠に、今また世界に転換期を迎えようとしていた。
だが人と魔族が新たに歴史を刻むためには、いまだその間に高く険しい断崖は多く、両者の間にあまりにも大きく横たわっている。
その数々の問題を乗り越える為、両種族の融和政策がこの交流都市クロスロードにて行われているのだ。
今この場所で、そこに作られたこの多数の種族が入り乱れる学園も、その一端で――
その教壇で、先程から講義をしている教師は今日も世界の平和の為に熱心に教鞭を降ろし、
「……まあ難しいですよね、嫌いな奴の事を嫌いになるなって言うのは」
おおっぴらに、言ってはいけないことをぶっちゃけていた。
それは平時であれ戦時であれごく当たり前の心の機微ではあるが、教育者としてはあまりよろしくない言動である。
でも、彼は続けてこうも言う。
「……でもはっきり言って適当に仲良くしとかないと面倒なんですよね……。いちいち嫌いになって、ムカついて、イライラして、ムシャクシャして……面倒臭いでしょう? 一々そんなことしてたら本当に疲れるし気に病むし……いや正直面倒でしょう」
ござっぱりと。
それは大げさな見方から同級生の嫌な奴レベルに言い換えられているが、その深刻な問題をあくまでその教師はそう難しく考えずにいた。それどころか、
「ていうか、そんな暇なんですかね? 他にやることなんて幾らでもあるでしょうに」
続けて小馬鹿にするようなそれに、そりゃまあそうだけどと生徒たちは苦笑する。
確かに、よくそんな暇があると思う、よくよく考えれば無駄な時間だと。その内心の追随に追随し、
「他人を怨んだり、正直もっと真っ当な目標とか無かったのかなあ――気付いたら自分の手の中も思い出も、人を怨んで羨んで真っ黒なんですよ? 想像するだけでも無駄な時間――不毛だと思いませんか?」
それは未成年ながらに分る話だった。
つまらない人生、自分で自分の人生を黒く塗潰している。本当に笑って生きられる人生ではなくなってしまう――いや、笑っていても本当の幸せではなくなってしまうだろう。
好きでもない人間に関わるくらいなら仲の良い友達と遊ぶ方がいい、そうでないならバイトに精を出し小遣いの足しにするなり、自分の将来の為、勉強なりなんなり努力の貯蓄をしていた方が有意義だ。
本当にやりたい事、夢とか目標に現を抜かしていた方が、遥かに充実した時間になる。
それは分かる、例えば暴力やいじめ、何が楽しいんだろうと思う。時間という観点で語るのであれば、明るい未来、というものを捉えていないと言えるだろう。
本当に有意義かといえば、刹那的で無意味であり不毛だろう。
目障りなものを排除しても、それはほんとうに欲しいものに手を伸が届いているのだろうか? 負の感情を肯定し身を任せても、それは自分に自分は悪くないと言い聞かせている後ろめたさ故ではないのか。それで清々しく笑えるのだろうか?
逆に不幸の中でも笑えるのは、真っ当な事をしている人間ではないだろうか?
そんな割と重たい話をしている筈なのに、教師は、それを簡単な言葉に要点を収束させる。
「まあ要は、どう生きたいのか――」
そして、
「さて、それを踏まえた上で……どうすれば人は繰り返されてきた過ちの歴史を乗り越えられるでしょうか?」
それは明らかにテスト向けの勉強でも普通の歴史の授業でもない。
それはこの世界の全人類に架せられてしまった課題である。
何千年、何万年経とうとなくならないゲームのテーマだ。
それを教師は問う、
「制度ですかね? 人の良心でしょうか、それともそれに寄らない知性でしょうか、宗教でしょうか、それとも腕力でしょうか……それは――それこそ歴史だろうと、私は思います」
いつだって、彼はそれを追い求めそして提起する側だった。そんな彼の言葉に頭に疑問符を浮かべた生徒達に、彼は柔らかな表情で言葉を付け加える。
「単純な話ですよ……間違えた歴史を見て、こいつらはダメだ、と思うのなら、この人達なら大丈夫、と思える新しい歴史を作ればいいんですよ」
問い掛けの難しさに反し、あっけらかんとのほほんとした表情で。
「つまり、眼には眼を、歯には歯を、記憶には記憶を――歴史には歴史を」
それは単純で、
「――これから正しい関係を積み上げていきましょう、それを続けて行きましょう、ということです。信じられる思い出、優しい記憶、そんな正しい歴史を積み上げて行きましょう。人を怨み、不信を招く歴史があるなら、信頼を抱ける抱ける歴史を――歴史がもたらすのは変わらない事実だけではありません」
誰にでも分かり易く、
「まあ殺し合いをした仲なんですから相当時間かかるでしょう。しかしそれでも、実際心から仲良く出来なくても『そこはみんな我慢した』『殺し合う事の方が嫌だった』と我慢出来た歴史をまずは一年、いや、一日、また一日、また一日とほんの少しでも築けたのなら……そこから先、それがもしかしたら当たり前になるとは思いませんか?」
噛み砕き、微に入り細を穿ち視野を広げて語り掛けられた。
そんな言葉の数々に、生徒たちは想像する。実際に、その苦難の道を乗り越えたなら出来るかもしれないと思う。
過ち自体は消せないが、それ以外の良い歴史というのも本来消せないものである。
しかし、その反面、現実はそう上手くいかないだろうとも、褪めた思考で思っていた。
それが現実というものだ。大人は完全無欠の大人ではない、だが子供だって完全無欠の子供ではない。
その雰囲気に同意するように、
「……まあ、はっきり言ってほぼ無理です」
告げる教師に、生徒達は異論をはさまない。
世界中を平和に――それはどの国も、政治上の建前として何度となく口にされて来た。民間レベルでは良心に従い性善に交流を図ろうとする者もいた。
しかし誰もがそれを成し得なかったから今日までの負の歴史があるのだ。
大人が我慢しないから子供も我慢しない、親が出来ないから子供も出来ない――
そんな風に単純な理由で、負の歴史と精神性が受け継がれている。
「だってね、そんな大変な事、一体誰が本気でやりたがるんですか」
敵と仲良くしようとするなんて、敵以外の何に見えるのだろうか。罪を犯した相手を、どうして許せるのか。
感情と理性の両方がそれを拒んでしまう、もはや歴史そのものが生き物の様に感情を持ち蛇のよう局とぐろを巻いているようだ。無理だろう、戦争だから、罪があるから事実があるから歴史があるから――精神的な遠因があるとはいえ自然の摂理、弱肉強食の淘汰の世界なのだから。
そんな中、
「……それでいいんですか?」
生徒の一人がそう疑問を掲げた。
それに淡々と教師は笑顔で問い掛ける。
「じゃあ出来ますか? ――貴方に、人類の新たな歴史を作ることが」
「……それは……」
「……ね? 誰だって二の足を踏んで、そしてそこで諦めます」
幼気な生徒の良心を、まるで奈落の底に落とすような発言だ。ただ続けてまるで自責の念に駆られるような生徒を温かな微笑でフォローしながら、教師は語る。
「……でも、あなたのような心が無ければきっと、それは成し得ません」
やはり快活な笑みを浮かべ、
「――いいですか? 歴史を作るなんて、そりゃあ一個人どころか国でも無理です。たとえ勇者でも無理です、せいぜい一行名前が載るくらいです。それは歴史を作ったとは言いません。そこで『諦めないことが大切だ!』『それでも努力を続けるべきだ!』『苦しくても頑張らなくちゃ!』なんて神様や勇者様はよく言いますけれど、むしろそういう精神論では必ずどこかで誰かが出来ない無理をしていずれ心と身体を壊して行くでしょう」
迷わずに、
「……諦めないこと、努力し続けること、夢や目標を失わずにいること、それは大切かも知れませんが、そんな大それたこと果たしてどれだけの人間が成し得るのでしょうかねえ? 優秀な者、凡庸な者、そしてそれ以下の者――世界中の過半数は普通かそれ以下の人間です、さてそんな人達がどれだけ偉業を達成できると思いますか? 人生は苦渋と挫折に満ちていますよお?」
陽気に、抑揚をつけて勢いよく。
ちょっとおどけてふざけて調子を付けたそんな語り口に。
如何なく耳を傾けながら生徒達は、じゃあ何なら出来るのか、誰ならやれるのかと想像をめぐらせた。
誰が作れるというのか。勇者にも無理なら誰にも無理ではないのか。一般人にはもっと無理だ、しかし、
「――しかし……そんな普通の一個人でも出来る方法、ということなら、出来るということでもありますよね?」
やはり、単純な話だ。
教師は思う、出来ないことをしようとするから無理だと思ってしまう。だからそういう時はまずハードルを下げることだ――ろうと、生徒達は理解する。
この教師は夢と希望を囁かない――多くの教育者から見ればそれはなんとも遺憾なことだが、うさんくさく向こう見ずな性善さを語るそれより、遥かに生徒を子供扱いしていなかった。
大人は子供に理想や現実を押し付けようとするが、それがない。人を喰った話し方をするけれど。
大人ぶった大人に見えて、等身大の捻くれた子供のような――共感を呼ぶ教師だった。
生徒達からの彼の評価は、嫌いではない、話していて普通、――悪くない大人だった。
そんな大人が問い掛ける。
「――はい。そこであらためて、歴史って何でしょうか?
歴史は如何にも真実のように見えて、実はそれぞれの場所で都合の良いように都合の良いように作られていて、そこに正しい記憶、正しい記録なんて存在しえません。
そこに生きていた当時の人の心の在り様は、本当の意味では記されていないのです。
では、そこで我々が学ぶべき歴史や目指すべき未来とはいったい何でしょうか? それは毎日の積み重ねだと私は思います。例えば歴史の転換点はその時起きた大きな技術的革新やそれに伴う文化や精神的改革を指すものですが、それは生活の変化を指すものですね?
であれば、新たな歴史を築きそしてそこにある価値観変えるというのは……目の前にある、ごくごくありふれた生活を変えるということではないでしょうかね?」
それは偽善的ではない、そして性善でもない。
偽悪でも、純粋悪でもない。ただ単純シンプルに、人生をどう生きるのかということを考えて、
「普通の毎日……動かすのは歴史なんてものじゃなく、普通の毎日でいいと思います。それが積み重なったものを、たまたま歴史と呼んでいるだけなんですから。
さて、ではそれを作っているのは誰なのか。
――この世界の多くを作っているのはごく普通の一般人です、普通の毎日それをつくっているのはごく当たり前にいる隣の人々……君の隣に居る人は、歴史を作る、なんて毎日そんな大げさな事や難しい事をしてますか? いないでしょう? 世界平和とか世界征服とかそんなこと考えていないでしょう~?」
そりゃいないよ、いるわけないよ。
毎日あくせく働いて、いつだって何かに四苦八苦で手一杯――
なんでもないことで笑い合って、愚痴を言って、喧嘩して、毎日仲が悪くなったり良くなったりする、極々ありきたりな毎日の中で、ごくごくありふれた明日をどうにかしようと眠りに就く。大体自分の事で精一杯、誰か一人でも支えられたなら御の字である。
そんな、隣りにいる同級生や家族と、その周囲にいる人々の顔を思い浮かべる。それが普通の人間だろうと、
「でも、その程度でいいんですよ、別に世界を平和する努力とか特別な修行とかしなくていいんです。……その代わりに、世界を壊したり、征服したりしようとする努力もしない――ただそれだけです」
抵抗なく生徒達の多くが共感した。
それなら、誰にでもできるかもしれないと生徒たちは思った。
特別なことなどしなくていい、ただそれだけなのだ。
「……ほんの少し、これから仲良く暮らしていくために必要な事をすること――その為にちょっと我慢すること――たったそれだけ。でもそれだけで、非常に穏やかな生活がそこにあるんじゃあありませんか?」
生徒たちは、じゃあ、明日から自分にもできるかなと、ほんの少し笑っていた。
それは義務でも強制でもない、自由意思に基づき維持される平和であるということを、彼らはまだ本当の意味で理解していない。
でも、教師はそれでいいと思った。
そこで、鐘が鳴る。
――ガラーン、ガラーン……。
「……はい。ここで今日の講義はここまで――」
そんな、ゆるそうで割と真面目な講義を行う教師。
彼の名は
ふわっと爽やかな七三分け。黒縁眼鏡になんともこなれたスーツ姿は、お世辞にも格好いいとは言えないがしかし何故だか格好悪くもない。
ダサい筈なのに、それに親しみやすさと愛嬌を感じるのは、柔和で穏やかなその表情からか、それとも深い知性を感じさせる黒い瞳からか。
背丈が高く意外に幅広い肩に、逞しさを感じるからかもしれない。
彼はいつでも包容力に溢れた柔和な微笑みを生徒たちに浮かべている。
――だが、そんな彼こそ、魔王である。
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