第16話
校了のせわしさが、祥子は好きだった。作業内容は細かく多岐にわたるため神経を使うが、それだけにすべての作業が無事に済み、印刷所へとバトンを渡してしまうと、達成感に満たされる。自分の仕事が「形」になるまでには、その後、色校などの工程を経るのだが、実際の印刷物を手にするより、校了を済ませた直後のほうが仕事をしたという満足感を味わえる。そしてこの校了直後の高揚感を得ようと、ふたたび、次の校了めがけて走り出すのだ。
悦子は、中毒のようなものだと表現した。いったん校了直後の達成感と高揚感を味わってしまったなら、二度と忘れられず、徹夜だろうと何だろうとなりふり構わずに仕事をし続けてしまう。編集人になったからには、一生、編集人なのだと。
心も体も休めろという悦子の勧めに従って祥子は実家へと帰った。親には体調を崩したため半年ほど休職するだけだと言ってあったが、半年後、初夏の風も清々しい頃に祥子は辞職した。
会社を辞めるというと悦子はそれがいいと言って退職届を受け取った。辞めてからも悦子との付き合いは続いていて、時たまにメールがくる。元気にしているかというたわいもないメールで、祥子を気にかけているようだった。
仕事を辞めてしばらくの間は何もする気がしなかったが、体力が徐々に戻ってくると祥子はまた編集の仕事がしたいと思うようになった。また、編集の仕事しかできないとも思っていた。一生編集人。悦子がそういった言葉が身にしみた。不規則な生活のせいで体を壊したのだと思っている両親は祥子の再就職活動をあまりよくは思っていなかったが、何の仕事をさせないわけにもいかない。結局は祥子の決断を支持するほかはなかった。
季節が秋めいてくるなか、祥子は、地元の地域情報を掲載しているフリーペーパーの編集部にとびこんだ。身分は契約社員で、給料もかつてのものにははるかに及ばなかった。小さな出版社なので、祥子は編集だけでなく、取材にむかい、記事を書き、校正もしてと、一人で何役をこなさなければならない。忙しい身だったが、忙しくすればするほど時間がスピードをあげて過ぎ去っていくようで、祥子にはかえって心地よかった。
二階堂との関係は体が離れてようやく解消できた。とはいえ、祥子の携帯には二階堂からの留守電メッセージがまだ残っている。関係をもつ前に仕事のことで残されたメッセージだが、祥子は削除できないでいた。さびしくなると二階堂の柔らかな声に包みこまれたくなる。心がまだ二階堂に残っていると知る祥子は、仕事に没頭した。
*
「仕事ばっかだと、つまんないでしょーが」
金曜の夜だというのにひとり残って黙々と仕事を続ける祥子を、伊藤健一は飲みに誘った。
健一は、祥子より少し前に編集部に中途採用で入った正社員だった。学生のような若々しい見た目だが、年は祥子と変わらないという。本人は童顔を気にかけてうっすらと髭を生やしているのだが、年配の特に女性からは無精ひげにしか見えないと不評をかっていた。それでも剃るつもりはないらしい。それどころか意外に手入れが大変なのだとぼやいていた。
祥子同様、編集経験があるらしいのだが、注意力が足りないのか、健一の書く記事には細かいミスが頻発した。互いに書いた記事を校正しあう編集部で、祥子は健一の文字に対するいい加減さが気になっていた。間違いを指摘してやっても、悪びれる様子もない。少人数で家族的な雰囲気の編集部で、健一は出来の悪いやんちゃ坊という位置づけで、他の編集部員からはかわいがられていた。
「行こうよ、行きましょう、行くのです、飲みに行くのだ!」
その日の健一は執拗に祥子を誘い続けた。他の編集部員は早々に退社し、残っているのは祥子と健一だけだった。
「そんなに飲みたいんだったら、ひとりででも行けばいいじゃないですか」
「ひとりじゃ面白くない。誰かと飲むから酒は楽しいんだ!」
健一は祥子の机の上に腰かけて引き下がろうとしない。
「じゃ、誰か別の人を誘ってください」
他に誰もいないと知っていて、祥子はつっけんどんにそう言った。
「誰もいないし」
そう呟きながら両足をぶらつかせていた健一だが、つと机を降りたかと思うと、どこかへと消えていった。
やっと退社する気になったかと、祥子は健一が腰を下ろしていた場所にすかさず資料の束を重ね置いた。そして、社内にはもう誰も残っていないのを確認すると、そっと携帯を取り出し、耳にあてた。
二階堂の低い声が祥子の耳を震わせた。かつて二階堂が残した留守電のメッセージだ。事務的な口調で色気はないが、二階堂の声には違いない。体は離れたが気持ちはまだ残っていて、祥子は今だにメッセージの再生ボタンを押して二階堂の声に聞き入ってしまう。メッセージの内容の一言一言を、今では祥子は暗記してしまっていた。
「お待たせ」
背後から聞こえてきた健一の声とともに目の前にコンビニの袋が降りてきて、祥子は慌てて携帯を切った。
「はい?」
袋の中身は缶ビールとつまみのスナックだった。
「飲みに行かないのなら、ここでふたりで飲もう」
コンビニの袋から缶ビールを取り出すなり、健一はプルトップを開けた。椅子をどこからか持ち出してきて腰かけ、長居するつもりでいる。
「ハチも飲めば?」
健一は祥子を八はちと呼ぶ。八田の八だ。まるで犬の名前だからやめてくれといっても健一はその呼び名で呼び続けた。最近では他の編集部員も祥子を八と呼ぶようになってしまった。
「結構です」
次号の原稿のチェックをする祥子のかたわらでは健一がつまみを口に放り込んでいた。
「ハチ、仕事楽しい?」
「楽しいですよ」
「そうは見えないけど」
「どう見えるんです?」
祥子が気色ばんでも、健一はまるで意に介していない。
「苦行のように見えるけど」
健一の一言に、祥子は返す言葉もなかった。
「編集の仕事、好きなんだよな? 好きでなかったら、薄給なのに続けていられないもんな? でもさ、好きな仕事をしているんだったら、もっと楽しんでもいいはずなのに、ハチは全然楽しそうじゃない」
健一の言い分を祥子は否定できなかった。仕事に打ち込むのは好きだからではなく、何かから逃れるためだと祥子自身も薄々気づいていた。今夜も特に急ぐ仕事があって残っていたわけではない。
「仕事だけじゃなくて、なんか、いつも楽しそうじゃないんだよ、ハチは。笑えばかわいいのに滅多に笑わないし。人生そのものが苦行という感じがするよ、ハチをみていると」
いつもは幼く感じられる健一が今夜に限って人生を達観している仙人のようだ。
健一の見立ては正しかった。二階堂とのことがあってから、祥子は自分は人生を楽しんではならないのだと戒め続けていた。二階堂の妻を傷つけた贖罪のつもりであったのかもしれない。悦子はすべてを忘れて新しい人間に生まれ変わったつもりで再出発をと激励してくれたが、祥子は過去を振り切ることができずにいる。
今夜の健一には、二階堂との過去を含めた自分のすべてを見透かされるような気がして、祥子は顔をそむけた。
そのとたんに、目があったのは窓ガラスにうつった自分の姿だった。
編集部の入ったビルは側面がすべてガラスで覆われていた。3階のその場所からは周辺のビルの放つ明かりの夜景が楽しめた。その窓ガラスに、祥子と健一の姿が反射して映りこんでいた。とっさに祥子は顔をそむけた。
あれは弱った心が見せた幻だと今では納得していても、鏡などで自分の姿をみると、また、ずれて見えるのではないかという不安に駆られる。
祥子は親にいって、部屋の前の壁に取り付けられていた姿見を外してもらっていた。夜中にあの鏡の前を出入りする勇気はない。身支度などで鏡を見なければならない場合でも必要最低限の時間にとどめ、家にいる時には母親が鏡の前に立っている時をねらって自分も立ち、素早く身支度を整えた。
「伊藤さん。ここで飲んでも味気ないから、外へ飲みにいきましょう」
祥子は椅子から立ち上がり、窓ガラスに背をむけて健一を誘った。一刻も早く像の前から逃げ出してしまいたかった。
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