第3話
人身事故の影響で電車のダイヤが乱れていたため、大幅に遅れて出社すると、社内の様子がおかしい。
いつもならコーヒー片手にたわいもない朝のおしゃべりに興じているはずの編集部員たちが、今朝はコーヒーと立ち話の風景は同じでも、声をひそめてまるで通夜の席のようである。
顔をみせるなり、祥子のもとへと駆け寄ってきたのは同じ編集部の斎藤リカだった。
「さやかちゃん、亡くなったんだって」
あたりを憚って声を落としているが、どことなく弾んだ声音だった。
リカは社内のゴシップに通じていた。学生時代から編集部でアルバイトをしていたので社内での付き合いが広く、誰と誰が付き合っているだの他部署の内情や人間関係にやたら詳しい。
だが、この朝リカが口にした「さやか」という名前を祥子は知らなかった。誰だっただろうかと不思議な顔でいると、リカはぱっと口を開いた。
「そうか、祥子さん、知らないよね、さやかちゃんのこと。藤重さやか、祥子さんが入社してすぐに辞めちゃった人で、すごい美人だったの。受付の彼女目当てに、電話で済む用件をわざわざ来社して伝えにきた人もいたくらい」
藤重さやかなる人物を知らない祥子とでは話に花が咲かないと思ったのか、祥子に遅れて出社してきた別の雑誌の編集部員を見るなり、リカは身をひるがえして去っていった。
「さやかちゃん、亡くなったんだって」
まったく同じ台詞、少しだけ弾んだリカの声が聞こえてきた。音量は小さいが、通る声なので聞こえてしまう。ラジオでも聞くかのように、祥子は何とはなしに耳を傾けていた。
「藤重さんが? え、何で? 病気とか? 彼女、まだ若かったよね?」
祥子からは得られなかった反応に満足するかのように、リカは矢継ぎ早に話し始めた。
「まだ26。電車にはねられた事故らしいよ」
「電車にはねられたって、まさか……」
「うん、私もちょっと気になった。例のことで思いつめて飛び込み自殺しちゃったのかなって」
飛び込み自殺という言葉を聞いて、祥子は今朝の人身事故を思い出していた。
祥子の使う路線では人身事故が多発していた。自殺の強い意思をもった人間が集まって来てしまうという噂だから、彼女が死に場所に選んだとしてもおかしくはない。
素晴らしい美人だったという彼女の肉片の飛び散った線路の上を走ってきたのかもしれないと考えると、祥子は胸にむかつきを覚えた。そして、そんな偶然のあるはずがないと自分の馬鹿げた考えを否定した。別の路線でも“事故”は起こりうるではないか。
リカたちは音量をさらに下げてしまったため、会話はもう聞き取れなかった。知り合いでもない人間の話だ、祥子は気分を切り替えた。
「あれ、編集長は?」
すでに出社しているはずの五十嵐悦子の姿がデスクになかった。
「さやかちゃんの葬儀の段取りとかいろいろあるから今日は休みとるって」
リカの首だけが祥子の方を向いて答えた。
「お葬式って、普通、家族が動くものじゃないの?」
「編集長とさやかちゃん、親しかったみたい。さやかちゃん、一人暮らしだったから、とりあえず簡単な通夜と告別式をこっちでしてしまうんだって。実家のお母さんからも頼まれたみたいで、さやかちゃんが亡くなったっていう電話もらってすぐに社を出ちゃった」
祥子とはすれ違いだったらしい。悦子のデスクの上のタンブラーからはコーヒーの香りが湯気とともに立ち上っていた。
洋風な華やかな外見とは裏腹に、悦子は時代劇に出てきそうな姉御肌の女性だった。彼女が率いるインテリア雑誌「ハーモニー」編集部のチームワークがいいのは、その統率力の賜物だ。
アルバイトを経て社員になったリカと、はじめから正社員として入社した祥子、他に2人の派遣社員とを含めて女ばかり5人もいると、さざ波程度の波はたつ。リカは誰とでも親しく口をきくが、無邪気なつもりのひと言が相手の気分を害してしまうことがある。大抵は自分より年上の派遣社員たちに対しても横柄ともとられがちな口をきいてしまって揉めそうになるのを丸く収めているのが悦子だった。
波がしらがたとうものなら悦子がさっとやってきて、不平不満のガス抜きをする。自ら先頭だって悦子が受け止める不満は仕事上のこととは限らず、プライベートな事柄、たとえば恋愛などの相談にものっているらしく、他の部署からの人望も厚い。祥子も、今のマンションに引っ越す際には悦子に身元保証人になってもらっていた。藤重さやかという女性も悦子を慕っていて、退職した後も関係が続いていたのだろう。
部署を超え、退職後も親しくしていた友人を亡くしたとあっては仕事どころではないだろう。覚悟していた死ではなく事故死だったのだから、悦子は気持ちの整理がついていないかもしれない。
仕事のことは心配ないからしばらく休みを取ってはどうかという主旨のメールを打ち、祥子は悦子のタンブラーをもって給湯室にむかった。しばらくは出社できそうにもない悦子のためにコーヒーを処分しておこうと思ったからで、丁寧に洗われたタンブラーは悦子のデスクに戻された。
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