ずれる

あじろ けい

第1話

 真夜中過ぎに鏡をみると死に顔がみえると誰かから聞いたことがある。


 子どもの頃の話で、夜中まで起きていると怖いものをみるぞと脅かし、夜更かしを諫める子ども騙しの作り話なのだが、以来、八田祥子は夜に鏡をみるのを避けてきた。


 実家の祥子の部屋の前には大きな姿見が壁にかかっていた。夜更けてから部屋に出入りするときには、鏡に背を向けて足早に通り過ぎた。夜中にトイレに起きてしまっても、手を洗うときは顔を伏せて洗面所の鏡にうつるものを見まいとする徹底ぶりだった。


 就職してからは、そうもしていられなくなった。出版社に入り、インテリア雑誌の編集部に配属になってから、忙しい時は帰宅が真夜中過ぎになる。化粧を落とし、コンタクトを外してと、嫌でも鏡を見ないではいられなくなった。


 だとするとこれが死に顔というわけかと、祥子は洗面所の鏡にうつる自分の顔をしげしげとみつめた。


充血した目に、乾いてひび割れた唇。くすんだ肌には生気がない。皮膚は骨身にぴたりとはりつき、その下に頬骨の形がはっきりとわかるほどだ。


死に顔だと聞かされていたから、白髪頭の老婆がみえるのだと子どもの頃は思いこんでいたが、大人になって、若くして死ぬこともあると知った。死に顔がみえるとはもう信じていなかったが、死に顔にみえる時がある。


 正確な時間はわからないが、タクシーをひろって帰宅したから12時はとっくに過ぎているだろう。校了間際には帰宅が真夜中過ぎになるのも珍しくない。内容や文字に間違いはないか、ライターやデザイナーとのやりとりなど細かな作業の山積みで、肉体も神経も擦り切れそうになる。このまま死んでしまうかもしれないと不安になることはしばしばで、疲れきった顔は死に顔も同然だった。どうやら自分は24の若さで死ぬらしい。死因は過労だろう。


 すっかり乾燥しきった目からコンタクトを外す。薄皮を剥がすような微かな痛みに鏡の向こうの祥子が顔をしかめた。


 崩れた化粧を落としてしまうと我知らずのうちにため息を漏らしていた。


 口の中がねばついて気持ちが悪い。祥子は歯ブラシを取り、歯磨き粉のチューブをひねりだした。鏡の向こうの祥子も同時に歯を磨き始めた。


 歯ブラシを持つ手が小刻みに揺れる。鏡像の祥子は左手に歯ブラシを持っているだけの違いで、まったく同じ動きをする。


 子どもの頃に教わった正しい歯磨きの仕方を実践する祥子は、一本一本の歯を時間をかけて丁寧に磨く。虫歯の日だかに学校へ来たその歯医者は、一本の歯を磨くのに10秒は時間をかけなさいと言った。歯は全部で親不知を入れて全部で32本、そんなに時間をかけていられないと文句を言う子どもたちに、彼女は夜寝る前の歯磨きだけでもいいからと言い、それ以来、どんなに夜遅くなっても眠気と闘いながら歯磨きの時間だけは欠かさない。歯ブラシは鉛筆を持つような要領で指にはさみ、ブラシの先を歯にあて上下左右に動かす。鉛筆を持つようにという持ち方は、手の疲れを軽減するための持ち方だが、それでも疲れているときには体にこたえる。


 祥子の腕は次第に肩の下にさがり、歯ブラシを動かすスピードも遅くなっていった。


 それにつられて鏡の祥子もスピードを落としていく……はずだった。


 祥子の歯を磨くスピードが落ちても、鏡の中の祥子のスピードは変わらなかった。そのため、かえって鏡の像のほうが祥子の動きに遅れているように見えた。


 ずれている。


 ぼんやりした頭でそう考えた次の瞬間、背中を冷たいものが走って眠気が飛んだ。


 鏡の像の動きがずれる、そんなことのあるはずがない。


 祥子は歯ブラシを動かす手を止めた。鏡の祥子も手を止める。鏡の祥子は動かなかった。祥子が息をのんでじっと動かずにいるからだ。祥子が動いていないのだから、鏡の像の動くはずがない。


 祥子は歯ブラシをもつ手を、ついてこれるかと挑発する勢いで、右斜め45度の角度にあげてみせた。その動きに遅れることなく、鏡の祥子の歯ブラシをもつ手も同じ角度にあがった。


 手をあげたまま、マーチングバンドの指揮者よろしく何度も上げたり下げたりを繰り返す。鏡の像はきっちりとついてくる。腕を上げ下げするスピードを突然速めたり遅くしても、ぴたりと合わせてくる。意表をついてやろうと動きを止めれば、鏡の像もまた止まった。


 誰かが鏡の向こうにいて祥子の真似をしているわけではない。鏡にうつっているのは祥子自身なのだから、祥子の動きのままであるのは当たり前だ。


 動きがずれてみえたのは目の錯覚だ。


 祥子は両目を堅く閉じ、こめかみを強くつまんだ。疲れた目には一時的に効果のある簡単なマッサージだ。そうして目の周りの緊張した筋肉をほぐす。


 そうしてからゆっくりと目を開けた。目を閉じていたせいで視界がぼんやりしていたが、目を瞬かせているうちにもやが晴れて、目の前にやつれた女が姿を現した。


 それは祥子自身だった。


 鏡の向こうに誰かがいて、自分の動きを真似ているのではなどというバカげた考えを振り払うかのように首を振り、祥子は洗面所を離れた。

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