クリスマス・イヴ 2/2
「おい、これはどうする」
マスターが淹れたての珈琲を目の前にして嘆いた。着替えにいった遥と天川のぶんの珈琲がカウンターの上で香ばしい湯気を立てている。千見寺はいつの間にかカウンター席に座って、クロワッサンをおいしそうに頬張っていた。
「冷めたらもったいないわ。貰ってもいいですか?」
楓がマスターに尋ねる。
「飲んでも構わんが。こぼすなよ?」
「うふふ。そんなに子どもじゃないですよ? 光葉も飲む?」
微笑んだまま楓は僕の方へ振り向いた。尻尾がぴょこんと揺れた。
「あ、うん。せっかくだから貰おうかな」
正直お腹いっぱいだったが、楓からのお誘いを断るわけにはいかない。楓は銀のトレイに珈琲カップを二つ乗せると、心地よい足音を鳴らしながらゆっくりと僕が座るテーブル席へ向かって歩を進めた。
「はい。どうぞ」
「…ありがとう」
楓はテーブル席に珈琲カップを並べると、そのまま僕の向かいの席に座った。照れくさくてまともに楓を見ることができない。
僕はごまかすようにシュガーポットの蓋を開けて角砂糖を一つ放り込んだ。スプーンで念入りに掻き混ぜてから一口すすると、数日ぶりの甘苦い味が口の中に広がった。うん。やっぱりブラックよりこっちのほうが好きだ。
「きょうは砂糖を入れるのね?」
目ざとく楓が指摘した。
「さっき飲んだばっかりだからね。さすがに連続はきつい」
「じゃあわたしも入れようっと」
楓はシュガーポットに手を伸ばして、僕と同じように一つだけ角砂糖を珈琲に落とした。スプーンで丁寧に掻き混ぜてから、両手でカップを包み込むようにして一口すすった。
「んー甘くておいし」
唇の端に残った珈琲をぺろりと舐めて、楓は幸せそうな表情をしている。
ふと部長の言葉が頭をよぎった。意味は量りかねるがなんとなく不吉な物言いだった。どんどん砂糖を入れて楓もトロトロに甘くなればいい。そうすれば、苦いメイプルシロップなんて口にすることもないのだ。
僕はもう一つ角砂糖を珈琲に入れて、甘々な珈琲をすすり続けた。
準備をしていると、すぐにオープン時間の十時になった。
オープンとほぼ同時に、常連客のおば様が「今日はえらく気合が入っているね」と目を丸くして笑みを浮かべながら入ってきた。とりあえず好感触のようでほっとする。
店内は、急ごしらえであったもののじゅうぶんにクリスマスムードを演出していた。入り口にはクリスマスツリーが置かれ、窓ガラスにはクリスマス用のウインドウステッカーが貼られている。各テーブルには天川の手作りクリスマスメニューが置かれて、かわいらしい手書きのサンタが「メリークリスマス!」とお客様を出迎えている。店内のBGMもクリスマス用に差し替えられていた。
おば様を席にご案内すると、扉の向こうから、「いらっしゃいませー。本日は三種類のケーキも楽しめます! おいしい珈琲と一緒にいかがですかー」と三人が元気良く声を張り上げているのが聞こえた。特に遥の声がよく通って聞こえる。大きな窓からは、張り切る三人の姿がよく見えた。
まもなく、ぽつぽつとお客様が入店し始めて、オープンしたばかりとは思えないほど席が埋まってきた。ホールとキッチンが慌ただしく廻り始める。それにしても男性比率が高いような気がする。確かに超攻撃型スリートップのサンタ姿の破壊力は凄まじいものがあった。三人同時に声をかけられて無視できるような男はそうはいないだろう。
「ご注文をお伺いします」
テーブル席に呼ばれた楓が、忙しい中でも余裕をもって優雅に振る舞っている。四人組の男性グループから「おぉ」と感嘆の吐息が漏れた。楓を見つめる視線はいただけないが、少し誇らしい気持ちになった。僕は負けじとおば様二人組に、
「お待たせいたしました。こちら、モンブランとブレンド珈琲でございます」
「まぁ素敵。ご丁寧にありがと」
「あらやだ、可愛いサンタさんだこと」
おば様二人はキャッキャと若い声をあげている。『可愛いい』という評価は置いておいて、「どうだ!」とばかりに楓を見た。楓はちょうど背を向けてカウンターへ向かっているところだった。がっくりと肩を落とす。チリンと別のテーブル席からお呼びがかかり、慌てて向かった。
昼過ぎまで休みなく動き回った。こんなに盛況な『クロワッサン』は見たことが無い。ケーキがひっきりなしに店内を飛び交っていた。マスターは、「ケーキの材料が足りなくなるかもしれん」と嬉しい悲鳴をあげている。いまは午後二時を過ぎたころ。ランチタイムが終わって、店内も一息ついているところだ。僕らは交代で少し遅めのお昼休憩をとることにした。落ち着いた店内は楓にまかせて外に出て、ずっと呼び込みを続けていた部長たちに声をかける。
「交代でお昼にしましょう。変わりますので先にどうぞ」
「ああ、わかった。甘えることにしよう」
「ようやく休憩だー。あー寒かったあ」
遥はしきりに太ももをさすっている。スラリと伸びる足にドギマギした。
「お昼食べたら交代しようか? 僕が呼び込みするから、遥はホールを頼むよ」
「助かるー。あーサムサム」
部長と遥が店内に入っていった。
「ん? 天川は休憩しなくていいの?」
「まだまだ全然へっちゃらです! 楠先輩を一人にするわけにもいかないので、お二人が戻ってきてから休憩します!」
「ありがとう。でも無理はしないでよ? あ、ちょっと待ってて。あったかい珈琲だけ持ってくるから」
店内に戻り、マスターから紙コップに淹れた珈琲を受け取って、再び外へ出た。
「はい。ここでいいから飲んで温まりなよ」
「ありがとうございます。ふぅ……おいしい」
天川は珈琲を飲む間だけほっとしたような表情を浮かべていたが、一気にくいっと飲み干すと、
「さあ先輩! じゃんじゃん呼び込みましょう!」
と気合の入った声をあげた。もしかしたら一番楽しんでいるのは天川かもしれない。
「よし、頑張るか! 交代したら客足が遠のいたなんて言われたくないし」
僕らは『クリスマス限定! ケーキ三種類!』と可愛らしい文字が書かれたボードを持って、道行く人に向かって声をはりあげた。歩道に出てチラシを配ったり声をかけたりするのは駄目だそうだ。僕らの目的は、目立って足を止めてもらうこと。僕ら二人組は見ていて微笑ましいのか、よく年配のご夫婦が足を止めてくれた。
「お、光葉。やってるな?」
「あらあら。よく似合ってるわー」
しばらくして、聞き慣れた声で話しかけられた。見ると、父さんと母さんが仲良く手を繋いで立っていた。
「ど、どうしたのさ。来るなら言ってよ!」
突然の両親の登場に、授業参観の日のような気恥ずかしさが込み上げた。
「あ! 楠先生と先輩のお母さま! 先日はありがとうございました!」
僕の両親に気づいた天川が、妙な呼び方であいさつをした。
「おお、我が同士よ。きょうは随分と可愛いらしい格好だね」
「でしょう? やっぱりこの衣装を選んで良かったわー」
両親が目を細めて天川と話し始めた。僕の知らないところで、ずいぶんと仲良くなっていたようだ。ここで追い返すのはちょっと子どもっぽいなと思い直す。
「それで? 寄ってくの?」
「そうしたいのは山々なんだが、ここを通ったのは偶然なんだ。これから映画を見に行くところでね」
「そうなのよーせっかくなのにごめんね? 光葉、あとで皆の写真見せてね?」
二人はそう言うと「頑張ってね!」と声をかけて去って行った。
「楠先輩のご両親、ほんとに仲がいいですねー。憧れます」
天川が少し顔を赤くしてつぶやいた。
「ま、まあそうだね」
二人で両親の後ろ姿を見送っていると、扉が開いて休憩を終えた部長が出てきた。
「二人ともご苦労。交代するぞ」
「あ、でもそれだと部長が一人になっちゃいます。楠先輩、先にどうぞ」
「気にするな。朝からずっとしているからもう慣れた。しばらくは一人でじゅうぶんだから二人とも休憩していい」
「ありがとうございます。ほら天川、ここは部長に任せて休憩しよう」
「すみません。それではよろしくお願いします」
ぺこりとお辞儀をする天川を促して店内に入る。
「楓はもう休憩入った?」
まばらに席が埋まっているホールには、遥しか立っていなかった。カウンターで注文を通したところを見計らって声をかけた。
「さっき急に控室に来て、お手洗いに行きたいからって先に交代したわよ?」
遥はさらりと答えた。
「そうだったんだ。僕らも休憩に入るから、ホールは任せた」
「任せなさい」
遥は頼もしそうに胸を張って注文をとりに向かった。ファミレスでバイト経験のある遥は、僕なんかよりずっと頼もしい。
「ほら、とっとと休憩して来い。サンドイッチが置いてある」
遥を目で追っていると、マスターがカウンター奥のドアをあごでしゃくりながら言った。マスターに促されるまま、黙って皿洗いを続ける千見寺を尻目に僕と天川はドアを開けて控室へ入った。
控室には長机とパイプ椅子が置いてあり、楓が一人座ってサンドイッチをぱくついていた。
「楓、おつかれさま」
「あ、光葉。おつかれさま。天川さんもそこ座って一緒に食べよ?」
「はい。いただきます」
三人でマスターお手製のサンドイッチに舌鼓を打つ。卵サンドとたっぷりとチーズが入ったハムサンドがバスケットに並んでいる。空腹が満たされてほっと一息ついた。
「そういえば、水無月先輩?」
「ん? なあに?」
「楠先輩とはお付き合いされているんですか?」
天川が急にとんでもない質問を投げかけた。思わずむせる。
「ごほっごほっ――天川、いきなりなにを言ってるんだよ!?」
楓を見ると顔を真っ赤にしてうつむいてしまっている。僕の顔もきっと同じくらい赤くなっていると思う。
「えーだって、お似合いだと思いまして。先輩のご両親みたいに!」
天川は無邪気ににかっと笑っている。いつだか冗談で考えた部内の序列を思い出す。そうだ僕は天川より下だった。
「わ、わたし、仕事に戻るねっ」
楓は恥ずかしさに耐えられなかったのか、急に立ち上がって控室を出ていってしまった。その様子を僕は黙って見送るしかできなかった。
「天川が急に変なこと言うから……」
「ごめんなさい。でもあの反応、きっと脈有りですよ?」
天川が僕に向かってバチンと下手くそなウインクをした。こいつ絶対にわざとだ。ミニチュアな部長がここにいる。
「はぁ。それじゃあ僕らもいこうか」
「はい! あと三時間ですね! 張り切っていきましょう!」
きょうはいつもより早く店を閉めることになっていて、午後六時閉店だ。いまの時刻は三時。夕方にかけてもう一波来るだろう。気を取り直して仕事に向かった。
午後六時半。
「あーつっかれたーーーーー」
お客様が全員帰ってしんと静まり返った店内に、一日中黙って皿を洗い続けた千見寺の溜めに溜めた心の叫びが響いた。
「おつかれさん。みんなも今日は一日ありがとう。こんなに賑わった店は見たことなかったぞ……」
マスターは感極まったのか、顔を歪めて皆をねぎらった。もうちょっと突っ込んだら本当に泣いてしまうかもしれない。あまり見たいものでもないからしないけど。
「うふふ。きょうは大成功でしたね?」
楓がマスターを見上げて微笑んだ。マスターは「くっ」とごつい手で顔を覆って天井を見上げた。やめろって! これ以上は本当に泣いちゃうから!
「そりゃあ、あれだけ美味しいケーキだもの。飛ぶように売れるわよ。今後もメニューに載せたままですよね? あたしもまた食べに来るわ」
「うむ。私も一緒に来よう。私はケーキに加えてクロワッサンもだ」
遥と部長がうんうんと頷きながら追い打ちをかける。
「きょう一日本当に楽しかったです! バイト募集し始めたら応募しちゃおっかな♪」
天川が無邪気にとどめを刺した。マスターは堪えきれずに背中を向けて唸りはじめた。
「あーあ。マスター男泣きしちゃったよ。でもまあ上手くいってよかった」
僕がしみじみそう言うと、空気の読めない千見寺が、
「俺様の素晴らしいアイディアのおかげかな! あっはっは!」
と大声で笑った。まあそれは事実なのだが自分で言うなよ。
「さて。一通り片づけるとするか」
部長が締めると、
「いや、もうじゅうぶんだ。皿も洗い終わっているしゴミもまとめた。明日は店を開けないでお前さんらのパーティだけだから、午前中にゆっくり掃除をするさ。きょうは疲れただろう? 早めに帰って家族とゆっくりしたらいい」
いつになく優しいマスターが皆を制して言った。
「お気遣い感謝する。ではまた明日、午後一時にここで会おう」
――長いクリスマス・イヴが終わった。
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