第8話
そして今も、毎度のやり取りで髪を整えてもらったところであるのだが。
「――しっかし、お前、よくこんな面倒くさいことを毎朝やれるよな。尊敬するよ」
寝癖をドライヤーと櫛でちゃっちゃと直してくれた美樹に、俺は鏡越しに声を掛けた。
「尊敬だって? 嬉しいな。でも、習慣になってしまえばなんてことないよ?」
片付けの手を止めてはにかんだ様子を見せながら、美樹も鏡越しに俺に目を向ける。
「んー、習慣にゃならないけどなぁ」
答えて、俺は振り向く。美樹は可愛らしく小首をかしげていた。そんな彼に俺は話を続ける。
「――それに、これだけの女のコに囲まれて普通に生活してるのも不思議だ。お前も年頃の男なら、こう、ムラムラっときたりしないのか?」
この生活をひと月ほど体験してみて気付いたこと。それは美樹の中に男を感じないことだ。
「葵はするの?」
自然に湧いたらしい疑問。いぶかしげな様子もなく、美樹が問いかけてきた。
「ん? ……あぁ、いや、何故かしないな」
言われて思考し、素直に答える。どの女のコも噂通りの美少女揃いだったが、好みの女のコがいないというわけでもないのに気持ちは動かなかった。
(別に、彼女たちの嫌な面を見たわけでもないんだがな)
クラスメイトたちは親切で優しかった。途中で入ってきた俺に誰もが声を掛けてくれたが、美樹とルームメイトであると知れるとどこかよそよそしく振る舞った。それが美樹を意識するばかりに緊張しているのだと知り、彼女たちの気持ちを受け入れたのもつかの間。
気付けば俺が望んでもいないのに『百合乙女の二人組』などと美樹とセットで言われるようになった。カサブランカが百合の一種であるからか、それは憧れの存在として崇められる対象に与えられる称号のようなものらしい。俺まで含まれているのが、どこかおこがましいような気がする。美樹と並ぶと陰にしかならないだろうに。
ちなみに、これまでは美樹を指して『百合の女王』と呼んでいたそうだ。そう呼びたくなるのはわかるような気がする。手の届かない気高い花に思えるのは俺も同じだ。
そんなことを心のどこかで感じていたからだろう。思わず俺は口を滑らせていた。
「まぁ、身近にお前がいたら、他の女のコが霞むしな」
ぽろっ。
美樹の手から櫛が離れた。カランと音を立てて、櫛が床に転がる。
(……?)
らしくないが、動揺したのだろうか。美樹は頬を赤らめて、自然な仕草で櫛を拾う。そして鏡の隣にある棚に櫛を置いた。そのまま手を止めて、美樹はこちらを見ずに問う。
「葵?」
「ん?」
「今だから言うけど――私はゲイだよ?」
「……はい?」
言っている意味が理解できなかった。
(……ゲイ……ゲイってぇと……って、ゲイっ?!)
俺はやっと理解してビクッと身体を強ばらせたが、美樹からは距離を置こうと動いたりはしなかった。彼が懸命に自分のことを話そうとしているのが感じられて、それをかわすようなことをしちゃ失礼だと思えたからだ。
美樹は振り向く。哀しげな微笑みだった。
「警戒した? したよね? するよね?」
「しないさ。俺がそんな人間に見えるのか?」
当たり前だという気持ちを込めた俺の問いに、ふるふると小さく横に振られる首。ポニーテールの毛先がさらさらと揺れる。
「だからさ……あまり期待させるようなことを言わないでよ。私は君を愛するわけにはいかないのだから」
「…………」
どうして、とは訊けなかった。それが無責任な問いだと気付いたからだ。
俺は彼に対して異性に向けるような愛情を持って接することはきっとできない。期待させるなと告げている彼に、おそらくさらなる辛い感情を抱かせる。
「ねぇ、だから、私の前では女のコとして振る舞ってよ。そしたら、異性だと認識できるから」
「――お前はそれで良いのか?」
不意に出た台詞。言うまいと決めたはずなのに口から零れてしまった思い。
「――馬鹿なの?」
つかつかと彼は俺の前にやってくる。
ぐるり。
俺の視界が瞬時に反転。あっさりと押し倒されていた。強引だった割には、身体に痛みはない。そんなことを確認している間に美樹は俺に馬乗りになっていた。辛そうな、切なげな色の滲む瞳が俺を見下ろす。
「誘ってどうするの? 私に抱かれる覚悟もないくせに」
俺は下敷きにされたまま、じっと見つめ返して告げる。
「あ、俺が抱かれる側なのか」
てっきり美樹の見た目から彼が抱かれる側だと勝手に想像していた。
俺が暢気に返すと、美樹は苦笑した。
「この状況でよく言えるね。襲われそうになっている自覚、ないの?」
「……あ」
これまでの戦歴を振り返るに、この状態から美樹に勝てたことは一度もない。
(えっと……始業前にピンチだったりするんかな?)
まさかここで襲ってはこないだろうと高をくくっていると、スカートの中に潜り込んだ美樹の指先が太股の内側をそそっと撫でた。
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