第3話

 * * * * *


 十七時から二十一時までのバイトが終わった。俺はいつもどおりにチャリを自宅に向けて走らせる。


(聖カサブランカ女学院ねぇ……)


 帰る前に地図で周辺を確認すると、意外にも通り道であった。途中にごっつい洋風の門があると思っていたのだが、どうやらそこが学校だったらしい。


 俺はふと校門が見える場所に自転車を止めた。真ん前に止めなかったのは、警備員さんに顔を覚えられたくなかったからだ。バイトの行き帰りで見てきたところではいつでも警備員らしき人が詰めていた。


(さすがにこんな時間じゃ生徒は出入りしないよな。門限とかあるだろうし)


 スマホを見る。時刻は二十一時半を過ぎたところだ。


(ま、誰かに会ったところで、俺には関係ないか)


 はぁ、とため息をついて、俺はペダルに足をかける。


 ガサッ。


 不意に聴こえてきた物音にビクッと反応してしまう。自分の後ろからだ。


(何だろ? 猫、かな……)


 ガサガサッ……。


 音は右手にある聖カサブランカ女学院と通りを隔てる背の高い煉瓦の塀だ。塀の向こうに樹木の頭が覗いている。


 俺は意を決して振り向いた。このまま確認しないのも気持ちが悪いからだ。


(何も……ない?)


 見る限りでは人影はない。誰もいない静かな通りが街灯に照らされているだけだ。


(じゃあ、塀の向こうか?)


 何とはなしに見上げる。寒空に輝く月と星だけが目に映る――そのはずだった。


「!?」


 声にならない悲鳴を思わず上げる。慌てて自分の口元を押さえたせいで、がしゃんとチャリを倒した。


 その大きな音で気付いたのだろう。


 塀の上を走っていた影が一瞬だけ振り向いた。


「ちっ……」


 舌打ちする音が聴こえた気がした。しかし俺はそれに対しては何も感じなかった。


 だって、魅入られていたからだ。


 闇に溶け込む長いポニーテール。天頂に浮かぶ月と同じ白い顔。そこに真っ赤に彩られた小さな唇。


(――あれ? あのコは、どこかで……)


 ちらりとしか、しかも結構離れていたのに、その顔は脳裏に焼き付いていたある一人の人物を導き出す。


(常連のコだっ!)


 ポニーテールをなびかせて、影はどんどんと遠ざかる。こんなところを見られるとは、およそ思っていなかったのだろう。


「ま、待って!」


 俺は咄嗟に呼びかけて、倒れた自転車を起こして追いかける。だが、塀の上を走る少女はふと陰に入ってしまい、見失なってしまった。


(――つーか俺、彼女を呼び止めてどうするつもりだったんだ……?)


 息が上がる。呼気が白く濁る。


(塀を走っていたよな……。なんでそんなことを? いや、むしろ幻じゃ……)


 冷静さを取り戻してくると、なんだかアホらしくなってきた。きっと見間違いだ。学年末テストの勉強で遅くまで起きていることが多かったからきっとその反動だ――そう自分に言い聞かせ、自宅に帰ろうと自転車の向きを変える。そこであるものを見つけた。


(なんだ?)


 塀の側に落ちている物体。俺は自転車を押して近付くと、それを拾い上げた。


(財布……落とし物かな?)


 ブランド品らしい折りたたみの財布だ。デザインから思うに、女性ものである。


(面倒だけど、交番に届けるか)


 拾ってしまったものは仕方がない。駅に向かえば交番はある。財布をなくした人はさぞかし困っているはずなので、早めに届けるべきだろう。


 念のため見回すが、探しているらしい人物の姿はない。人通りが少ない住宅街の一角であり、すれ違ったのも塀の上の少女くらいのものだ。


 ため息をついて、ふと明かりが漏れる校門に目をやった。


(いや、待てよ。もしかしたら、この学校の生徒の物かも知れないよな。だったら、警備員さんに渡した方が手元に早く戻るか)


 自分の手の中にある財布に視線を落とす。


(確認……するか?)


 都合良くこの学校の生徒であることを示す物が出てくるとは限らないが、住所を示すものがあれば届けることも出来るだろう。


 ごくり。


 悪いことをしているような気分になるが、これは許される範囲だと言い聞かせて財布を開く。


 どきどき。


(ま、まずは、カードだよな。身分証明書になるような物が出てくればいいけど……)


 街灯の光にかざして、中身を確認する。


 中はきちんと整理整頓がされていた。レシートが紛れている様子もなく整然と並ぶ。カードもきれいに揃えられており、一番手前に近くの総合病院の名前が印刷された診察券が入っていた。


(名前は……カブラギヨシキ……ヨシキ?)


 目をしばたたき、軽く擦って再度見る。見間違いではないらしい。さらに気になる文字が読み取れた。Mの文字。つまり、それが意味するところは――。


(……男、だと?)


 引き出した診察券に刻まれた名前と財布を見比べる。


(う、うん。きっと家族のが紛れているんだよな。そうそう。母親が自分の子どものを管理しているのかも知れないし)


 女物の財布から男性のものが出てくる理由を思いつき、納得しようと努める。正直驚いた。心臓もどきどきしている。


(他のも見てみよう)


 気を取り直して診察券をずらす、と――。


 ずるっ。


「あっ……!」


 やはり動揺していたようだ。いや、緊張と寒さで手元が狂っただけかも知れない。うっかり財布を落とし、カードが散らばった。


「まずっ……」


 小銭が飛び出さなかったのは不幸中の幸いだろうか。何枚かの診察券やキャッシュカードがアスファルトに散乱し、俺は焦りつつもかき集める。


「……?」


 その中の一枚に本人の顔写真と思われるものが貼り付けられた身分証明書のようなものがあるのに気付いた。俺は他のカードをしまうと、改めてその身分証明書に貼り付けられた写真を見る。


(この財布――間違いない)


 バイト先で見掛けた黒髪の美少女だった。そうだとわかると、俺はすぐさま名前を確認する。宮下先輩の話が脳裏をよぎったというのもあるが、俺自身も興味があったのだ。


 視線を動かし、氏名欄を読む。


(――冠城美樹)


 そして、診察券を引っ張り出して並べた。


「な……いや、まさか……」


 俺は首を横に振る。


(ミキ、ではなくてヨシキだと? しかも、彼女じゃなくて彼……だとっ!?)


 信じられなかった。とんでもない拾い物だ。


「ってか、そんな事実は知りたくなかった……」


「そんな事実って、何のことかな?」


「えっ?」


 振り向いてまず目に映ったのは闇に溶け込む長い黒髪で、次に映ったのは冷やかな微笑みを浮かべる白い顔だった。


(……マジで?)


 落胆する俺に声を掛けてきたのは、聖カサブランカ女学院の生徒――であるはずの少年、冠城美樹だったのだ。

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