悪夢【加納慎悟視点】


 ──バッシャン!


『ぷはっ! …ガボッ…!』


 鼻に水が入って痛い。

 バシャバシャと水音を立てて俺はもがいた。酸素を求めて水面上に浮上しようとしたが、上から頭を押さえつけられた俺は誤ってプールの水を飲み込んでしまった。

 俺の頭を押さえつけているのは従兄の常磐ときわ泰弘やすひろ。母の姉の息子である。

 ひとつ上の従兄から足を引っ掛けられて落下したのは別荘にあるプール。その別荘は母方の祖父の持ち物である。夏休みに親戚一同が集まった日にプールで遊んでいた時のことで、俺は当時小学3年生だった。

 ……あれ以来俺はあの別荘には近寄らなくなったんだ。

 

『ははは、こいつプールの水飲んだぜ』

『お前生意気なんだよ』

『じーさまばーさまに可愛がられているからって生意気なんだよなー』


 年に数回会う従兄弟たちと俺はあまり仲が良くなかった。彼らには俺が生意気に見えるのだそうだ。俺としては普通にしているつもりなのだが、彼らにしたら鼻につくらしい。

 俺だって黙ってやられているわけでなく、毎回反発していた。だけどムキになって反論しても彼らには相手にされない。面白がって、こっちの訴えをまともに受け取ってくれないのだ。

 そのうち彼らの事を無視するようになったのは自然のことだった。何をやっても無駄なんだと向き合うのをやめた。

 とはいっても、大人の目を盗んでの彼らによる嫌がらせはとまらなかった。貰ったお菓子を奪われる、オモチャを奪われた挙げ句に壊されるのは序の口で、後は殴られたり、蹴り飛ばされたり……今のようにプールで頭を押さえつけられたりした。

 息が苦しい。水が気道を通って余計に苦しい。もがいているけども従兄弟たちは面白がっており、やめる気配がない。

 酸素が足りない、苦しい。

 俺はこのまま殺されてしまうんじゃないかと恐怖した。


『くぉらぁぁぁあ!! この悪餓鬼ども、うちの慎悟になにしてるんだー!!』

『やべっ逃げろ!』

『ゲホッ、カハッ…』

『水を吐きなさい慎悟!』


 鬼の形相をした父が従兄弟たちを追い払ってくれたお陰で、俺は命の危機を脱した。今のは本当に危なかった。

 プールから引きあげられた俺は、水を吐きなさいと叫ぶ母に背中を撫でられながらひどくむせていた。プール独特の塩素の風味が口いっぱいに広がる。今さっきまで呼吸が出来ない状態だった俺は頭がくらくらしていた。

 そしてそのまま母の腕の中で意識を失ったのだ。




『ばっかもーん! なんてことをしでかしてくれたんだ!』


 祖父が激怒する声で目が覚めた。目覚めると部屋の中で、俺が目覚めたことに気づいた父が血相を変えて飛んできた。


『慎悟っ! 大丈夫か!? 痛いところないか? 苦しいところは?』


 父の顔を見ると緊張が緩んだ。それと同時に先程プールで味わった苦しさと死の恐怖を思い出した。

 死ぬかもしれないと思った。


『……たい』

『ん? なに?』

『かえり、たい…』


 従兄弟たちにいじめられても我慢してきた俺だったが、今回の件ではもう我慢の糸が切れてしまった。我慢を溜めに溜めたコップの水はもう溢れてしまったのだ。

 今までにも会う度に嫌がらせをされてきた。プールで沈められたのもこれが初めてというわけではない。悪事を見つけた大人たちに従兄たちはその度に雷を落とされていた。


 だけどその繰り返し。


 逃げてはいけないと思っていたから俺は我慢していた。逃げたらただの負け犬だって。

 祖父も父も家庭教師の先生も言っていた。大人になったら、沢山の従業員を抱えて責任ある大きな仕事をすることになるから、責任から逃れてはいけないと。

 逃げることは恥なのだと思っていた。俺は昔から負けず嫌いだった。今ここで逃げたら自分は後悔すると思っていたから必死に耐えていたんだ。


 …だけど徒党を組んだ従兄弟たちに勝てるわけではない。俺はそれが悔しくて情けなくて悲しかった。この場から消えてしまいたいと震えていた。俺のちっぽけなプライドがサラサラと崩れてしまいそうだったんだ。

 俺が身体を丸めて泣いている姿を見た父は今までに見たことのない、恐ろしい顔をしていた。わがままを言うなと怒られてしまうかもしれないと俺は身を竦めてしまった。

 父は俺の体の上に掛かっていた布団をめくると、未だ水着姿の俺に自分のジャケットを羽織らせた。


『……義姉さん、あなたずっとそこで突っ立っていますけど、あなたが産んだ息子が人を殺そうとしていたんですよ?』


 父は俺を抱き上げると、背中をポンポンと叩いてくれた。そのやさしい手とは裏腹に父の声は冷たく、その軽蔑した視線は俺をプールに沈めていた従兄の母親である伯母に向かっていた。

 俺はこの伯母のことが苦手であった。

 何かに付けて俺と従兄を競わせようとして、一個下の俺のほうが出来が良いと、決まって可愛げがないと揚げ足取りしようとする。母も昔から伯母から敵対心を抱かれており、この伯母を苦手としていたようだ。

 ──大人になった今は自分たちの子どもを使って競わせようとしてくるのだ。俺をいじめる従兄を伯母がたしなめることは一度もなかった。むしろ、苦情を訴える俺の両親に対して「男の子だもの」「遊んであげているのよ」「大げさよ、あなたのところの家の子が軟弱なだけでしょ」と一蹴するだけ。

 そして今日もいつもと同じである。


『大げさねぇ。そんなの子ども同士の…』

『姉さん、あなたが私を嫌っているのは知っていたけど、その悪意を私の息子にまでぶつけるのはやめて頂戴。…お父様ごめんなさい。私達は帰らせていただきます』


 例の従兄弟たちは祖父に雷を落とされて、マズイことをしてしまったと今更ながらに反省しているようであるが、伯母の息子である泰弘はふてくされた表情で突っ立っているだけであった。俺は父の肩越しに泰弘と目が合ったが、あいつは俺を睨みつけていた。

 ……俺はこの従兄のことが嫌いだった。

 二度と会いたくないくらいに。



■□■



「……」


 目が覚めると、見慣れた自室の天井が目に映った。

 身体を苛むは頭痛とひどい倦怠感。…怠くて起き上がれそうにない。自分が熱を出して学校で倒れた記憶をおぼろげに思い出した。笑さんがここまで送って色々世話をしてくれていた気がするが、今はここにいない。

 今日は何日であろうか。自分はどのくらい眠っていた?

 ガンガンと痛む頭。俺はそっとため息を吐きながら、先程見ていた悪夢に顔を顰めた。嫌な夢を見ていたせいで変な汗をかいてしまった。ベタベタする身体が気持ち悪い。

 ……なぜ今になってあの時の夢を見たのであろうか?


 幼かった俺は何故こんなにも従兄弟たちに嫌われるのかと、悲しい以前に不思議でならなかった。

 だけど年を追うごとになんとなく察した。

 比較的仲のいいウチの両親は多忙であるが、俺のことをちゃんと見ていてくれた。不在時も家庭教師やお手伝いさんを常駐させてくれていたし、習い事などで友人と一緒に過ごす時間も多かったので、俺はそこまで寂しい思いをすることはなかった。…多忙な中、時間を作っては構い倒してくれた両親のお陰とも言える。

 …それを、妬まれていたのではないかと思うんだ。


 特に伯母の息子の泰弘は……多分、伯母の歪んだ優越感を満たすために、けしかけられたんじゃないかって。それを指示されたかは定かではないが、ストレス発散で俺をいじめていたのではないかと思う。

 あの従兄弟たちの集団の中で力を持っているのは泰弘。あいつの指示に従っていくうちにエスカレートしていった、つまりそういうことだ。

 とはいえ、どんな事情があったにしても、俺は被害者側である。もう従兄弟たちと親しくするつもりはない。


 伯母は相変わらず子どもを使って競ってくるが、競ったところでどうにかなるわけじゃない。これからも必要以上に接点を持たないようにするつもりだ。

 某有名大学に進学したという従兄は実家を出て一人暮らしをしているらしい。前よりも家が近くなってしまったのがすごく不快だ。

 ……しかし今まで一度も遭遇してない。連絡先も知らない。お互いの様子を知ることもない。関わっても何の得もしない相手だ。このまま避けるだけの話だ。


 嫌いを通り越して関わりたくない従兄の事はできる限り思い出したくない。なのにこんな悪夢を見てしまったのは身体が弱ってしまったせいなのであろうか…? 

 右腕を持ち上げて、鈍く痛む額に手の甲を付けた。

 …あの頃の夢を見るとか目覚めが最悪だ。 



「あら、慎悟。目が覚めたの?」


 静かに自室の扉が開かれたので、視線をそちらに向けると母が現れた。

 何か言おうとして口を開いたが、喉が乾燥して張り付いたようになって声が出なかった。それを察した母が、側にあったスポーツドリンクを飲ませてくれた。スポーツドリンクは常温だったが、熱が出ている身体には冷たく感じた。


「……いま、何時?」

「今日は土曜でお昼の12時よ。あなた昨日熱出して、それからずっと眠ったままだったの」


 頭の下に敷かれていたアイス枕を新しいものに取り替えられて、母から横になるように促された。ぬるかった枕が冷たいものに差し替えられ、なんだか頭がしゃきっとした気がする。俺は息をほぅっと吐き出した。


「エリカさんにちゃんとお礼を言うのよ? 学校を抜け出してお世話してくれたのだから。…そうそう、エリカさんから伝言でね、文化祭の準備はクラスメイトたちと進めておくから、風邪をしっかり治して登校するようにですって」

「…あぁ…そうだった…文化祭…」


 彼女らしい伝言にほっこりした直後に、もうすぐ文化祭があることを思い出した俺は気分が重くなった。

 女装だ、十二単という女装地獄が俺を待っているんだった…


「今年はどんな出し物をするの?」

「…大したものじゃないよ。……ただの喫茶店」


 源氏物語をテーマにした喫茶店で、俺が女装すると親に知られたくないので無難な回答をすると、母は「そう」と納得して深く聞いてこなかった。

 両親ともに多忙なので、文化祭には来なくていいと毎年声を掛けている。この年になると色々恥ずかしいから来ないで欲しいのだ。むしろ今年は絶対に来ないでくれ。


「学校が楽しそうで良かったわ。英学院は私の母校じゃないから雰囲気が掴みづらかったけど、あなたにとっていい環境みたいで良かった」


 母はそう言って俺の頭を撫でてきた。

 …楽しい…か。母には俺が楽しそうに見えるのであろうか。

 笑さんは当初英学院の空気に慣れずに居心地悪いと感じていたみたいだが、大好きなバレーで居場所を作った。それから仲間ができて学校が楽しくなってきたと言っていた。…口では言わないが、180度違う環境、何もわからない状況下でそれなりに苦労や我慢をしてきたようだ。 


 俺はと言うと…ただ親に勧められるがまま一貫校に入って、将来のために学校で勉強しているだけだ。それなりに友人はいるけども……今楽しそうに見えるのは…彼女が学校にいるからであろう。

 ……笑さんは今頃何をしているのであろうか? 

 今日は土曜だから部活と習い事の掛け持ちをしているのかもしれない。文化祭2日目に招待試合があるからと張り切っていたな……また空回りしていないといいのだけど…

  

「あら、なぁに? にやけちゃって。 エリカさんのこと考えてるの?」

「…うるさいな」


 母に図星を突かれて俺は恥ずかしくなった。

 クスクスと小さく笑っていた母は体温計を俺に差し出してきた。


「とりあえずあなたはしっかり静養して、文化祭の日までには完治しないとね。あと5日でしょう?」


 こんな時に熱出して倒れて彼女に介抱されるとは……色んな意味で情けない。自分が熱で意識をなくす前後のことを全く覚えていない。

 まさか…笑さんが、ここまで俺を運んだのであろうか?


「なぁ、俺を運んだのって…」

「二階堂家の運転手さんですって。あなたのお着替えも手伝ってくれたそうよ。…エリカさんたら面白い子ね。『慎悟さんの玉の肌には一切触れていません』って言われて、私笑っちゃったわ」

「……」


 言葉選びはともかく、彼女に運ばれたわけじゃないなら良かった。笑さんなら気合で運ぶとか言い出しそうだが、それは男として色々凹む。気持ちだけは嬉しいが。

 

「熱もだいぶ下がったわね。おなかすいてない? エリカさんが薬局でお粥のレトルトパック買ってくれていたからそれを温めてくるわね」


 そう言って母は部屋から一旦出ていった。

 目覚めは最悪だったが、母と少し会話したこと、そして笑さんのことを思い出したら気が軽くなった。

 笑さんは大丈夫だろうか。上杉に絡まれてなければいいが…あの人は肝心な時に無防備だから心配だ。



 ──俺は気合で風邪を治した気がする。

 ちょっと笑さんの影響を受けているような気がしないでもないが、治ったので良しとしておいた。


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