もう痛くない。だから泣かないでお母さん。
慎悟の呼びかけで我に返った私は電話の向こうの渉に問いかけた。
「…それ、お母さんは知ってるの?」
渉の返答は「差出人を見た瞬間破り捨てていた」だった。
凶悪犯罪を犯した元少年は、2年目にして遺族に手紙を送ってきた。だが、それを受け取った遺族にとってはまだ2年なのだ。お母さんの行動は仕方がない。私も同じことをしてしまう自信があるから。
…いつも明るくて元気なお母さんがそういう乱暴な行動に出たことが心配だ。
以前見た、仏壇前で泣いているお母さんの後ろ姿を思い出すと、私はひどく不安になった。
「…今から帰る。実家の近くにいるから、今からバスで…30分くらいで着くと思う」
電話の向こうの渉に今から実家に帰ることを告げて電話を切ると、待たせたままだった慎悟に向き直った。
「ごめん、私今から実家に帰るから、慎悟は先に帰っててくれる? 向こうのバス停からいくつか乗り継ぎしないといけないんだけど…」
こんなことなら慎悟の言う通り、家の車で向かえば良かったかも。せめて帰りのバス停まで送ろうと思って慎悟の腕を引いたのだが、慎悟は動かなかった。
「…慎悟?」
「…俺もついていっては駄目か?」
「えっ…いや…楽しいことじゃないんだ。犯人から手紙が届いてね…。お母さんのメンタル状態も悪いと思うんだ…」
そこに血縁じゃない慎悟が入っても何も出来ないし、家族も気を使うし、慎悟がしんどいだけだと思うんだよね。
私の返答に慎悟は眉を顰めていた。そしてしばし考え事をしていた。慎悟は聡いからすぐに理解したのだろう。うちの家族も見せたくない部分があると思うからさ。気持ちは嬉しいよ。心配してくれたのにごめんね。
「…じゃあ、帰る時と家についた時に連絡を必ずしてくれ」
「わかった。慎悟も気をつけて帰ってね」
「それと、二階堂のおじさんには俺から連絡をしておくから、家の車で帰れよ。いいな?」
時間も遅くなるだろうし、そのほうがいいかも。私は慎悟の言いつけに素直に頷く。慎悟が反対車線側のバス停に向かったのを見送っていたら、丁度実家方面のバスが来たので私はそれに乗り込んだ。
私のことを心配そうに見送る慎悟の姿が見えたので、バスの窓越しに手を振っておいた。…気づいたかな。
そこからバスに揺られること十数分。実家付近のバス停で降車すると、私は実家まで走っていった。
家に到着すると、私は合鍵で玄関の鍵を開けた。この時間ならテレビの音や、台所でお母さんがご飯を作っている物音がしていてもおかしくはないのに、家の中は不気味なくらい静かだった。
「ワフッ」
「ペロ、ただいま」
お出迎えしてくれたのはペロだ。だがペロも家の中の異変を察しているのか、私に助けを求めるような様子で駆け寄ってきた。
「…ただいま…入るよ?」
私は声を掛けて家に上がると、電気のついているリビングに入った。
そっと中の様子を窺うと、リビングのソファには沈み込んだ渉がボーッと座っており、隣室の和室では仏壇前で泣いているお母さんの姿があった。お父さんは仕事でまだ帰ってきていないようだ。
ソファ前の丸テーブルの上にはビリビリに裂かれた紙が乱雑にかき集められていた。
「……これが例の?」
私はなるべく静かに渉に問いかけると、ノロノロ顔を上げた渉が重々しく頷いていた。
例の手紙は自分が思っていたよりも細かくビリビリにされていた。私はそれを手に取り、パズルのピースのように繋げた。
「…姉ちゃん…」
「私には読む権利があると思うけど?」
私がそう言うと、渉は閉口していた。渉はただ心配してくれているのだとわかっていたけども、私は手紙の内容に関心があった。あれからアイツはどういう風に暮らしてきたのかとか、事件に対する考え方に変化はあったのかとか。
忘れ去ってしまったほうが楽になるというのはわかっている。だけどアイツのことを忘れることは出来ないし、無関心にもなれない。
3枚ほどの便箋をそれぞれ繋げて、私は文章を目で追った。神経質そうな文字が眼前に広がる。
内容は刑務所での暮らし、2年前の事件前の出来事…家のこと家族のこと、学校へ通っていた時のことが書き連なっていた。
刑務所では毎日こんな事をしている。兄が定期的に本を差し入れしてくれていて、閉鎖されたこの刑務所内で色々と考えることが増えた。…あれからこういう風に考えるようになった。という自分の話から始まっていた。
事件に関しては、学校のクラスメイトや親から暴力や暴言を叩かれていたから、自暴自棄になっていた。いくら努力しても結果のでない勉強にも嫌気が差していた。あの頃の自分はどこかおかしかった。人を殺せば、あいつらを見返せる気がしていた。殺した瞬間の事を今でも夢に見る。殺してしまった2人は自分のことを恨んでいるだろう。
最後に「すみませんでした。」とは書かれていたけども、1年や2年で改心できるようなものなのであろうか。私情が入っているせいもあるだろうけど、私にはあの男が心から反省しているようには思えない。
だってほぼ自分のことしか書かれていないもの。私のことは最後のすみませんでしただけじゃないか。
憎むことで、この苦しみが晴れるならいくらでも憎んでやるけどそうではない。余計に心が苦しくなるだけだ。人を憎むのは凄くエネルギーを使うし、心が病むから出来れば止めたい。負の感情を抱えたままだと、幸せからどんどん遠ざかってしまう。
だけど犯人が反省しないままでは、遺族達は余計に苦しみから抜け出せなくなる。犯人は手紙を送れば罪を償った気分になれるのだろうが…私達はどう受け止めるかで更に苦悩することになる。
私はその手紙をかき集めて、グシャグシャに丸めると、台所にあったポリ袋の中に押し込んだ。これはウチにあってはいけないものだ。持って帰って、どこかでお焚き上げしてもらおう。
「姉ちゃん…」
「読んでもすっきりしないから読まなくてよろしい」
ゴミ化したそれを自分のカバンに押し込めると、私は和室に足を踏み入れた。
「…お母さん、」
今では別人に憑依してしまった私が声を掛けても、何の慰めにはならないのかもしれない。
だけどいつも明るく、強いと思ってきたお母さんの弱っている姿を見ていると声を掛けずにはいられなかった。
「……笑、痛かったでしょう?」
「え?」
「いっぱい刺されて痛かったのに、更に解剖されて、最後には火葬されて…」
お母さんは私が死んだ直後のことを思い出してしまったようだ。あの事件の後に私の遺体と対面したり、事件の詳細を聞かされたり、裁判の証拠として私の遺体写真まで見せられたのだ。…多分脳裏に焼き付いてしまっているのであろう。
…うん、解剖と火葬は既に死んでいる時に行われたことなので、痛いかどうかはちょっとわからないな。…だけど私が逆の立場で、大切な人がそうなったと考えたら冷静ではいられないだろう。
「お母さん…私はもう私じゃない。エリカちゃんとして生きることにはなってしまったけども、魂は生きているんだよ…身体は…今はもう痛くないよ。大丈夫」
うまいこと言えたら良かったけど、お母さんの悲しみに感化されて、私まで泣けてきてしまった。さっき思いっきり事件現場で泣いたというのに、涙腺が弱くなっているようだ。
お母さんの背中に抱きついて私は一緒に泣いた。前の私の身体ならお母さんより大きかったのに、エリカちゃんの身体じゃお母さんよりも小さい。
だけど私は生きている。私はここにいる。……親より先に死ぬなんて親不孝な娘でごめんね。苦しめてごめんね。
お母さんから事件当日の話をされたのは初めてかもしれない。…お母さんも心のどこかに引っ掛かっていたのかな。怖くてずっと聞けずにいたのだろうか。
私も家族もまだ2年前の事を引きずっている。苦しい中で前を向こうとしても、こうして過去が追いかけてくる。
犯人は何を考えているんだ。いっそ忘れてしまいたいのに、憎しみを再燃させるような真似をして、何をしたいのだろうか。私達だってこんな憎しみの心なんて捨て去ってしまいたい。だけど無理なんだ。
私とお母さんは泣きまくった。話をするでもなく、ひたすら泣いた。お母さんは私を殺した犯人への憎しみだけでなく、私が味わった苦しみを考えてしまって余計に辛くなっていたようだ。
お母さんがその苦しみまで抱える必要はないよって言ったけど、そういう問題じゃないと言い返されてしまった。
■□■
夜の21時頃にお迎えの車がやって来た。慎悟から連絡を受けた二階堂パパとママが一緒に迎えに来たのだ。
ふたりとも、今日が私の命日ということで心配してくれていたようだったから…更に心配させてしまったな。
パパママは、泣き腫らした顔をした私と憔悴しきった私のお母さんと弟の顔を見て深刻な表情をしていた。
「…えっちゃん、ちょっと…」
二階堂パパに呼ばれたので私は車に乗り込んだ。そこでは何があったのかを問われた。私は自分のカバンからゴミ化した手紙を取り出すと簡潔に説明した。
ママは玄関でお母さんとなにか話をしている。
「松戸さんはカウンセリングには行っていないんだったかな?」
「最初のうちだけ行ってたみたい。回数を重ねると料金がかさむし、時間を作るのが難しいって途中から行かなくなったんだ」
行ったほうがいいとは言ったが、金銭的、時間的な事を持ち出されたらそれ以上は言えなかった。
加害者家族からの賠償金は両親が受け取り拒否したそうだ。金をもらっても死んだ人間は帰って来ないからと。貰っても許すことは出来ないからと。そうなると完全自費になるからカウンセリングに行くのも億劫になってしまったみたい。
それから10分くらいして、二階堂ママが車に戻ってきた。「カウンセリングに行った方がいいと思って薦めてきたわ」とパパに耳打ちしていたのが聞こえてきた。
私は一旦車を降りると、未だ玄関前にいるお母さんの元に駆け寄って抱きついた。
「…また帰ってくるね」
「…あんた忙しいんでしょう。無理しなくていいよ」
「うん…」
やっぱり今はお母さんのほうが、背が高い。私がお母さんの背を追い越してからはこうしてハグをする事はなくなった。
…こんなことなら生きているうちにもっとお母さんと一緒にお出かけしたりしておけば良かったなと私はあの日後悔したんだったな……
……いや、まだ間に合うはずだ。
「…今度2人でおしゃれなSNS映えするお店に行こう」
身体は別人のものだけど、私はこの世にいるのだ。今からでもまだ間に合う。出来なかったことをしよう。死んだ時に後悔したことじゃないか。
私はこれからもしたいことが出来るんだ。生きているもの。
「…笑」
「大丈夫! 時間作ってまた帰ってくるから。約束ね!」
私がそう言うとお母さんは泣きそうに表情を歪めて、私を抱きしめた。そして耳元でこう囁いたのだ。
「…いってらっしゃい、帰ってくるの待ってるからね。頑張ってきなさい」
「…うん、行ってきます」
お母さんと渉に手を振って別れを告げると、私は二階堂パパママの乗る車の後部座席に乗り込んだ。
私はまた明日から二階堂エリカとして生きていく。
だけど今度また、実家に帰ってきたらただの松戸笑に戻ってお母さんの娘に戻るから。また帰ってくるね。
「もういいの?」
「うん。また会いに行けるから。心配かけてごめんなさい」
二階堂パパママも複雑な心境だろうに、こちらを気遣ってくれるなんて本当にいい人たちだ。
2年前に私達の運命は狂った。
出会うはずのない私とエリカちゃんが偶然居合わせて巻き込まれた惨劇。
来年も、また再来年も私はあの事件のことを思い出すだろう。私達は乗り越えることが出来るのであろうか。
いつかそれを受け止めて、犯人を許す日が来るのだろうか?
二階堂パパが運転する車は隣市にある二階堂家に向けて走り出した。
後部座席の窓から見える、走行中の対向車や街灯の明かりをぼんやり眺めていた私は、いつの間にか深い眠りに落ちたのであった。
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