第2話

 紗菜が目を閉じていたのは、それほど長い時間ではなかった。その短い時間に、何が起こったのかはわからない。だが、目を開いた紗菜を待っていたのは、止まらなかった涙が止まるような光景だった。

 紗菜の瞳には、和菜だった雪を集める女性が映っていた。


「なに、してるの」


 紗菜はとけて液体になろうとする雪を集めている女性に声をかけたが、その女性は返事をすることなく、黙々と雪を集め続ける。


「和菜ちゃんになにしてるのっ」


 紗菜は声を荒げ、グレーのスーツを身に纏った女性の手を掴んだ。しかし、女性はその手を振りほどき、雪を集め続ける。


「和菜ちゃんって言うんだ。友達?」


 顔を上げず、感情のこもらない声で女性が言った。


「やめてよっ」


 紗菜はもう一度、女性の手を掴もうとするが掴めない。するりと逃げた手が鞄から透明な小瓶を取り出し、紗菜に突きつける。


「ここにいれるだけだから」


無遠慮に集められた和菜だった雪が、小瓶に詰められる。


「どうぞ」


 女性はそう言うと、紗菜に雪ではなく、液体になってしまった和菜が揺れる小瓶を渡した。


 ついさっきまで一緒にいたのに。

 ご飯を食べていたのに。

 明日の予定を話していたのに。

 和菜はもうただの液体で、これから先、一緒にご飯を食べることも話すこともできない。

 紗菜の瞳から、また涙が溢れ出る。渡された小瓶が滲んで見えた。


「これも入れておけば」


 女性がネックレスを差し出す。ついでにという雰囲気で渡されたネックレスを黙って受け取ると、それは和菜が身に付けていたものだった。


「あと洋服も」


 女性は事務的な声でそう言うと、立ち上がって膝の汚れを払う。紗菜が涙を拭いて女性を見ると、膝をついて雪を集めていたせいか、スカートから覗くストッキングが破れていた。膝に傷もあるように見える。

 何か言わなければ、と紗菜は思う。だが、声が出ない。立ち上がることもできなかった。御礼を言うべきなのか、彼女の体を気遣うべきなのか、それとももっと別の何かをするべきなのか。今、自分がすべきことがわからない。


 考えがまとまらないままぼんやりとしていると、「はい」と和菜が着ていた洋服を渡される。受け取ったというよりは押しつけられたそれに、和菜の温もりはなかった。

 降り続く雪が頭の中にまで入り込み、思考を遮る。頭にもやがかかったようだった。紗菜は霧散しようとする思考をかき集めるように、渡された洋服を抱きしめた。


「私はこれで」


 人通りもまばらな住宅街、女性は短くそう告げると、紗菜に背を向けて歩き出す。

 紗菜の目に映った背中が、少しずつ離れていく。まるで、和菜が消えた世界に置いて行かれるようだった。紗菜は、慌てて立ち上がる。和菜が消え、一人になってしまったとは思いたくなかった。ジーンズの汚れを払うこともせずに女性を追いかけ、声をかけた。


「ま、待って」


 少し震えた声に、女性が振り返る。

 腕の中の洋服。

 手の中の小瓶。

 紗菜は落とさないように腕に、手に力を込める。


「あ、あの。雪になったの、友達じゃなくて姉です」


 口にした言葉は御礼でもなく、傷の心配でもなかった。だが、他に口にするべき言葉が思い浮かばなかった。

 女性は、何も答えない。表情すら変えずに、紗菜を置いて歩き出そうとする。

 彼女が行ってしまえば取り残され、一人になる。

 そう思うと、紗菜の喉がひゅうと鳴った。息が上手くできない。紗菜は、息苦しさから逃れるように声を絞りだした。


「まだ、行かないでください」


偶然通りがかっただけであろう女性に、こんなことを言うのは間違っていると紗菜は思う。しかし、それでも和菜と暮らしたこの街で一人になりたくはなかった。


「ごめんね。今、仕事中。営業やってて、まだ行くところあるから」

「そう、ですか」

「家に帰ったらどう?」

「帰っても誰もいないです。……両親は、二年前に雪になっちゃったから」


 その言葉に反応するように女性がぴくりと眉を動かし、目を伏せた。


 二年前、年齢、性別、国籍関係なく、人々は平等に雪になり、消えた。紗菜の両親も同じように雪になった。何故、人が雪になるのかはどの研究機関が調べてもわからず、未だに原因不明だ。

 しかし、多くの人が犠牲になった二年前のあの日から、一度にたくさんの人間が雪になることは少なくなっている。相変わらず人は雪になり続け、人口が減り続けているが、世界はそれに適応し、人々は淡々と過ごしている。以前と変わらず、人々は学び、働き、社会を回している。


「少し、待ってくれる?」


 そう言って、女性が鞄からスマートフォンを取り出した。紗菜の返事を待つことなく、どこかへ電話をかける。


「休みもらったから。そこの公園で話そうか」


 紗菜の耳に聞こえた声は、今日聞いた中で一番柔らかなものだった。

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