第29話
しゃおおお!
空気を切りさく音がつんざく。
カイのつま先が瓢一郎の顔面に向かって飛んでくる。
その速さ、そして連続性はまさに連射される弾丸に近かった。
カイは攻撃を完全に蹴り主体に変えてきた。手を床に付き、低い状態に頭を保つ瓢一郎には、手刀よりもそっちの方がよほど合理的であることに気づいたらしい。
瓢一郎はその攻撃を頭を高速で上下左右にふることでかろうじてかわし続けた。
猛獣の爪のごとく、敵の肉を切り裂く指先で、引き際の足の筋を断ち切ろうとしてもことごとくうまくいかなかった。カイのスピードははっきりいって尋常じゃない。
このままじゃ、やられる。
瓢一郎はカイを中心に、左右に回り始めた。右と思えば、引き返し左へ。そんな動きを小刻みにし相手を幻惑する。そのつもりだった。
「やはり獣は頭が悪いね。そっちが疲れるだけだぜ。こっちはちょっと体の向きを変えてやれば済むが、そっちはそうはいかない」
カイはせせら笑った。
それはある意味正しかった。たいていの相手なら瓢一郎の動きに惑わされ、隙を作るところだが、この男に限ってそんなことはない。攻撃を当てにくくする利点はあるが、体力を削られればそれで終わる。
ならばこうだ。
瓢一郎は真上に跳ぶと、反転し天井を蹴った。その勢いで急降下しつつ、鉄の爪をカイめがけて振りぬいた。
だがカイはすでにそこにはいない。
ずん!
腹に強い衝撃が走った。
一瞬なにが起こったか理解できなかったが、カイの手刀を腹に受けたらしい。
息が止まった。
同時にはげしい吐き気がこみ上げ、胃液をそこらにまき散らした。
そのまま臓器をぜんぶぶちまけるのではないかと錯覚する。
く、くそ。
床にはいつくばったまま動けない。
まさに日本刀のような切れ味がする打撃。特殊スーツを着ていなければ、腹が裂けただろう。
もう逃げることも反撃することもできそうにない。あとは露出した頭部か首にとどめの一撃を食らえばそれで終わる。
「さあって、偽物さん。ええっと、瓢一郎くんだっけ? なかなか健闘したけどそろそろ限界かな? 俺に素手で勝てる人間なんてこの世にほとんどいないからね」
指先をこきこき鳴らしてみせる。
「女装までしてがんばったのに残念だねぇ」
ま、まだだ。まだ終われない。
瓢一郎は最後の気迫をふりしぼって、カイをにらみつける。
「ふん。その目つき、気に入らないな。じつに気に入らない。そうだ、先に陽子君を血祭りにすることにしよう。君の目の前でね」
カイはちらりと視線を陽子の方に向けた。
やらせるか!
その瞬間、動かなかった瓢一郎の体が反射的に動いた。風のように。
「まだ、そんな力が残っ……」
瓢一郎は充分素早かった。しかしカイには見切れない動きではないようだ。とまどったのはほんの一瞬、すぐにその視線は瓢一郎の動きに追いついている。
その手刀がギロチンのように瓢一郎の首を断ち切ろうと迫る。
かわせない!
「馬鹿め、こっちだ。死ね」
反対方向から声がした。
カイはとっさに腕を止め、声の方向に振り返る。
めきゃっ。
カイが初めて見せた隙。瓢一郎の体は反射的に動いていた。
気づくと瓢一郎の指先は、無防備なカイの背中にめり込んでいる。機械のような冷血人間にも体温と血はあったらしい。指先が熱い。
「瓢一郎? 馬鹿な。……ならば俺を呼んだのはいったい誰だ?」
先ほどカイを呼んだ声の方向にはシャム猫が勝ち誇ったような顔で座っている。
「姫華か? そういえば……同じ声だったな」
瓢一郎が貫手を抜くと、カイの背中から血が噴き出した。カイの膝ががくんとくずれそうになる。
「れ、連携プレーってやつか? くそっ、なんの打ち合わせもなしでそんなことができるなんて、……そうか……それが、愛し合うもの同士の……以心伝心ってやつか?」
カイは瓢一郎に一撃を浴びせようと最後の力をふりしぼったのだろう。振り向きざまに、日本刀のような威力を持つ手刀を瓢一郎の首めがけて打ち込んできた。
瓢一郎の猛獣の爪が下から跳ね上がる。それはカイの首筋をかすめた。
熱い血が流れ出すと同時にカイは床に崩れ落ちる。そのまま動かなくなった。
「なにが愛し合うもの同士の以心伝心だ。おまえのいうことは、核心を突いているようでいてぜんぶ大はずれだ」
もう意識がないだろうカイに、瓢一郎はいわずにいられない。
『ほんとなにが以心伝心ですの? 愛し合うもの同士ですって? 勘違いにもほどがあるってものですわ。瓢一郎がやられそうだったから、とっさに注意を引いただけですわ』
瓢一郎の頭の中で姫華がヒステリックに叫んだ。
瓢一郎はよろめく足取りで陽子が縛られた台まだたどりつく。
「陽子」
閉じたままの瞳から、涙があふれていた。
瓢一郎は両手両足の拘束を解く。
『ふん、まったくモテたことのない男はどうしていいかわからないんでしょうね。こういうとき王子様なら王女様に優しくキスをして目覚めさせるものですわ』
姫華のアドバイスに心から同意するのは、これが最初で最後かもしれない。
瓢一郎は言葉通り、眠っている陽子のサクランボのような唇に自分の唇を重ねた。
柔らかく、そして暖かかった。
その慣れない唇の感触が瓢一郎の心を熱くする。
『ほ、ほんとうにやる馬鹿がどこにいるんですの。あなたは冗談ってことを知らないんですの? だめよ。やめなさい。き~っ、やめろっていってんだよ、こんちくしょう』
姫華がなにか必死で伝えてくるが無視した。
「あああああ。姫華様と陽子さんがキスしてるぅう!」
だがこの叫び声には驚いて、声の方をちらりと見た。
なぜかエレベーターの扉が開いており、その中には理恵子、葉桜、伊集院、それに吉田と五味が乗っている。もちろん今の叫び声は理恵子のだ。
ばち~ん!
頬に熱い衝撃が走る。
「な、なにやってるんですか、姫華さん!」
陽子が真っ赤になって叫んだ。
ほんとうに眠れる王女様はキスで目覚めるものらしい。
「かあ~ぁ、まったく近ごろの若い女はなに考えてんだか。五味、理解できるか、おめえ」
「いや、吉田さん、俺にだってわからんですよ」
五味が厳つい顔を赤くして背ける。
「あっはっは、ついにやったのね、瓢……」
葉桜はぼろぼろになりつつも、笑顔で拍手した。どさくさに紛れて「瓢一郎くん」といおうとしたことには誰も気づかなかったらしい。
伊集院は無言のまま、少し怒った顔で瓢一郎を見つめている。そして悔しそうにいう。
「ま、負けるものか。俺が正常な世界に引き戻してみせる」
瓢一郎は陽子にどんと両手で突き飛ばされる。陽子はそのまま顔中から汗を噴きだして、あわあわと意味もなく走り回った。
「な、なんでみんなここにいる?」
そうはいったが、見当は付いた。カイと戦っている間に姫華がエレベーターのスイッチを入れたのだろう。警察はおそらく屋根を飛び移るバイクを追ってきたに違いない。
『まったくあんたのせいで、わたくしはとんだ変態女になってしまいましたわぁあ』
キスをしろっていったのはおまえだろうが。その直後、なぜか必死で止めはしたが。
お嬢様の考えていることっていうのは、庶民にはさっぱりわからない。
「ライとかいうやつは?」
瓢一郎は葉桜に聞いたつもりだったが、かわりに吉田が答えた。
「包囲していた警官が捕まえた。ところで、そのふたりは生きてるのか?」
礼子とカイのことだろう。
「まだ死んでないと思う。すぐに運んだ方がいいよ」
正当防衛とはいえ、殺人はごめんだ。礼子にも生きていて欲しい。
陽子はようやく礼子の様子に気づいたらしく、やぶれた自分のTシャツで傷口を縛った。すごく悲しそうな表情で。
「とにかく犯人を上に運ぼう。それにおまえには聞きたいことが山ほどある」
吉田はうんざりした口調でいった。
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