第19話

「ここで止めてくれ」

 瓢一郎は後部座席から、運転していた佐久間にいった。

 ここは陽子のマンションの玄関口前の小さな通りで、マンションの全貌が見渡せる。ベランダはこちら側に並んでいる。各部屋の玄関は反対側にあり、ここからは見えない。八階建ての少し古いマンションで、外装のタイルもくすんだ感じに思える。もっとも夜だからそう見えただけかもしれないが。

 道路を挟んだ向こう側は、民家が並んでいる。いずれも平屋、または二階建ての普通の民家でとくに変わったところもない。

 エントランスホールの前まで行かなかったのは、前方に止まっている黒のセダンの中に吉田と五味両刑事の姿が見えたからだ。張り込んでいるらしい。これ以上近づくと怪しまれるのは間違いない。

 きょうは目立たないようにリンカーンではなくワンボックスカーに乗っている。姫華の家には車だけでも十台近くあるらしい。

「どうするの、瓢一郎くん?」

 隣の葉桜がいう。

 瓢一郎はスマホを取り出すと、伊集院の番号を呼び出し、コールした。

「伊集院? 姫華です。陽子のマンションは誰が張ってますの? 連絡を取りたいのですが」

『今の時間は郷山と鬼塚がいるはずですが、なにか?』

「彼らはどの辺にいますの? 具体的にはどういう指示をしたのですか?」

『なにか問題でもありますか?』

「いえ、そういうわけではありませんが、細かい状況を知っておきたいのです。いやな予感がするものですから」

『報告ではマンションの正面には警察が張り込みをしているので、彼らは中に入って五階の共用廊下のどこかにいるはずですが』

「つまり、陽子の家の玄関ドアを外から見張れる場所っていうことですわね?」

『そうなります』

「わかりました。念のため、警戒するように彼らにいっておいてください」

『ちょっと待ってください。今のはたんに確認の電話ですよね? まさかとは思いますが、ご自身で現場に行くつもりじゃないでしょうね?』

「現場に行く? まさか。もう来てますわ」

 なにかいいかけた伊集院を無視して、瓢一郎は電話を切った。

「さあて、玄関を郷山と鬼塚が見張っている。マンション入り口と外に面したベランダは外の刑事ふたり組が見てる。先生、あなたならどうやって襲う?」

「そうねぇ。進入するのはしんどいかしら? 狙撃?」

 狙撃だって? 陽子はアメリカ大統領並みの扱いか?

 瓢一郎はそう思いつつも、あたりの建物を見回した。近くに狙撃に適した建物があるかどうか知りたかった。

 少なくとも建物の正面にはそれらしいものは見あたらない。遠くに高い建物もあるが、そこから狙うにはかなり斜めになるはず。狙撃のプロでも仕事は難しいだろう。

「狙撃は……ちょっと無理ねぇ」

 葉桜も同じ考えにたどり着いたようだ。

「宅急便屋かなにかに化けるのが一番簡単かしら?」

 それだと刑事たちに姿を見られるし、郷山たちの前を通らなくてはならない。第一、仕事を終えたあとの逃げ場がない。

 もっともやつの腕前を考えるに、郷山と鬼塚、あるいは刑事ふたり組など簡単に叩き伏せることができそうだし、それを見込んでいるのかもしれない。それほど過剰な警備はしているはずもないと踏んでいるのだろう。

「考え過ぎじゃないのか? ほんとうにきょう来るのか?」

 運転席から佐久間が懐疑的にいう。

 たしかに根拠はなかった。きょう襲うとも、マンションを襲うとも限らない。

 今夜、ここを襲うというのは、強いていうならば瓢一郎の野生の勘でしかない。

「でもあたしが犯人なら、学校では襲わないわねぇ。ただでさえやりにくいのに、君がきょう、生徒会全力を挙げて犯人と戦うようなことを宣言しちゃったしね」

 葉桜は、瓢一郎の顔を見て笑う。

「だとすると、あたしならやっぱり、寝込みを襲うかもね。警察だってそこまで警戒していないんじゃないの? だから手薄。本気で犯人が襲ってくると思えばもっと人数を裂くはずよ」

 さすが民間の派遣とはいえ、工作員のいうことはちがう。

「なんにしても、ここを離れた方がいいな。警察が怪しんでる。ゴリラのような男が車から降りて、こっちに来たぞ」

 佐久間が後ろを見ずに警告した。

 それはまずい。おそらくあのふたりはただでさえ、自分たちになんらかの疑いを持っている。見られたくない。

 瓢一郎がそう思ったとき、かすかに上の方から悲鳴が聞こえた。五味も上を向く。

「どっから入りやがった?」

 瓢一郎は車のドアにすでに手を掛けている。

「佐久間さん、あんたはここにいてくれ」

 素の喋り方で叫ぶや否や、飛び出す。猫の姫華と、葉桜も続く。

 マンションの入り口で吉田、五味の刑事コンビと鉢合わせになった。

「なんなんだよ、おまえたちは?」

 五味が叫ぶ。

「そんなこといってる場合じゃないでしょう?」

 瓢一郎も声高になった。そのまま共用廊下になだれ込み、エレベーターの階数表示を見る。上の方で止まっていた。

「先生。階段だ」

 瓢一郎はそう叫ぶと、エレベーターのすぐ近くにあった階段を駆け上がる。続く葉桜と五味。下から吉田の声が響いた。

「五味、先に行け。俺はエレベーターを押さえる」

「くそっ、おまえら犯人の仲間じゃないのか?」

 すこし下の方から息を切らした五味の声。瓢一郎は無視した。構っていられない。駆け登るスピードを上げる。というか、折り返しの踊り場を通らず手すりを跳びこえ、最短距離で上がっていった。葉桜は付いてきたが、五味の声は遠ざかるばかり。

 あっという間に五階に到着するが、郷山、鬼塚の姿が見えない。

 玄関ドアまで走るとドアノブを掴んだ。

 開かない。鍵がかかっている。

「陽子。開けてくれ。なにがあった?」

 中からはなにも聞こえない。誰かが動く気配すら感じられなかった。

「窓は?」

 共用廊下に面している窓にはアルミの格子が嵌っている。簡単には取り外せない。

 どうする? どうしたらいい?

 途方に暮れる瓢一郎を尻目に、葉桜はポケットから二本の金具を取り出した。小型のピンセットのようなものと、細いドライバーのようなものだ。そのうちピンセットのようなものの先端を鍵穴に突っ込み、固定すると、もう一本の金具を突っ込み、がちゃがちゃとかき回すこと数秒、鍵は開いた。

 あんた工作員っていうより、ピッキング専門の泥棒じゃねえのか?

 と突っ込む時間も惜しく、瓢一郎はドアを開け、中に駆け込む。

 居間には三人が倒れていた。ひとりはおそらく陽子の母親。あとのふたりは郷山と鬼塚だった。

「うわあぁ」

 動揺のあまり叫ぶ瓢一郎。対照的に葉桜は次々と三人の脈を取っていった。

「だいじょうぶ、生きてるわ。たぶん睡眠薬で眠らされてるだけ」

 いわれてみれば、テーブルの上には食べかけのすき焼き。犯人はこの中に薬を投入したのか?

「うわあああ。なんだこりゃぁあ」

 少し遅れて入ってきた五味が叫ぶ。

「陽子は?」

 瓢一郎は五味を無視し、個室を探った。

 ひとつ目はおそらく夫婦の寝室。そこには誰もいない。

「おい、無造作に開けるな。いきなり撃ってきたらどうするんだ?」

 五味が拳銃を構えながらいう。そして自ら隣の部屋を開け、銃口を向けつつ中を覗く。

 たぶんここが陽子の部屋だ。見るから女の子らしい部屋だし、壁に制服が掛かっている。

 ベランダに面したアルミサッシが開いていた。カーテンが風で揺れている。

「そこから逃げやがった」

 瓢一郎はそれを見るなりいった。

「馬鹿いうな。ここは五階だぞ」

 それは五味の、いや、一般人の常識。瓢一郎なら同じことができる。

「いや待て。陽子はどこだ?」

 犯人は陽子を襲ったあと逃げたんじゃないのか?

「陽子をさらったのか?」

 それしか考えられなかった。だがそれは陽子が生きていることを示している。陽子を殺すことが目的ならば、ここに陽子の死体が転がっていなくちゃならない。

「おい、どうなってる?」

 遅れて入ってきた吉田が叫ぶ。

「犯人はエレベーターには……」

「乗ってない」

 聞くだけ無駄だった。玄関から逃げたんなら玄関ドアに鍵がかかっているわけがない。

「やっぱりベランダから逃げたんだ」

 瓢一郎はベランダに乗り出し、外を見る。走り去っていく間抜けな犯人の姿を見ることはできなかった。

 葉桜がスマホに向かってなにか叫んでいる。

「佐久間さんに繋がらないわ」

 そうだ。佐久間を表に残してきた。

 瓢一郎は乗ってきたワンボックスを探す。フロントガラスが蜘蛛の巣状に割れていた。ここからじゃよく見えないが、おそらくは弾痕。

 くそっ。やりやがったな。

 瓢一郎は壁を叩いた。

「先生。救急車を呼んでくれ。たぶん佐久間の爺さん、撃たれてる」

 ここからじゃ容態はわからない。生きていてくれることを祈るだけだ。

 とにかくこのままじゃ手がかりゼロ。瓢一郎は居間に走ると、郷山と鬼塚の頭を蹴った。

「起きろ、ぼけなす。なにが起こったか話せ」

 よほど強力な薬だったらしく、ふたりは寝息を立て、微動だにしない。

「犯人はどうやって中に入った?」

 ベランダから逃げたのはわかったが、どうやって入ったのかはさっぱりわからない。

「俺たちはずっと表を張っていたが、怪しいやつは出入りしていないぞ。少なくとも、表口からはな。それに関係者で中に入ったのはここで寝ているふたりだけだ」

 五味がいう。

『伊集院に電話して』

 頭の中に声が鳴り響いた。もちろん姫華からのテレパシーだ。

『見知らぬ男が入り込むのは不可能でしょう。つまり、陽子が自ら招き入れたんですわ。それなら郷山たちは見ているはず。伊集院に報告している可能性が高いですわ』

 聞き終わる前にスマホを取り出し、伊集院のケータイ番号を呼び出していた。

『言葉遣いに注意して。素に戻ってますわよ』

「伊集院? 姫華です。なにか、郷山たちから報告を受けているんじゃありません?」

『姫華様。なにかあったんですか?』

「陽子がさらわれました。郷山たちから誰か顔見知りが中に入ったかどうか、報告を受けていませんの?」

『なんですって? ……いや、報告は一切受けていません』

 怠慢こきやがって。瓢一郎は心の中で郷山と鬼塚に呪詛の言葉を吐き付け、電話を切った。

『つまり、それは陽子が招き入れることが当たり前すぎて、報告の必要がないと思ったってことですわ』

 姫華は陽子の部屋で顔をカーペットに擦るよう見ている。

『犯人の遺留品を見つけましたわ』

「なに? 遺留品?」

 瓢一郎は姫華のいた場所に走る。そこにはなにか小さなものが落ちていた。

「な、なんだ? 待て、触るな」

 瓢一郎がそれを拾おうとすると、吉田が駆け寄る。吉田が手袋をしてそれを拾った。

「カラーコンタクト?」

『しかも通常の瞳の色ですわ。これで犯人がわかったでしょう?』

『どういうことだ?』

『もう、頭がいいとは思ってませんでしたけど、そうとう馬鹿ですわね。水村礼子ですわ。礼子はこれを回収したかったけど、陽子が悲鳴を上げて床に落として、見つからなくなった。わたくしたちが駆け上がってきて探す時間がなくて逃げたんですわ』

 礼子だって。そんな馬鹿な。あいつは陽子の親友で、体に傷だってなかった。それに俺は犯人の目を見ている。礼子のように青くなんかなかった。……それでか。それでカラーコンタクトがあるのか。つまり、礼子は姫華を襲ったとき変装用に通常の瞳の色のコンタクトをしていた。それが片方外れたんだ。しかもそれを陽子に拾われた?

『礼子なら陽子が受け入れても誰も怪しまないですわ。陽子は遺留品を拾ったことなんかいっていませんでしたから、おそらくポケットにでも入り込んでいて気づかなかったんでしょうね。それから、礼子の体に傷がなかったのは、たぶん思ったより傷が浅くて、きょう調べられることを予想して、映画で使うような特殊メイクでごまかしておいたんだと思いますわ』

 瓢一郎は今いわれたことをそっくりそのまま刑事たちに説明した。ふたりは礼子の目の色のことまで知らなかったらしく、「ほんとか?」と葉桜に確認している。

 くそ。犯人がわかったとして、どうやって陽子を探す?

 礼子は陽子をどうする気なんだ? さらってどうする? なにかを聞き出すつもりか?

「とにかく捜査本部に連絡して、水村礼子の家に捜査員を送る」

 吉田がスマホで連絡を入れたが、おそらく無駄だ。郷山たちが礼子を見てるなら、警察が礼子にたどり着くのは時間の問題。自分の家になどいるわけがない。っていうか、姫華を襲うためにこの学校に入学したんなら、届け出ている住所なんて偽物に決まっている。

 陽子はおそらくまだ生きてはいるが、場所を特定できない。ぐずぐずしていると、本当に殺されかねない。

 瓢一郎は絶望した。

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