ねこねこお嬢様【新装版】
南野海
第一章 猫になったお嬢様、お嬢様になった瓢一郎
第1話
びょおおおおお。
このままだと完全に遅刻だ。
瓢一郎は自転車を必死こいてこぎながら焦る。自転車といってもスピードの出るスポーツタイプのものではなく、俗にいうママチャリ。
普段は人並みに電車を使っているが、ママチャリを飛ばしているのは、それじゃ間に合わないからだ。つまりこっちの方が早い。
なにせ線路と違って、近道ができる。
もっとも一般的にいう近道ではなかった。瓢一郎の視界に入るのは、民家。ただし壁ではなく瓦屋根だった。真下に屋根が見えたかと思うと、タイヤを通じて心地よいバウンドを感じ、ハンドルを引き起こしつつペダルをたたき付けるかのように踏むと、ふわっとした感覚とともに青空が見える。次の瞬間には別の家のトタン屋根が少し先に見えた。
早い話が、民家の屋根の上をムササビのごとく飛び回っている。こうすれば家と学校を直線距離で結ぶことができる。信号に捕まる心配もない。
子供のころから猫柳流拳法をたたき込まれたおかげだ。
当時は人生においてなんの役にも立たないことをやらされたと親父を呪った。その最たるもののひとつが、走って屋根の上を飛び移ること。この修行も段階が上がると、自転車で同じことを要求される。身軽さと同時に、脚力と、バランス感覚などを総合的に養う特訓だそうだ。それが本当にそういう意味で役に立つかどうか、今でもわからないが、少なくとも遅刻回数の減少には一役買っている。
『あははは。必死ねえ、瓢一郎。もうあきらめたら?』
瓢一郎の頭にちょっと色っぽい女の声がひびく。
「うるせい。話しかけるな、フィオリーナ」
瓢一郎は後ろに向かって怒鳴る。背中にはシャム猫が張りついていた。
メスのシャム猫フィオリーナは柳家の家族の一員で、こうしてときどき、瓢一郎の背に乗って、学校周辺に遊びにいく。
どうして猫と話ができるかというと、本人にもよくわからない。できるものは、できるのだからしょうがない。瓢一郎はなぜか物心ついたころから、テレパシーで猫と通じ合えた。もっともそれは猫限定で、人間や、他の動物の心は読めないし、思ったことを伝えることもできない。
『ほらほら、急いで急いで』
フィオリーナは、ころころと笑いながら、からかった。
それでもやはり自転車では限界があった。目の前に校舎が見えたときは、腕時計の針はホームルーム開始の時刻、一分前。さすがにもう間に合わない。
まあ、仕方がない。
瓢一郎はあきらめ、隣家の屋根、学校の塀、自転車置き場の屋根と順番にバウンドしながら着地した。
「きょわあああ」
自転車置き場でうろちょろしていた女生徒が叫んだ。
「ひょ、瓢一郎くん?」
女生徒はただでさえ大きな目をぱっちりと開け、あたふたしつつ驚きの声を上げた。
「陽子?」
それは同じクラスの
陽子の髪はすこしカールのかかった天然パーマのせいでふんわりしている。それを後ろでふたつに束ねているが、口の悪い女の子にいわせると、洗車ブラシだそうだ。眉は太く、目はいつもびっくりしたように見開いているが、その瞳はいつもきらきらと輝いている印象がある。さらにツンと尖った小さな鼻、さくらんぼのような唇と、ある意味個性的ながら非常に愛らしい顔立ちだ。
制服もよく似合っている。瓢一郎の学校、
そんな彼女が、驚きとはにかみのミックスした表情を浮かべつつ、頬を少しだけ赤らめて見つめるものだから、瓢一郎はどぎまぎしてしまった。
「え、え、あれ? 瓢一郎くん、……ど、どこから、来たの?」
陽子は、まるで照れ隠しでもするかのように、きょろきょろとあたりを見回した。
「え? どこからって……」
自転車置き場の奥は行き止まり。瓢一郎は、陽子と奥の塀の間から突然現れた。まさか空から振ってきたとは思うはずもないし、疑問に思うのはもっともだった。
瓢一郎が口ごもっていると、陽子はにっこり笑っていった。
「ううん。なんでもない。そんなことより、早くいこう。遅刻しちゃうよ」
いや、すでに遅刻だ。
そう思ったが、陽子はなにが嬉しいのか、スキップしながら洗車ブラシのような髪をぱたぱたと揺らしながら、校舎に向かう。
「ねぇ、ほんとに遅刻するよぉ」
呆然とその姿を見送る瓢一郎に、陽子は振り返って輝くような笑顔を見せた。
「あ、……ああ」
彼女はどうも時計を見ていないか、あるいは単純に時計が遅れている。
「もう、時間過ぎてるけど……」
瓢一郎は陽子に並ぶと、ぼそっといった。
「え? ああぁ、ほんとだ! だから校庭に誰もいなかったんだ」
陽子は腕時計を見ると叫んだ。単純に時計を見ていなかったらしい。
「えへへ、まっ、いいか」
そういって、ぺろっと舌を出す。よほどのんきな性格なんだろな、と思った。
まだ瓢一郎たちがこの学校に入学してから何日もたっていないが、そういえば陽子は遅刻が多い。
「あきらめるなよ。俺が正面から入って注目を集めるから、その隙に後ろからこそっと入ればいいさ」
「え? だ、だめだよ、そんなこと。悪いよ」
陽子は手を顔の前でぶんぶんふった。
「かまわないさ。どうせ、俺はみんなから目の敵にされてんだし」
それはほんとのことだった。原因は同じクラスの
姫華はこの学園のオーナーの娘で、同級生はおろか、上級生や教師ですら逆らえない。オーナーがバックに付いている上、親衛隊のようなものが守っているからほとんど無敵の存在だ。だから一年にして入学早々生徒会長になった。選挙もやっていないのに。
そんなわけで、彼女に睨まれれば、この学園内で未来がないといわれるのだが、瓢一郎はなぜか睨まれてしまった。
「き、気のせいだよ。誰も、瓢一郎くんを目の敵になんかしてないって」
陽子は少し顔を曇らせていった。
だがそんなことはない。クラスの誰もが、姫華に遠慮して瓢一郎には冷たかった。例外はこの陽子くらいだった。
瓢一郎たちは昇降口で上履きに履き替えると、教室に向かう。
「とにかく俺は前から入るから。陽子はうまくやれよ」
「で、でもさ、悪いよ、やっぱり」
「気にするな。貸しにしといてくれ」
「……うん、わかった。ありがとう」
陽子はちょっと潤んだ、熱っぽい目で見つめる。
こんなことをいいだしたのも、姫華の圧力に負けないで普通に接してくれる陽子に対するせめてもの感謝の気持ちだった。いや、それでは正直とはいえない。はっきりいって陽子の気を引こうという下心はありありだった。瓢一郎は、自分に対して悪意を示さない無邪気ながら正義感の強い陽子に、惹かれていることを否定できない。
だからそんな目で見つめられると、胸が高鳴るのだった。
自分たちのクラスである一年A組にたどり着くと、廊下から中の様子をうかがう。
担任の
瓢一郎は手で陽子に合図し、後ろに行くよう指示した。陽子はそれを見て、ぱたぱたと小走りしながら後ろのドアのところへ行く。
瓢一郎は思いきり前のドアを開けると、叫んだ。
「すいません、葉桜先生。遅れちゃいました」
さらに一歩前に出ると派手に転んで見せた。
「あらあら。困った子ねぇ」
葉桜が呆れたような顔でいう。同時に教室から派手な笑いがわき起こった。
「まっ、いいわ。さっさと席に着きなさい」
葉桜は大きな目をにっこりへの字にし、優しそうな唇に笑みを浮かべていった。
もともとこの先生は穏やかで優しいことで有名だ。さらにまだ若い美女で、柔らかいロングヘアが似合うプロポーション抜群の先生だから男子生徒たちには絶大な人気がある。
「ほら、立つのよ」
葉桜は倒れている瓢一郎に手をさしのべる。とたんに男たちのブーイングが始まった。
まあ、それも無理はないだろう。現に今も目の前にある、白いブラウスを中からぼんと押し上げるバストは凶器のように尖っているし、タイトミニからはみ出すパンストを履いたおみ足のカーブのエロさはたとえるものがない。思春期の男どもがその光景を見て、俺も遅刻すりゃ良かった、と思うのは当然なのだ。
瓢一郎は手を引かれて立ち上がりつつ、ちらっと席の後ろの方を見た。陽子がこっそり自分の席に着いたが、誰も気にしているようには見えない。
安心して自分の席に戻ろうとすると、いきなり立ち上がったやつがいた。
「先生、それは甘いんではなくて? もっと徹底的に責任を追及すべきですわ」
そんな高慢ちきな意見をいうやつは、もちろんこの学園の陰の支配者、花鳥院姫華だ。
ひとり立ち上がった姫華のプロポーションは、葉桜に引けを取らない。互いに腰まで届く髪は、葉桜のがふんわり柔らか系の栗色の髪であるのに対し、姫華のは艶光りする黒髪で、春の小川のようなさらさら系。憎らしいが、風でも吹いた日には、きれいに波打って流れ、間違いなく男を虜にし、女を嫉妬させるだろう。
さらに切れ長の瞳に、高く通った鼻筋、きりりとした唇はまさに王女様のようだ。
もっとも、じつはその顔立ちは瓢一郎に似ている。姫華を恐れてか、あるいは普段の表情が違うため気づかないのか、クラスの誰も指摘しないが、はっきりいってそっくりだと瓢一郎は思っている。背が低いのが難点だが、顔だけでいうなら瓢一郎は男としては超絶美形なのだ。
姫華もそのことを意識しているに違いない。だからこそ自分に対して攻撃的なのだと、瓢一郎は思っている。
そんな姫華が、高貴な顔を傲慢な色に染め、さらにいい放つ。
「こんな学園の秩序を乱すダニは、さっさと退学にすべきですわ」
「そうだ、そうだ」と同調するのは、姫華の親衛隊(別名、腰巾着)の
「まあまあ、そ~んなこといってもだめですよっ。遅刻で退学なら、生徒がいなくなっちゃうじゃないですかぁ」
葉桜はさらに顔いっぱいの笑顔を浮かべる。これが噂の必殺技『癒し光線』。これを浴びると、どんなに怒っているやつでも、ぽわわんという気分になってしまう。
郷山と鬼塚にはよく効いた。赤面しつつ黙り込んでしまう。
姫華はそんなふたりをきっと睨み付けると、葉桜に向かってまくし立てる。
「わたくしはべつにきょうの遅刻のことだけをいっているのではありませんわ。入学してまだ日も浅いのに、彼のまわりには喧嘩が絶えないのです。そんな人間は、わが花鳥院学園高校にはふさわしくありません」
喧嘩が絶えない。正確にいうと、姫華のご機嫌取りのために、郷山、鬼塚をはじめとする腕自慢のやつらが瓢一郎にちょっかいを掛けてくる。
しかもさらに正確にいうと、喧嘩ですらない。瓢一郎は決して手出しをしないからだ。手を出さないのは弱いからではない。猫柳流拳法は一見馬鹿馬鹿しいが、じつは強い。その気になれば郷山や鬼塚など相手ではない。
「まぁ~たまた。あなたが瓢一郎くんを特別あつかいするから、取り巻きの人たちが嫉妬してちょっかい出すんじゃないですか? ちゃんとそういう人たちの手綱を取らないと、あとで困るのはあなたですよ」
葉桜は笑顔のまま、きつい表現を使う。ある意味、ほとんど恫喝だった。
しかし「特別あつかい」だの、「取り巻きが嫉妬して」だの、まるで知らない人が聞いたら姫華が瓢一郎に気があるようだ。
「そ、そこまでおっしゃるのなら、今回だけは、先生の顔を立てておきますわ」
姫華は顔を真っ赤にして着席する。そのまま忌々しそうに親指の爪を噛んだ。
瓢一郎が席に着く途中、姫華と目があったが、姫華はツンとそっぽを向く。
クラス中がざわめく中、陽子だけがちらっと恥ずかしそうな笑顔を向け、Vサインを遠慮がちに出した。
姫華のいいがかりにうんざりしていた心が、ちょっとなごんだ。
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