吉野夏織/6:雨宿り

 ラッキーと、アンラッキーは、思った以上に紙一重だ。


* * *


 部活帰りの電車の中、のんびりと眺めていた窓に一滴、二滴、十滴、百滴。


 ギリギリまで膨れ上がった8月の積乱雲せきらんうんはとうとう自分の重さに耐えきれず、見る見るうちに雨粒の大群が鈍行列車どんこうれっしゃを襲い始めた。


 うひゃー。


 思わず声が出てしまい、慌てて口を閉じて周りを見渡す。


 よかった、誰もこっちを見ていない。


 みんな感想は同じみたいで、窓の外を見て、あちゃー、みたいな顔をしている。


 窓際に立った黒髪ロングの白いワンピースの大人っぽいお姉さんも、綺麗な顔を曇らせていた。


 それはそれで絵になる。美人ってずるいなあ。

 

 そのお姉さんも、わたしも、傘を持っていない。


 中学の時はチャリ通だったから、雨宿り出来る分まだ良い方かも知れない。


 一夏町駅ひとなつちょうえきに着くまでに通り過ぎてくれるといいのだけれど。


 なんて、願った通りにいくはずもなく(特に天気については、その傾向が強い)、雨脚あまあしはむしろ強まっている中、あっさり一夏町駅についてしまった。


 一夏町駅はホームが一階にあり、ホームから階段をのぼって二階にある改札を出てまた階段を降りることになる。


 改札を出て右側の階段が西口、左側の階段が東口だ。私は西口側に住んでいる。


 お母さんに迎えに来てもらうかあ。


 と、右肩に掛けた鞄をごそごそしながら階段を降りると、見覚えのある、いや、見覚えのありすぎる後ろ姿があった。



 西山くん。



 左手に掴んでいたスマホを、無かったことみたいに手放して、鞄のファスナーを静かに閉じる。


 西山くんの後ろにそそっと近づきながら、考える。


 さて、どうしたものか。


 脳みそをフル回転させて、肝心の一言目をイメージする。


『よっ』え、そんな仲いいっけ?


『すごい雨だねえ』そ、そうだね。


『夕立とゲリラ豪雨の違いって知ってる?』そんなの私が知らない。


『雨が綺麗ですね』それを言うなら、雨じゃなくて……。


 あらゆるセリフを頭の原稿用紙に書いて、たった一言の正解を探す。


『西山君、』

 うん、それがいい。シンプルイズベスト。


 ファイナルアンサーだ。


 声色を整えるために、咳払いをして……コホン、


「にし」

「おお、吉野さん。部活帰り?」


 せっかく見つけたたった一言を宣言する前に、咳払いが西山君を振り返らせてしまった。


「すごい雨だねえ」


「そうだね」


 屋根の下、たった二人で横に並んで外を眺めていた。

 右に立つ西山君の横顔を、ちらちらと見ながら、私はまた頭の原稿用紙を広げていた。


 トン、トン、トン、トン、トン、トン、トン、トン……。


 屋根の外の流れるような雨とは別に、どこかの雨垂れが屋根の下にある自動販売機の頭を同じテンポで叩いていた。


 この豪雨を眺めて「すごい雨だ」ということを確認する時間だから黙っててもいいんだ、と、心のどこかで言い訳をして、次の一手を考えていた。


 奈良くんに助けを求めたいけど、さっきスマホは手放したばかりだ。


 トン、トン、トン、トン、トン、トン、トン、トン……。


 かされるような気がして、勝手に心拍数がそこに合わさっていく。


 なんでもいいから、繋がないと。


「西山くん、夕立とゲリラ豪雨の違いって知ってる?」


「え、夕立とゲリラ豪雨? 知らない。何か違うの? 同じものをそう呼んでいるのかと思ってたけど」


「あれ、そうなの?」


「え、知らないの?」


 彼は不思議そうな顔をしていた。


「夕暮れに降るゲリラ豪雨が夕立、かな。だから多分、これは夕立」


 知りもしないことをテキトーに口走る。


 でも、実際、これをゲリラ豪雨なんて風情の無い呼び方をするのには違和感があった。


 ぼんやりと紅色がさして、藍色が空気に染み出しているような、こんな綺麗な雨模様のことを。


 ひいき目だろうか。


 ひいき目だろうな。


 私、夕立を応援しちゃってるんだ。頑張れ、夕立。なんて。なんて、馬鹿だろう。


「なるほど。確かに、夕立の方がいい。なんか、懐かしくなる。この匂い、独特だよなあ」


 西山君は夕立を懐かしがる、とまた一つ何の役にも立たない知識を脳に染み込ませておいた。


 お腹の少し上のあたりが暖かくなるような気がした。


「確かに今日は、雨が綺麗だもんね」


「おお、詩人だな」


 西山君は、おじさんみたいな言い回しで意地悪に笑う。


 やばい。可愛すぎる。


「とはいえ、サイアクだね、この状況は」


 上ずった声を隠そうとした結果、何故か声が少し大きく、なんだか不遜ふそんな感じになってしまった。


 急いで目をぎゅっと閉じて、こっそり背中の後ろで手を組んだ。


 こんな風に逆さまの形で祈るのは、マラソンの授業の前日のてるてる坊主みたいだ。


 こんなことを祈っている自分が、もしかしたら一番不謹慎でサイアクなのかも知れない。


「んー、まあ、吉野さんいるから退屈じゃなくて助かるけど」


 西山くんのさりげない言葉に、激しくむせた。


「え、大丈夫!?」


 胸を撫で下ろすのと、胸を詰まらせるのが同時に起こった結果だった。


 ひとしきりせたあと、御礼を言って、深呼吸した。


 そっと、大振りにならないよう気をつけて、鞄を左肩に持ち替える。その時、薄い鞄の厚み分だけ、右にずれてみた。


「ねえ、西山くん」


「ん?」


「西山くんて、彼女とかいるの?」


 奈良くんにも聞いてもらったことがあることを、自分でも聞いてみた。 


 同じクラスの奈良くんと私は同盟関係を結んでいる。


 奈良くんは私の親友のひなたが好き。

 私は奈良くんの親友の西山くんが好き。

 だから、お互いをサポートしあおう、という同盟。


「彼女は、いないけど」


 冷静なふりをしているけど、彼女がいるかを聞くことは、時に、事実確認以上の意味を持ってしまう。口がカラカラになっていく。


 こんなに雨降ってるのに、仕事しろ、湿気!


 ん? 今、いないけどって言った!? え、「けど」って、何……?


「吉野さん?」


「ひゃい!」


 頭を回転させているところに呼びかけられて、変な声が出てしまった。


 西山くんがくつくつ笑う。


「何いきなりテンパってるの」


 ハッとするほど、優しい笑顔。


 笑った時、眼鏡の奥の目尻が少しくぼむ。


 すごく整った顔ではないと思うけれど、その分人懐っこい顔をしている。


 西山くんと居る時、秒単位で私の心はあっちこっちに行かなきゃいけなくて、すごく忙しい。


「ひなたとは付き合ってないんだ?」


 こちらも裏は取れてる事実をわざわざ突きつけてみる。


 なんか、イジワルだな、自分。


 西山くんはこんなに優しいのに。ひなたはあんなに優しいのに。


「ひなた? そんなに仲良く見える? 別に付き合ってるとかじゃないよ」


 すみません、本当は知ってます。ひなたに聞いたことあります。


「あ、でも、なんか30歳の時にお互い相手がいなかったら結婚しようってことにはなってる」


「なんですと!?」


 なんだそれ、いいな!


 ていうか言ってよひなた! そういうことは! 訊いた時に!


 あとで奈良くんに報告しなきゃ!


 心の中で親友を責めていたら、西山くんがまた同じ顔して笑ってた。


「吉野さん、キャラ崩壊してる?」


「いえ、いつもこんな感じですし!」


 笑ってくれて嬉しい。

 私のことで、笑ってくれるのが嬉しい。


「そうなんだ。いや、おれ、吉野さんにあんまりよく思われてないんだろうなって思ってたから、なんか普通に話せて嬉しい」


「え!? なんで?」


「ほら、去年、おれのことめんどくさいやつだって言ってたから」


「めんどくさい? そんなこと言った? 私が?」


* * *

 中学から高校に進学する間の春休みに一夏町に引っ越してきた私は、周りのみんなほど友達とか知り合いが多くなかった。


 そんな中、同じクラスのひなたは家が近いことで声をかけてくれて、何回か一緒に帰る内に仲良くなった。


 西山くんと初めて会ったのは、一年生の時。


 ひなたに誘われてなんとなく担当することになった文化祭実行委員の全体ミーティングの時だった。


 文化祭実行委員は、装飾班、パンフレット班、調理場班など、いくつかの班に分かれている。


 班決めの結果、私と西山くんは他先輩方と一緒に、文化祭の各クラス、部活の出し物の場所の割り振りやタイムテーブル決めをするための「プログラム班」になった。

 

 西山くんとちゃんと話をしたのは、何回か目の委員会で、同じ教室の中で、各班に分かれて行なっている打ち合わせ中のことだったと思う。


 どんな出し物があるのか、先輩が一年生たちに教えるために去年のパンフレットを見せてくれた。


 先輩がおおまかにどこでどんなことをしているのかを説明してくれて、その最後に、

「校庭では毎年、野球部がストラックアウトをするんだよ」

 と教えてくれた。


 そのあと、西山くんが、私に話しかけてきたのだ。


「文化祭なのに、運動部もいろいろやるから、文化なのか体育なのかよくわからなくなっちゃうよね」


 はい? と私は思った。


「運動部は運動部でその日のために一生懸命やるんだから、別によくない? 私吹奏楽部だけど、なんとも思わないよ?」


 なんだこの人、すごくめんどくさい! 何を言ってるんだか、わからない。


「あ、違う違う。運動部もやりやすいように、文化祭じゃなくて学園祭とかにしたらどうかなって思って。3年生に言ってみようかな」

 そう言いながら、すみませーんとか言って委員長のところへ歩いていった。


 なんだ。


 イライラしてた気持ちがすーっと落ち着いた。


 なんか、そんな些細ささいな誰も気にしていないことを、それでもちゃんと解決していこうとする姿勢がなんか、かっこいいというか可愛いというか、うん、もっと単刀直入にいうと、キュンときてしまった。

 不意打ち効果、おそるべし……。


「『体育祭』ってのが別にあるから、『文化祭』はそのままでいいんだってさ」


 西山くんは、三年生にソッコーで言いくるめられて、頭を掻きながら照れ笑い浮かべて戻ってきた。


 この人、こんな風に一つひとつ全部かけ違いを直そうとしていくのかな。


 それって、今後、生きていくのが、大変なんじゃないかな。


 その時に私はこう言ったのだった。


「西山くん、めんどくさくない?」


 私は、すごく、素敵だと思うけど。と、思いながら。

 

* * *


 西山くんが、昔の話を思い出させてくれた。


 うん、確かに言ってた。


「あの時、面倒くさいって言われたからさ。そうだよなあ、と思って、直さなきゃとは思ってるんだけどね」


 なんてこと!


「いやいや、あのめんどくさいっていうはそういうんじゃなくてさ!」


 必死に弁解しようとする。


「いやいや、無理しなくてもいいって」


 西山くんが笑う。


 無理とかじゃない!


 西山くん天然なのかな? いやいや、この場合は明らかに昔の私の言い回しが悪かったな……。


「そういうんじゃなくて、そういう一つ一つにこだわるところ、生きていく時にめんどくさくないのかなって思った聞いただけで……」


 そんな誤解されてたのか……ほんとにサイアク!


「まあでも実際僕、そういうところすごくあるんだよ。言われて気付いた。この間もそうだったんだよね。ある人と話していた時、どこから大人か? 大人の定義は? みたいな話をその人にものすごくしちゃって。その人は、面白いっていってくれたんだけど、普通は面倒くさいよなあとやっぱり思う」


「へえ、そうなんだ?」


 ある人って、誰だろう?


 そんなことが気になって、話が半分くらいしか入ってこない。

 

「あ、そうだ。」


 もやもやし始めている私の心なんか知るはずもなく、西山くんは何かを思いついて、ビデオカメラを取り出した。


「この夕立を、撮っておこう」


「何に使うの?」


「いや、なんというか……」


 もごもごしていらっしゃる。可愛い。


「なになに?」


 その人の考えていることとか、やろうとしていることを、もっと知りたくなる。興味が止まらなくなる。


『好き』って、多分そういうことなんだと思う。


「いや、実は僕、今、映画を撮ろうと思ってて。何かに使えるかなって。今はまだ脚本を書いているとこだから、そんなシーンないかも知れないんだけど」


「脚本? てか映画? すごいね!」


 映画撮ってるの西山くん! ていうか映画って素人しろうとに撮れるものなの?


「いやまだ作ってもないから……」


「え、それ、何、どんな話?」


 聞いて良いものかわからないけど、話の継ぎ目に私は無邪気なふりをして乗り込む。

 

「まだ途中だけど、話は、なんとなく、白いワンピースが似合う女の人が、夏の間だけ、東京から実家に帰ってきて、その間に色々なところを見て、無理をしてたこととかに気づく、みたいな、感じかなあ、と……」


 西山くんがすごく照れながら教えてくれる。


 白いワンピースとな。私、似合うだろうか……。

 

「ねえ、その、女の人って、誰が演じるとか、決まってるの?」


 もし決まってなければ、と勇気を出したところで、


「うん、一応」


 と即答される。


 言い出さなくてよかった。


 言い出さなくてよかったけどすごくテンション下がるな……。


「そうなんだ……」


 ねえ、西山くん、その人のこと好きなの?


 そう思うと、怖くなってしまって、それは誰? って聞けなかった。


 沈黙が走る。


 西山くんは私がビデオのために黙ったと思ったみたいで、撮影を始めた。


 もっと喋れなくなる。


 助かったけど、頭の中が、ぐるぐるしてしまう。


「全然やまないなあ。これはもう、ふられても行くしかないか」


 ハッとする。言葉のあやだけど。


「ふられても、行くの?」


 思わずすそを掴みそうになって、当たり前だけど、やめた。


 だって、私は彼女じゃない、ただの友達だから。


「そうだなあ。吉野さんはどうする?」


 私は、どうするんだろう。


 私の気持ちってどうなんだろう。


 でも、そうだね。


「うん、私も、ふられてもいいから、いく」


 そっか、と西山くんが笑ってくれた。


 ビデオカメラを閉じるパチっと言う音。

 

「じゃあ、せーので走ろう」


 潜水する時みたいに、息を大きく吸いこむ。


 夕立の匂いで身体中がいっぱいになる。


「せーの!」


 二人でびしょ濡れになりながら駅からの一本道を走り始めた。

 

 覚悟さえ決めてしまえば、その生ぬるい水滴は、なんだか心地よかった。

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