第12話 失踪

 目が覚めた。今、何時だろう。何時でもいいか。携帯電話を見る。みどりからの着信もメールも無い。ここは何処だろう。何処でもいいか。昨日も同じことを思った気がする。昨日と今日の区別がつかない。あるいは同じ今日を毎日繰り返しているだけなのかも知れない。恐らく僕はこれから洗面所に行って鏡を見る。髭が伸びているのを見て、今日が全くの新しい一日であることを確信する。昨日も一昨日もその前の日もそうしたから。髭を伸ばすだけの毎日。

 あの夜のあと、僕は会社に電話をして、インフルエンザにかかったからと一週間の休みを取った。堂本にも同様にスタジオ練習が出来ない旨を告げる。勿論、嘘だ。けれども仕事も練習も出来ないことは本当だ。理由が違うだけで。

 鏡を見て、歯を磨く。鏡の中の自分に向かって「お前は誰だ?」と問い掛ける。鏡の中の自分も「お前は誰だ?」と問い掛けてくる。なんだ偉そうに。

 頭の中にフレーズが想い浮かぶ。びょこん、ぺたん、ゲシュタルト。ぴょこん、ぺたん、ゲシュタルト。面白いな、妙に語呂がいい。新曲にどうだろう。「次の曲は鏡のなかの自分に話しかけて思いつきました。聴いてください『ゲシュタルト崩壊』」

 斬新だ。面白いじゃないか。きっと受けるに決まっている。これ、昨日も一昨日もその前の日も思ったな。毎日少しずつ頭がおかしくなっている。あるいは、頭のおかしい毎日を繰り返しているだけかも知れない。

 眠っている時はあかねに罵倒される夢を見る。起きている時はただ馬鹿みたいに携帯電話を見つめている。腹が減ればパンを齧り牛乳を飲む。空腹より面倒が勝てば何も食わない。みどりからの連絡を待ち明日で一週間になる。みどりの電話番号を発信しようとして携帯を触る。あと一回親指を動かすだけで彼女に繋がるはずだ。思い止まる。何度も何度も繰り返してきた動作。もういいよな。彼女は連絡を控えて、と言っただけで連絡するなとは言っていないよな。

 一週間は我慢しようと思ったけれどもう限界だった。寝不足と栄養不足。そして不安。彼女はどう思ったのだろう。罵倒でも何でもいいから彼女の意見を知りたい。いや、意見ではなくてもいい。ただ、声を聞きたい。一週間を前にして、僕はみどりの携帯に電話をかけた。もう、無理だ。

 電話が繋がらない。間違えたか? いやそんな筈はない。登録番号から掛けたからだ。嫌な予感がする。あかねだ。あかねの時もそうだった。試しにメールを送ってみる。未配信だ。みどりに何かが起こっている。嫌な汗がじわりと滲んだ。もう約束だとかなんだとか言っていられないじゃないか。チノパンを履きジャケットを羽織る。伸び放題の髭と寝癖のついた髪もそのままに、僕はみどりの部屋に向かった。

 みどりの部屋のインターホンを押す。返事がない。仕事中か。いや、何かが違う。そもそも、ボタンを押してもインターホンが鳴らない。電気が止まっているのか? スペアキーを使って鍵を開けてみる。開かない。鍵が合わない。ガスのメーターを見ると閉栓中の札が掛けてある。みどりはもうここには居ないということか? 引っ越したのか? でも一体何故黙って? 何処に?

 動悸が激しくなる。分からないことだらけで混乱した。居ないと分かっているのに開かないドアノブをガチャガチャと回し扉をドンドンと叩いてみる。何の応答もない。分かっている。一体どうしたというのだろう。分からない。ふと、扉の新聞受けに目をやると茶色の封筒が刺さっているのに気がついた。何だろう、反射的に手が伸びる。封筒には「葛西たかお様」の文字が見えた。みどりの筆跡だ。手紙だろうか。封筒を開けると三枚の便箋が入っていた。一枚目の最初の行にはみどりの字で「たかお君へ」と書いてある。僕宛ての手紙であることは間違いないようだ。続きを読む。


 「たかお君へ。 あなたがこの手紙を手にする頃に私はもうこの街には居ません。かねてからそうしようと思っていた通り、地元に帰り準備していたアパートで新しい生活をしていることでしょう。荷物を纏め業者さんに引っ越しをしてもらい、管理会社に鍵を渡してからこの手紙を挟んでおきました。連絡をすると言ったのにこんな形にしてしまい、本当にごめんなさい。

 あなたが実際にこの手紙を手にしたかどうかを私は知ることをできません。だから、こんな方法を選びました。

 私はあなたに本当のことをきちんと伝えなければいけない、という想いと、あなたにだけは伝えられない、という想いの間で揺れていました。ずるいよね? あなたは正直にあなたの苦しみを話してくれたのに。あなたがこの手紙を読むかどうかは運任せ、神のみぞ知る、そう思うことでようやくこの手紙を書き上げることができました。

 そしてここからはあなたにとって不快なことが書かれています。あなたの生活の一部を壊してしまうかも知れません。私も出来ることなら読んで欲しくない。私とあなたの楽しかった想い出をそのままにしておきたいのなら、ここで読むのを辞めて下さい。そして、言わせて下さい。私は今ではあなたのことが好き。これだけは信じて下さい。

 楽しかった時間をありがとう みどり」


 便箋の一枚目にはそう書かれてあった。不快? 生活を破壊? みどりは何を言っているんだ? 僕に呆れて罵倒するつもりじゃないのか? ひょっとしてここからみどりの隠し事が明かされるというのか? その隠し事が僕を不快にさせて生活の一部を破壊するということか? 

 読めば分かることだろうけれど、次の便箋に進む勇気が無かった。知りたい。でも、今の半分狂ったような精神状態で読んで正気でいられる自信が無かった。良くないことが書かれてあることは間違い無さそうだったから。

 とりあえず封筒をジャケットのポケットにしまう。少なくともみどりがあかねと同じ道を辿らなかったことに安堵した。無事で居てくれるならとりあえずそれでいい。

 酒が飲みたくなる。今夜、ブラインド・レモンにでも寄ってみよう。トラオさんも誘ってみよう。そして全てのことを話してみよう。あかねのことも、みどりのことも。

 自分の部屋に向かう為に歩き出す。何となしにポケットからもう一度スペアキーを取り出してみる。開ける部屋のないスペアキー。みどりが付けてくれたピンクの鈴。風に揺らされチリチリと乾いた音を鳴らしていた。

 

 

 

 

 

 

 

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