第6話 トラオとレミ


 「ライブ、見たぜ」


 トラオさんはバーカウンターに肘をついたまま、ひと言だけそういった。こちらを向くこともなく、詰まらなそうにピスタチオの殻を剥き、剥けたものをまた詰まらなそう口に運んでいた。詰まらなさそうにピスタチオを咀嚼をしている間はバックヤードの酒瓶を睨み、次に飲むものを物色しているようだった。

 

 「どうでしたか?」


 聞くまでもないように思えたけれど、沈黙のなかに響くピスタチオの咀嚼音に威嚇されて一応伺いを立ててみた。強面の人は、怖い顔をせずに黙っている時が一番怖い。


 「おまえさあ、あんなんだったっけ?」


 ようやくこちらを向く。トラオさんのウェィブがかかった長い髪がかすかに揺れてリンスの匂いがした。どんなに強面でも長髪は髪が揺れればリンスの匂いがする。


 「なんだぁ? あのドラムは? 腑抜けた音で叩きやがってよお。ちーん、ぽこぽこ、ちーんぽこぽこ、ってなぁ。おまえ、ドラマーはよお、和尚じゃねえんだぞ?」


 やはり小言が始まった。


 「小手先! 小手先で叩いてっから芯喰った音が出ねえんだよ! もっとこう脱力とインパクトをだな、まあ、細けえことはいいや。何つーか、タイコをよお、リズムをよお、支配してねぇんだな。叩かされてんだ。刻まれていく時間にな、ベードラやらスネアやらハットやらの音を置きにいってんだわ、おめえのドラムはよ。まるで貢ぎ物だ」


 「支配してない」の言葉に少しギクリとした。トラオさんはドラムのことになると鋭過ぎるほど鋭い。ドラマーの癖、性格、心理状態まで見抜く。


「全然、別人だわ、おめえのドラムは。前やってたバンド、荒削りだけどいい感じに叩いてたじゃねーか。だから俺の後釜をおめえに託したんだぜ? 一昨年だったか? 解散したのは。いや、下手じゃねえよ? むしろ小手先の小技は増えて分かってねえ奴がみりゃ上手いなってなるんじゃねえのか? 知らねーけどよ。でもな、あんなタイコ叩くなら別におめえじゃなくてもいくらでも代わりは効くわな。わりーけどよ、がっかりしたわ」


「そんなに酷かったですか」


「酷いっつうかよ、なんかイライラすんだな。スカっとしねえっつーか。叩きっぷりが悪いんだわ。そりゃあよ、引き継いだばかりで堂本やリュウジとまだ息が合わないってのはわかるよ。走らないよう、もたらないよう、慎重に、正確に叩こうとしてるのも分かる。でもな、そこが上手く行こうが行くまいがそんなこたぁ、どーでもいいんだわ。俺が言いたいのはもっと根本的な部分」


 そこまで言ってからトラオさんはロックグラスに残っている酒をひと息に飲み干した。店内は珍しく僕らの他に客がいない。手持ち無沙汰そうにグラスを磨いているマスターに、トラオさんはラフロイグをロックで注文した。


「何かよ、おまえ、まるで生きてる気配がしないぜ? フィルもリズムアレンジもどうせ堂本のいいなりだろ? 奴の好み全開だったからな。全部受け身。だからリズムに僅かばかり迷いを感じるんだ。能動的であることを拒否して、ドラムセットの主人であることを忘れて、ただ過ぎていく時間にそれなりのものに聞こえる音を差し出していく。ロックドラムってそんなもんじゃねえだろ? なんつうかさ、切ないほどに音が叫んでるっつうかさ、ライブを見てる奴の魂に訴えかけるっつうかさ、そんなところを見たいわけよ、ステージのこっち側にいる人間はな。おまえという人間の叫びが全く聞こえてこねーんだわ」


 ラフロイグのロックです、そう差し出されたグラスをトラオさんはクッと一息に空けてタンとグラスをバーカウンターに叩きつけるように置いた。


「確かにトラオさんのドラムはそんな感じがしましたよね。暴力的に叩きまくったかと思えばガラス細工を扱うように繊細に刻むこともできる。マジでかっこ良かったよなあ。前から聞こうと思ってたんですけど、なんで『エゴサーティ』辞めちゃったんですか?」


 集客もある、インディースとは言え地元では知名度も上がっていた。順風満帆に見えたバンド「エゴサーティ」の名物ドラムが抜けるというのはこの界隈ではちょっとした事件だった。


「俺の話なんてどうでもいーだろ! おめえのタイコの話をしてんだから! マスター! ラガヴー……じゃなかった、ボウモア! ロックで! で、なんだ、どこまで話したっけな……」


「おまえの叫びが全然聞こえてこない……ってとこまでです」


「おお、そう。そういうこと。な? もっと『エゴイスト』になれや。おめえの人生はな、誰かの為にあるんじゃない、おめえの為にあるんだ。そうだろ? タイコも一緒。アンサンブルなんてものはな、糞喰らえだわ!」


 ボウモア、ロックです、と静かで無駄のない動きを見せてマスターがグラスを差し出した。話が途切れるタイミングを見計らっていたのかもしれない。マスターは、レミももう直にきますからね、というひと言を付け加えた。

 トラオさんはボウモアを飲みながら高校の時の同級生、レミさんの話をマスターとしていた。マスターはレミさんの名前の由来がフランスの有名なブランデー、「レミーマルタン」から来ていることを明かした。そして彼女にバーテンダーよりも、親としてはそろそろ婚活を始めて欲しい心境をトラオさんに打ち明けていた。

 マスターの絶妙なタイミングの介入で微妙な空気から解放された。あるいはそうなるように仕向けたのかもしれない。

 トラオさんの言葉を思い返してみる。

 支配されてる。

 まるで生きてる気配がしない。

 おまえという人間の叫びが全く聞こえてこない……。

 

「あー、今日は遅くなっちゃた。マスター、おはようございます」


 程なくしてレミさんがバックヤードの奥から姿を現した。急いで来たのか少し息を切らしている。

 ああ、遅かったね、とだけいってマスターは僕らの前から離れた。トラオさんと仲の良いレミさんに接客をさせようとの配慮だろう。


「あら、タカオくん、トラちゃん、お二人揃ってドラム談議? いらっしゃい!」


「おう、レミ、重役出勤たぁ、いい御身分だな。彼氏とデートでもしてやがったか?」


「今日はバースクールがあったからね、遅くなっちゃった。それよりタカオくん、この間は大丈夫だったの? 珍しくフラフラだったけど。マスターが止めに入らなければ死ぬまで飲み続けるんじゃないかって勢いだったから……」


 これ、レミ! とマスターの静かな叱責。僕とトラオさんは親しい間柄といえど個人情報は迂闊に明かすな、との叱責かも知れない。


「まあ、マスター、他に客もいねえ事だしよ、堅苦しいのは無しだ。そんで、なあ、なんだタカオ、おめえ、やけ酒かなんかか? 珍しいじゃねえか、冷静沈着が売りのタカオちゃんがよお」


「別にそんなんじゃないですよ」


「何だ、相談に乗るぜ? ひょっとしておめえのドラムが冴えないのもそこに原因が……」


「何でもないって言ってるでしょう!」


 こういう時のトラオさんは少ししつこくなる嫌いがある。思わず語気が強くなってしまった。僕はグラスに残ったビールを空け、レミさんにラガヴーリンのロックを注文した。


「おい、レミ、これどう思う?」


 レミさんは顎に手を遣り少し考えているふうな仕草をみせた。薄紅色に彩られた唇がキュと結ばれる。


「うーん、そうね。まずひとつ、ラガヴーリンといったら今、トラちゃんが飲んでいるのと同じスコッチよね、それも同じアイレイ地方産のシングルモルト。これは多分、『降参』の想いが強いわね、同調することによってある種のへつらいやおもねりが混ざってるの。もう何も聞いてくれるなと。おそらく、無意識のうちにだけどね」


 レミさんは客が何の酒を選んだかでプロファイルすることを得意としている。勿論状況や客の仕草、その酒を選ぶ事になった経緯など、総合的に判断するそうだけどその精度は異常な程高く、このバーの常連の間でちょっとした名物になっていた。僕もここでレミさんと他のお客さんとのプロファイル遊びを何度も見た事がある。そしてその精度にいつも驚かされていた。


「それから、ラガヴーリンの選択ね。お酒に詳しいタカオくんがアイレイ産スコッチウイスキーの中からあえてこれを選ぶのは偶然じゃない、何かがあるわね……ラガヴーリンといったら、ピート香がかなり強くて『薬みたいな味』あるいは『毒薬みたいな酒』という人もいるわ。こんな最高クラスにクセの強い酒を選ぶとなると、そこには『消したい想い』みたいなものがあるのかも、ラガヴーリンの強烈な香りで頭の中を満たして欲しいといったような。あるいは動揺を隠す為に、あえてそのクセの強さに頼ろうとしたのかも。トラちゃんのしつこい追求に耐えるためにもね」


 これ! レミ! と再びマスターの叱責。なーんてね、ごめんなさいね、と謝りながらレミさんはラガヴーリンのロックを僕に差し出した。黒髪を後ろでひとつに纏めた薄化粧の姿にペロっと舌を出す仕草がとても三十歳とは思えないほど幼くみえた。


「ははーん、なるほどねぇ。さてはおめえ、女だな。女に振られたのか?」


 トラオさんの問いに、あかねに「ごめんなさい」といわれた、高校生の頃の記憶が一瞬だけ頭をよぎる。


「別に振られてないですよ! もういいじゃないですか! ドラムの話しましょうよ! 芯食った音! その芯食った音を出すには具体的にどうすればいいんですか!」


「なーんだ、図星かよ。かーっ、情けねぇなぁ。女に振られたぐらいでよ、動揺しちゃってよ。おめえキンタマついてんのか?  どっかに落っことしてきてないか? まあ、いいや。レミ、俺にもラガヴーくれ。ロックでな。そんでこいつにはキンタマでも持ってきてやって。ダブルでな! ああ、ホンマにもう、あー、情けねえったりゃありゃしねえ、女問題ねぇ、はぁーっ……」


 レミさんにしろトラオさんにしろ、当たらずとも遠からず、なところが本当に恐ろしい。このふたりに疑惑の目を持たれて追求が始まったら流石にもたない。そもそも、あかねとの事は気軽に話せる部類のことではないのだ。


「トラオさん、今はマジで勘弁してください。時期がきたら相談することもあるかもしれません。女問題とか、そういう簡単な話じゃないんです。自分では誤魔化せていたつもりの事が、ひとによっては誤魔化しが効かない事も、今日、充分分かりました。ただ、自分の中で整理しきれない想いがあるんです。今は、何も聞かないで下さい。お願いします」


 想いの丈を素直に白状してみた。ひとつの賭けだった。面白がって酒の肴にされることも想定された。


「スネアのミュートな、おまえがやろうとしてるドラムだったらリングミュートが合うかもしんねえな。試してみろよ。いい感じにデッドになるから。それから、セットにスプラッシュを組む。な。刻みの中にライトなアクセントが入れられて面白いかもしんねえな。あと、ハットを16で刻むだろ? 脱力がなってねえわ。腕の筋肉がむきむきになってらっしゃる。もっと力を抜け。チクツクタン! って音になるから。今のおまえはチキチキタン! なんだよ、分かるな。グルーヴがない」


「ありがとうございます。脱力ですか。なんかコツみたいなのはありますかね?」


「スティックをな、握るな。添えるだけにしろ。最初は当然、スティックがすっ飛んでいくわ。握ってないんだから。でもな、手が、指がスティックの重さとハットに当たる衝撃を少しずつ覚えていく。一瞬だけどこで握ればいいか、その肌感覚が鍛えられる。もちろんこれは比喩だ。握らないで済むはずが無い。ただ、添えると握るを意識的に使い分けろ。そして添える時間が長ければ長いほど……」


 トラオさんはピスタチオをひとつ口にほうばってボリボリと咀嚼してから続けた。


「脱力を得ている、ということだわ。あとは気持ちの問題。今回これが八割。何があったのか知らねえけどよ、話せるときが来たらまた話せ。いいな」


「ありがとうございます。脱力、試してみます」


「おまえ、真面目過ぎんだよ、何もかも難しく考えてさ。抱え込んじまってさ。もっと楽に生きようや。今も眉間に皺寄ってんぜ。悪かったな、説教みたいになっちまって。さあ、仕切り直しだ。笑って酒飲もうぜ」


 お待たせ致しました、とレミさんの声。目の前にはラガヴーリンのロックとカクテルグラスに入れられた殻付きのクルミがふたつ。何だろう。クルミ? 二つだけ? 少し困惑した。


「……ありがとう……ございます……、えっと、あと、これ、何ですか?」


 レミさんは清楚な笑みを湛えて答える。


「ご注文頂いた『キンタマダブル』です。こちらのお客様からです」


 レミさんの悪戯に、バーは笑い声に包まれた。


 


 




 


 





 














 








 







 


 



 




 







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