うろんな街

化野生姜

第1章「白布」

『その街の境目は薄皮一枚程度しかないんだよ。』


…それは、誰の言葉だっただろうか。


ペタペタと、マンションの廊下を土気色になった裸足が進んで行く。

痩せた体に合わせ目が逆になった白い着物。

顔の大部分が被された白い布によって見ることができない。


「…なあ、信じられないだろ?

 爺さん、一週間前に俺らと同じ階で孤独死したはずなんだぜ?」


吹き抜けの廊下。

上階から歩く死体を見下ろしながら、友人はそうつぶやいた。


「…葬儀屋が部屋から運び出そうとした時に不意に消えちまって、

 以来、夜となく昼となくこうして廊下を歩いているんだ。

 気味悪がって、大部分の部屋の住人は引っ越しちまったよ…。」


僕がこのマンションに引っ越して一日目。

家飲みのためにコンビニに行こうと僕を部屋から連れ出した友人。


しかし、廊下に出たところで僕らはくだんの徘徊する老人に出くわした。


「管理人の話じゃあ、心筋梗塞で確かに死んでいたそうだし、

 医者の死亡診断書も出されていたって。でも、今でもこうして

 徘徊している…気味が悪いったらありゃしない。」


…なるほど、だからこそ僕は大学近くの倍率の高い

このマンションに簡単に引っ越せたというわけだ。


合点がいきつつ、僕はマンションの吹き抜けを見渡す。


廊下に並ぶ幾つかのドアには、水道やガス局の札が下がり、

そこに住人が住んでいないことを示していた。


…しかし、こんなに昼となく夜となく、うろつくのなら、

警察や医療関係者が動きそうなものだが…。


そんなことを考えていると、帰り際にコンビニ帰りにチューハイと

酒のつまみをたんまり買い込んだ友人が見透かしたようにこう言った。


「ねーよ、何でか爺さん、死んだ時だけしか警察も医者もこなかった。

 噂じゃあ、誰かが金か権力か使って口止めしてるって話だよ。

 もともと、あの爺さんの身元引受人もわかっていないそうだし…。」


…なんだよ、それ。

第一、いったい誰がそんなこと…。


そう言おうと口を開くも、僕は言葉を続けられない。


なぜなら、僕の部屋へと続く廊下、その向こうから

顔に布を貼りつかせた老人がやってくるのが見えたからだ。


老人は、ぺたり、ぺたりと裸足でやってくる。

姿は枯れ木のように細く、布は凸凹がはっきりわかるほどに

顔にしっかりとくっついていた。


「くそ、しょうがねえな。回り道して俺の部屋で飲もう。」


そう言いつつ、友人は僕の腕を引くと歩き出す。


遠くなっていく老人の姿。

その時、僕は友人がポツリとこう漏らすのを聞いた。


「…でもな、俺、時々思うんだよ。

 あの爺さんの布の下の顔が、今どうなっているかって…。」


…確かに、それは僕もかすかに感じていた。

あの老人の顔の布。


あの布の下はどうなっているのか。

生きている顔なのか、死んでいる顔なのか。

しかし、それはめくってみないとわからない。


確かめてみたい。という欲求。


だがそんな欲求を飲み込むほどに、あの老人は不吉に感じられた。

あの布一枚の下に、きっと生者と死者の境界線があるように感じられた。


だからこそ、僕にはそれを開けてみる欲求は生まれなかったのだ…。


それから一週間後の雨の降る日。

講義のない午後、部屋で昼寝をしていた僕はドアを叩く音に目を覚ました。

開けてみれば、友人が青い顔をして佇んでいる。


「…俺、見ちゃったかもしれない。」


寒いのか、震える友人にココアを振る舞うと、

彼は両手でカップを握りしめながらポツリポツリと話し出した。


図書館に本を返しに行った後、

マンションの階段付近で友人はくだんの老人と出くわしたらしい。


「いつもだったら、遠回りするか、来た道を戻っているはずだった。

 でも、その日に限ってなぜか横を通り過ぎてみたくなって…。」


好奇心が勝ったのかもしれない。


ともかく、友人は階段を上りがてら、

老人の横をすり抜けるような形となった。


「近づいてみたけど、腐った臭いとかは感じられなかった。

 どっちかっていうと、本当に枯れ木。

 むしろ、木偶人形っぽい木の匂いがしたんだ。」


そんな感じも手伝ってか、不思議と怖い気持ちは失せていったという。


「だけど、それは間違いだったんだ。

 あの顔を見た時に、俺は知ったんだ。」


そう、老人の横を今まさに通り過ぎようとした時、

吹き抜けの廊下から風が吹き込み、老人の顔の布をめくった。


「…俺は、見たんだよ。その顔を。」


そう、あの顔は…

だが、言葉を続けようとしたところで、

友人は再びマグカップに顔を戻した。


「…ごめん、これ以上は言えねえわ…部屋に戻ることにする。」


友人は立ち上がると僕の部屋を後にした。


それが、僕が友人の姿を見た最後になった。

…翌日、友人は部屋で首を吊った。


死ぬ前には両親に短い遺言をメールで残しており、

それが翌日の遺体発見につながったという話だった。


遺書には単に「疲れた」とだけ書かれていて、

老人のことも、何を見たかについても言及されていなかった。


僕は、回廊を見下ろし、動く影を見つめる。


…結局、救急隊も、警察も友人の死の時には駆けつけたものの

廊下を歩く老人について気にしていないようだった。


むしろ、素通りし、気づいていない様子さえ見えた。


もしかしたら、あれは僕らマンションの住人にしか

見えないものなのかもしれない。


僕は老人が角を曲がるのを見計らい、手すりから離れた。


すでに、大学に行く時間がせまっており、

早く行かなければ講義に間に合わない。


そうして僕は未だ顔に布を貼り付けた老人を見ないようにして、

暗い階段を静かにくだっていった…。










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