歯車みたいな世界にサヨナラすれば
フカイ
前編
歯車みたいな世界に さよならすれば
ヒップな稲妻に 心うちふるわせて
何もかもインチキに見えちゃ さびしいぜ Baby
ハートビート(小さなカサノバと街のナイチンゲールのバラッド)/佐野元春
背後の壁一枚隔てた向こう側のキッチンからは、店主のクーガーがかんたんな料理を作っている音がする。料理といったってこのバァでは、オムレツとポップコーンとフライドポテトぐらいしか出ないのだけど。
店の裏は波止場に面していて、夜の上げ潮に通勤・通学用のボートと
そんな情景を見るともなく、ぼくは見ていた。ティーネイジャーの夏。
胸のポケットからタバコを取り出して、一本を口にくわえる。マッチブックを片手で摺って、オレンジとブルーの小さな
ゆっくりと肺を紫煙で充たす。最初に指先が、そして頭がぼんやりと痺れてくる。体じゅうに溜まった疲労が、じんわりと溶けていくようだ。
休憩時間。
夕方の五時から休みナシで三時間。店主のクーガーが途中から参戦してくれるまで、神経を休める間もなく働いた。
ケープタウン、マニラ、ロッテルダム。世界各地の港からやってくる
そんな客相手のこの船溜まりの桟橋にある店、「クーガーズ」は駐留軍のドロップアウターである
この店でぼくが働きだして、もうすぐ1年になる。
カウンターの客の半分の半分は英語で話し、あとの半分の半分はスペイン語を話し、残りの半分が中国語と、なつかしの日本語を話すような、そんな店だった。店のBMGはいつも、軍が英語で放送する、環太平洋地域の天候情報を伝えるラジオだ。バリンタン海峡。パラオ諸島。ポリネシア群島にキリバス島。
キッチンの奥の壁には、世界中のコカコーラの缶が置かれている。「可口可楽」と書かれたものの隣には、ミミズが這い回ったようなアラビア語のロゴマークの赤い缶。
「大丈夫か?」
クーガーが窓から顔を出して聞く。闇夜の中で、太っちょ黒人のクーガーの白目の部分だけが妙に目立つ。
「平気さ」
答えて立ち上がると、ぼくは吸いかけのタバコを吸殻入れにねじ込んで、履いていたバッシュのヒモをもう一度結びなおす。
それからぼくはいま一度、戦線に復帰する。
目が回るほど忙しく働いて、時計の針がぐるぐると回り、今夜も閉店の時間。最後の客がクーガーと肩をたたきあって店を去る頃、ぼくは皿洗いを終え、フロアの掃除にかかる。
クーガーがカウンターの端で帳面をつけ終わり、ぼくの掃除が全部済んでしまうとだいたい、時計の針はテッペンをちょっとを回ることになる。
すべての椅子をひっくり返してテーブルに載せ、電気を消してふたりで店を出る。
「なぁ、タスク?」ぼくの名前は、
「なんだい?」
「無理しなくていいんだぜ」店の電気を消したクーガーの背中が言う。
「無理?」
「してないか?」
「してないよ。してるわけないよ」
クーガーは、胸のポケットからタバコを取り出す。ズボンのポケットをパンパンとはたいてライターがないことに気づき、小さく舌打ちする「そうか?」
ぼくはジーンズのヒップ・ポケットにあるマッチブックを取り出し、片手で火をつけると、クーガーの顔の前に差し出した。
「悪いね」
言って、クーガーはくわえたタバコの先っぽを、マッチの火の中にかざす。ポフポフとタバコを吸い込むと、タバコの先端に火が移る。そしてゆっくりと、美味そうに一服を吸い込んだ。明かりを落とした店の前で、クーガーのタバコの先のオレンジ色が妙に目立つ。
せっかくつけたマッチブックの一本だ。ぼくも自分のタバコに火を移し、ふたりならんで仕事のあとの一服を楽しんだ。
クーガーの店の隣にはガレージがある。ガレージの中には、彼のピックアップトラック。そして二階へ通じる階段。クーガーはここの二階にひとりで暮らしている。そのトラックのバンパーにふたりで腰掛け、ならんでタバコをふかす。
「クーガーは」と、彼が口を開く。会ったことはないけれど、自分の父親ほどの年の、しかもでぶの黒人のバーテンダーが、自分のことをクーガーと呼ぶなんて。おかしいけど、それにも慣れた。
「クーガーはこの店やるだけだからね。朝は寝てればいい。でもタスクは学校がある。そうだろ?」
「いちおうね」とぼくは答える。クーガーの日本語は、ほんの少しだけ、いつでも奇妙だ。
「勉強、ちゃんとしなくちゃ、ダメだぞ」
「ダメかな?」
「ダメさ、そりゃ」
「どうして?」別に答えが欲しかったわけじゃない。ただ、タバコがまだ吸い終わらなかったから、なんとなく、そういってみただけのことだ。
「どうして、だって?」クーガーは、ニヤリと笑っていった。「そりゃ、若いときにキチンと勉強しないと、クーガーみたいになっちまうからさ」
ぼくも、あはは、と夜に笑った。
「学校はちゃんと行ってる。心配しなくて平気だよ、クーガー」
ぼくは、この父親のような年上の雇い主兼友人に、安心してほしくてそう言った。「落第はしないよ」
「それならいい」クーガーはガレージの端においてある吸殻入れにタバコを投げ捨てると、もう一度繰り返した。「それならいい」
「でしょ?」
「だけど、タバコ、よくない」
「そうかい?」ぼくは、くわえタバコのまま、唇の端で答えた。
「よくないよ」
「うん」どうしてだろう。先生や母親に言われたらムカつくのだろうけど、クーガーに言われると、そんな風にはならない。もちろん、タバコはやめないにせよ、だ。
クーガーはガレージの奥の階段に向かった。
「クーガー」
ぼくはその大きな背中に声をかける。階段の手すりに片手を置いて、クーガーはゆっくり振り返った。
「いいよ、泊まっていくんだろう? 風邪ひくなよ」と、太く優しい声で、黒人の雇い主は言った。片手をあげ、「good night」と言って、階段の上に消えていった。
ぼくはクーガーのピックアップトラックのバックシートに、毛布と一緒に乗り込む。ジーンズとワイシャツを脱いで、ショートパンツとTシャツに着替え、そのまま、そこで眠った。
目が覚める。
窓の外、ガレージの中に朝が来ていることがわかる。
ぼくはバックシートを出て、トラックの荷台に脱ぎ捨てたジーンズのヒップポケットからもってきた小銭を握って、ガレージの外まで歩く。
寝ぼけマナコのまま、通り向かいの日曜雑貨店まで歩き、牛乳瓶を買い求める。
早起きの老婆は目を細めて、ぼくにプラスティックでできた蓋外しを貸してくれた。プラスティックの先端の金属の針を、牛乳瓶の紙蓋に突き刺し、テコの要領でキャップを外す。婆さんに礼を言って、店の前でひと息に牛乳を飲む。
それから店を
「奥、お使いよ」
と、婆さんがいう。
「悪いね」
と彼女に片手をあげて挨拶すると、店の奥の手洗い場で小用を足す。洗面所で顔を洗い、そこに置きっ放しになっている歯ブラシ(これも婆さんの店で買ったものだ)で歯を磨く。
スッキリした顔で店番の婆さんに礼を言い、通りを渡ってガレージに戻る。
ガレージの奥に、ちいさな棚がある。棚の何段かはもちろん持ち主のクーガーの、自動車整備用の工具なんかが入っている。その一段には、ぼくの荷物。何枚かの水着。ワックス。絆創膏。そこで、着ている服を脱ぐ。そして黒いトランクスの水着をつけ、裏の波止場に面したポーチに出る。ポーチに立てかけてあるサーフボードを抱え、サンダルのまま波止場に出る。
朝の波止場は、照りつけるような日中の日差しもなく、さわやかだ。店や通りでもかげる潮の香りが、波止場に出ると余計に強くなる。
波止場の南端まで歩くと、小さな灯台をその先端に持つ、短い桟橋がある。足元をのぞけば、透明度の高い海面に、チョウチョウウオが泳いでいるのを見ることができる。
そして桟橋の先端まで歩くと、そこでサンダルを脱ぐ。素足のまま、目の前にある数段の階段を降り、海面に向かって下がってゆく。ボードをそっと海面におき、片足で水温を確かめる。大丈夫。冷たくはない。フッと息を吐いて、身体を海の中にほおる。
ざぶりと海に入り、ボードを掴み、その上に腹ばいにのる。
さぁ、行こう。
朝の、まだ冷たくて新鮮な水に身体とボードをなじませながら、ゆっくりと沖へとパドリングしてゆく。
身体のあちこちがしっかりと目覚めるよう、意識して呼吸を深めに。血液のなかに十分に酸素を取り込んで、手足の末梢血管の先まで、エネルギーをいきわたらせる。
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