第40話 余地

 たどり着いた場所の駐車場に降り立ってしまってから、再び車に戻るか、もしくは近くに最寄り駅はないものかと、キョロキョロ辺り伺った。けれど、生憎、車は専務によってリモコンですぐにロックされ、最寄り駅らしきものは看板さえも見当たらない。

 躊躇うことなく暖簾をくぐる専務の後を、私は躊躇いながらついていく。

「あ、あの……」

「なんだ」

 すでに店内に踏み込んでしまっていて、案内の女性につきしたがい通路を歩いているのだから今更なのだけれど。

「ここ、高級ですよね……」

「ん? ああ、まあ、そうだな。しゃぶしゃぶは、嫌いか?」

 嫌いかと訊かれれば、とんでもない。寧ろ大好きですと応えたい。けれど、この高級感に怯んでいるのは事実だ。

 やっぱジュニアだ。大人の男とか、そう言うレベルの話じゃない。私の中のちょっと飯でも食うかレベルは、牛丼とかぶっかけうどんとかその辺りなのだから。しかし、抗うこともできず個室に通され、粛々として座席に腰かけた。

 これで何度目かになることだけれど、この高級感に慣れることはないな。

「面倒だから、コースでいいか。飲み物は何がいい? 俺は運転があるから飲まないが、水野は飲んでも構わないからな」

「いえ、そんな。滅相もございません。お茶で充分です」

 高級感に肩身の狭さを感じ小さくなっていると、目の前で専務があの握った手の甲を口元へ持っていくしぐさで静かに笑っていた。

 あれ。私、何か面白いこと言ったかな。

 キョトンとした顔を向けていたら。

「滅相もございませんなんて、なかなか聞かないな」

 言ってまた笑っている。

 だって、こんなところに連れてこられたら緊張もするし、庶民には敷居が高いよ。でも、専務が笑ってくれるなら、いいか。

「笑いすぎですよ」

 やっといつもの調子を取り戻し、話しかけることができた。

「あの、わざわざ迎えに来て頂き、ありがとうございました」

 座ったまま頭を下げると、気にするなというように軽く手をあげる。

 それに……。

「忘年会の時は、失礼しました。私、あの……」

 走って逃げてしまって……。

 専務の考えていることがよくわからなくて、私は怖くて逃げ出した。今ならどうして逃げ出したのか、少しだけわかる。なんの気もないのに優しくされたことに勘違いして、勝手にいい気分になってた自分からも逃げだしたかったんだ。

 貴哉との間にできたモヤモヤのかわりを探すみたいに、意味も分からず優しくしてくれる相手に寄りかかりたくなってしまうなんて、都合がいいにもほどがある。

「私、何か勝手に色々と勘違いしちゃったみたいで。ホント、すみませんっ。余計なこと考えずに仕事、頑張りますので」

 力一杯宣言したところで襖がスッと開いて、お肉や野菜が運ばれて来た。

 サシの綺麗に入ったお肉に、思わず目が惹き込まれる。上品なつけダレにくぐらせたお肉を頬張れば、それはそれは至福の時。口に含みながら、思わず目をつぶってしまった。口の中に広がるうまみを存分に堪能し、ゆっくりと瞼を開けたら「美味そうに食うな」と専務が笑っていた。

「え、だって。とても美味しいですよ。美味しいですよね?」

「まー、うまいよ」

 特に感動の一つもなく、淡々とした言葉を返してきた。

「専務は、普段からいいものを食べすぎなんですよ。だから感動が薄いんです。もっと庶民のものを食べたほうがいいですよ」

 捲し立てるような勢いで不満を言ってしまってから、ハッとしておし黙った。なんて生意気な。あまりの美味しさに、調子に乗ってしまった。

「すみません……」

 肩をすぼめて謝ると、専務が笑った。

「いや。いい、謝る必要はない。じゃあ、今度からは、水野が言う庶民の食べ物を謳歌するか。その時は、付き合ってもらうかな」

 サラリと言われて、もちろんですというように頷いたけれど、それって……。

 ああ、ダメダメ。また、勘違いだ。こんなの、専務にはよくあることなんだよ。だって、お金持ってるんだもん。

 普段食べないB級グルメにつきあってもらうには、私みたいなB級な庶民と一緒じゃないと行かれないってことでしょ。

 勘違いする気持ちを落ち着けようと、大きく息を吸ってから吐き出した。

「どうした。疲れたか? それとも体調が……」

「いえ、違います。大丈夫です。ちょっとした、戒めというか……」

 苦笑いを浮かべると、不思議そうな顔で見られた。

 高級なお肉は、口に入れるとあっという間に溶けて無くなった。とても贅沢なこの状況は、二度と訪れないかもしれないと、ひたすら美味しさを噛みしめた。


 再び車に乗り込み、家路を辿る。車が少し走った頃、専務がポツリと話し出した。

「親孝行は、して来たか?」

「どうでしょうね。実家って気兼ねなく居られる場所だから、つい甘えてしまって。あ、でも。佐藤さんにお願いして、ワインを買って行ったんです。家のお正月料理に合うように、赤と白と一本ずつ」

「どうだった?」

「喜んでくれました。ほとんどお酒を飲まないお祖母ちゃんも飲んでくれて。いいですよね。自分で作ったわけじゃないけど、飲んで欲しい人のことを思って選んだワインを、美味しって言ってもらえるって。幸せな気持ちになりました」

 専務は穏やか表情で話を聞きながら、運転を続けている。

「専務にご指導いただいたおかげです。いつもありがとうございます」

 初めてテイスティングをされた時は慌てたけれど、グラスの事も、どんな料理に合うのかも。仕入先のことも。私はほとんどを専務に教えてもらった。

 とてもいい……上司。

「覚える気があるやつには、こっちも教えたいって思うからな」

 そこで丁度マンション前にたどり着いた。

「着きましたね。本当にありがとうございました。あ、チケット代。お給料から天引きにしてください。貰うのは、やっぱり違うと思うので」

 ドアに手をかけると、専務はさっと降りて助手席に回り込む。

 もう、どこまで紳士なのだろう。育ちの違いがありすぎて、今更ながらにおかしくなる。

 車を降りて再び頭を下げると、トランクから荷物を出してくれた。

「あ、そうだ。あけましておめでとうございます」

 会ってすぐに言うべきセリフを、今頃思い出した。専務も「あ……」と言う顔をして、あけましておめでとうと笑う。

「水野は、いつも笑顔でいいな」

「えー、なんかバカにしてません? 何も考えてないみたいじゃないですか。これでも頭の中は、色々とこんがらがるくらい考えてるんですからね」

 仕事のことも、貴哉とのことも、専務のことも。ない頭を振り絞って考えてみてもわからないことの方が多くて、脳みそはぐちゃぐちゃだ。

 自分から貴哉を突き放してしまったから、頼れる相手はもうそばにいない。今はとにかく仕事に集中して、一人でも色々出来るように頑張りたい。

 年も明け気持ちも新たに決意を固めていると、専務がじっと私をみているから首を傾げて笑顔を浮かべてみた。

 何だろう?

 私、何かまたおかしな顔をしたり、変なこと言ったかな?

「まさか、全力で逃げられるとは思わなかった。あんなのは、初めてだったよ」

 え? あ……、忘年会のこと、ぶり返されてる? 実はとても怒っている、とか?

 わずかな焦りに、さっき浮かべた笑顔が引きつった。けれど、専務の顔は少し笑っていて、どちらかといえば穏やかな表情だった。

「喧嘩、してるのか?」

「え?」

 訊ねる専務の顔を見た。

「訊くつもりはなかったけど、水野の声がやたらと大きいから、聞こえてしまって」

 もしかして、吉川さんに話していたこと、やっぱり聞こえてたの?

 難しい顔をしてパソコンを睨んでいたから、全く聞こえていないか、もしくは呆れて無視されているんだと思っていた。

「彼とは、別れたって話してたけど、本当にそれでいいのか?」

 専務は寒さに身を固くしながら、諭すような顔をする。

「歓迎会の時。水野のこと、本当に好きなんだろうなって思ったよ」

 言いながら、何故か専務は笑っている。

「若いっていいな。あんな風に、好きなやつに近づく相手に、迷いなく立ち向かってくるんだから」

 言われて、貴哉が専務を睨みつけたことを思い出した。

 あの時は、本当はとてもヒヤヒヤしていた。嫉妬をあまり表面に出したりする貴哉じゃないから、あんな態度に本当に驚いた。

 けれど、あの時、嬉しくもあった。外で手を繋ぐことも少なくて。デリカシーのないこともよく言って。もっと大事にしてよ、と思う事も多いけど。

 私のことを心配して怒ってくれたことに、ハラハラしながらも嬉しくてたまらなかった。

「話し合ってみたらどうだ?」

 まるで兄みたいな口調で諭すから、勝手に親近感を抱いて言い返してしまった。

「突き放したのは、私です。だから、会ってなんて、都合のいいこと言えないですよ」

 投げやりな態度をとったら、「それはどうかな」と、専務が私から視線を外して少し遠くへと目を向けた。背後へ向けられた専務の視線を辿るように振り返ってみると、貴哉が寒そうにダウンに両手を入れて佇んでいた。

「……貴哉」

「まだ話し合う余地は、あるんじゃないか?」

 貴哉から視線を戻した専務が、私の頭に大きな掌を乗せて、ほらというように促した。

「会社で、いい話が聞けることを祈ってるよ」

 再び車に乗り込んだ専務は、静かに車を始動させ行ってしまった。残された私は、未だ少し離れた場所に佇んだままの貴哉へと視線を向けた。

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