第24話 ニタニタ
かっちりとした厚みのしっかりしている紙袋の中からそうっとボックスを取り出し、小ぢんまりとした自宅にあるテーブルの上に置いた。ワインの色に似ている深い赤色の箱には、金色の英字が刻まれている。ここまで目にしただけで、高級なのはよくわかる。
いや、値段は知っている。高級なんだよ、これは。
ボックスの蓋を開ければ、輝くグラスが顔を出す。再び見たグラスは、やっぱり高級感が満載で、ほぅっと息が漏れた。
ボックスの中からゆっくりと取り出し、テーブルに置いた。少しの間眺めてから立ち上がり、冷蔵庫の上に置いてある、ここ数日で買っておいたワインを取りに行った。
ワインのボトルをテーブルにあるグラスの横に並べて置き、両方を交互に眺めて暫く考えた。ワインの繊細な味を覚えるには、たくさんの種類を飲むに限る。そう思ったから、いつもならコンビニでビールを買い込むところをやめて、帰り際にある個人経営の酒屋さんに寄ったのだ。
会社の二階にあるワインがいいとも思ったけれど、貯蔵庫に置いてあるワインは取り置きのものもあるし、個人的に買ってもいいかどうかをまだ訊ねるほどの仕事ぶりもしていないから言い出しにくかった。佐藤さんに言えば、快く売ってくれただろうか?
今更ながらにそう思ってみてもしょうがない。
酒屋で買った三千円台のワインは、今の私にしてみれば充分高級だけれど、二つを並べてみると、その金額でさえ、このグラスには失礼な気がしてきた。
「どうしよう」
声に出した独り言は、意外にも大きかったけれど気にしない。腕を組んで首をかしげた。
今から出かけて、買い直す?
バッグの中から財布を取り出し、中身を確認した。所持金は、五千円。あの酒屋さん、クレジット使えたかな。というか、町の酒屋に思い描くような高級ワインが置かれているかも微妙だよね。
少しの間腕を組み、今目の前にあるワインよりいいものを買いにいくべきかどうか考え込んでから、いい理由を思いついた。
明後日は、私の誕生日だ。うん。やっぱり買おう。
一人で散々考えた金曜の夜。心もとない現金の入った財布をバッグへ戻し、理由を見つけた心は迷うことなく意気揚々と夜の街へと繰り出した。
確か、電車に乗って少し行けば、ワイン専門のお店があったはず。電車の窓から見かけたことがあるから、確かだ。
それにしても、自社で仕入れているワインを買わずに他店で購入しようとしているなんて、専務が知ったらまた呆れられるかな。
二階の貯蔵庫に保管されているワインはどれも高級で、手の届かない物が多い。だったら、身の丈に合う、ほんの少しだけ高級なものを選べる場所で買うのも仕方ないよね。
専務に睨まれ、叱られてしまう図を想像すると、どうにも言い訳めいた思考にしかならない。
お店が閉まってしまわないうちに、と小走りに駅へと向かい電車に乗り込んだ。数駅先の駅で降りて道を行くと、思った通りのお店が見つかった。
心持ち緊張しながら店内に入ると、清潔感溢れる白いシャツに黒いエプロンを素敵にした店員さんが声をかけてくれた。
「いらっしゃいませ」
笑みを返し小さく頭を下げてから店内を見て回った。けれど、倉庫で見たときの感覚と同じで、たくさん種類がありすぎて、どれを選べばいいのかわからない。
一応あれこれ手に取って、ラベルや産地や年代を見てみたけれど、キャパオーバーで目が回ってきた。呆れられるのを覚悟で専務に電話して、どんなものがいいかを訊いてみようか。いやいや、そんなことをしてしまっては、電話口からものすごい勢いで怒鳴られやしないだろうか。それとも静かに呆れられるだろうか。どちらにしろ、避けたい事象だ。
悩んでいたら、さっきの店員さんが声をかけてくれた。
「何かお探しですか?」
素敵な笑顔で声をかけられてしまえば、恥も外聞もなく素直に訊ねるしかない。
「誕生日に素敵なグラスをいただいて。それに合うような、素敵なワインてありますか?」
こんなセリフを専務の前で言おうものなら、お前、本当にうちの社員か? と眉間のシワが深く刻まれそうなくらい、ザックリとした訊ね方だ。いや、ザックリというか、味どうこうについて何一つ触れていない。
店員さんは呆れかえることもなく、笑顔のまま一緒に探してくれる。さすがです。
「赤や白など、お好みはございますか?」
「あ、えっと。赤。赤でお願いします。それから、渋めがいいです。あ、それから、あまりお高くないのを……」
最後の方は恥ずかしすぎて、ボソボソと小さく付け加えたのだけれど、店員さんはとても好感の持てる対応をしてくれた。
「でしたら、こちらやこちらなどは、いかがですか?」
いくつか紹介してもらったワインの中から、自分の中での予算で買えるものを素直に受け取り、お会計を済ませた。クレジットも使えたし、良かった。
ホッとしながら買ったワインを受け取った。
「お誕生日、おめでとうございます」
お店を出る間際、対応してくれた店員さんがとびきりの笑顔で見送ってくれた。
あー、とっても気分がいい。誕生日を前にして、私っていいことづくしじゃない。
気分よくスキップ混じりで家に戻ると、エントランスの前には貴哉がいた。
「おっせーよ」
ブー垂れたような言葉使いだけれど、顔が笑っているからいつものやつだ。私服姿のところを見れば、一度家に戻ったのだろう。少し膨れたトートバッグを片手に「早く開けろ」と笑顔の命令口調。貴哉らしい。
「買い物か?」
玄関でスニーカーを脱ぎなら、私の手にあるワインの収まる袋に目を留めた。
「うん。自分のために、ちょっと奮発した」
得意げに顎を上げると、テーブルの上に置きっ放しにしていった高級グラスに、貴哉がすぐさま反応した。
「どした、これ。なんか、めっちゃ高そうじゃん」
テーブルに置かれたワイングラスは、貴哉が見てもやっぱり高級だと分かるようで、触れてはいけないものみたいに遠巻きに見ている。
ついでに言うなら、床に置かれたグラスの箱さえも触れてはいけない物のように近づかない。
「誕生日にもらったの」
「へぇ~。誰に」
「専務」
貴哉の動きが数秒止まる。けれど、直ぐまたいつものように、ふぅ~ん、なんて言って、テーブルから少し離れたところにあぐらをかいた。引っ掛けないように、気を遣っているみたいだ。
「ワインの味を覚えるには、やっぱりいいワインをたくさん飲まなくちゃいけないんだって。で、これ」
さっき買ったワインを、袋から取り出した。
「いくら?」
「それ、訊く?」
無粋だねぇ~と笑いながら言葉を濁したら、三千円か? 五千円か? なんて、しつこく食いつてくるから、しょうがなく値段を言ったら「マジか……」と引いていた。
「だって、誕生日だもん」
「いや、ま、そうだけどさ。普通、その金額なら、バッグとか靴とかじゃね?」
「いいの。私は、今の会社に骨を埋める覚悟なんだから。誕生日くらいは、いいものを買って飲まなくちゃ。これも勉強よ」
強情を張って言い切ると、「ま、いいけど」と貴哉はちょっと呆れている。そのくせ、「はやく飲もーぜ」と高いワインに目を輝かせた。
「結局、飲みたいんじゃん」
「そりゃそーだろ。高級ワインが目の前にあるのに、飲まないなんてどうかしてるだろ」
本当は、一人でじっくり味わいたかったんですけどね。
ワクワクしながら待つ顔に、餌を待つ犬ですかとおかしくなった。
興味津々な顔を見ていたら、大切な一本を大切な人と味わえるのもいいかと気持ちが切り替わった。
もらったグラスを軽く洗って、オープナーを手にワインを開ける。コルクが抜ける瞬間の音は、何度聞いても心が躍る。
貴哉の前に百均で買ったいつものワイングラスを置いたら、なんとなく不服そう。けど、それ以外のワイングラスはないし、仕方ないよね。
ワインを持ち上げると、貴哉が手を伸ばした。
「俺が注いでやるよ」
気遣ってくれる貴哉にワインを手渡すと、トクトクと音を立てて深紅のワインが高級グラスに注がれていく。
「深い色」
貴哉のグラスにもワインを注ぎ、グラスを持ち上げた。
「千夏、誕生日おめでと」
少し早い誕生日を貴哉と迎える。
「ありがとう」
ワインの香りを確かめ、色を確かめ口に含むと、ふわぁっと一瞬で香りが広がる。これはなんだろう。チェリーのような酸味が少し。けど、嫌味なく渋みを引き立たせている。
「うめっ」
繊細な味を理解しようとあれこれ思考を巡らせていたら、目の前から貴哉らしい粗野な感想を言われ笑ってしまった。
けれど、確かにそうだよね。美味しいものは、美味しいのだ。
「ほんと、美味しい。奮発した甲斐がある」
グラスの中の赤をライトに照らして眺めてみれば、安っぽい家でもうっとりしてしまう。
これがこのグラスとワインの力か。すごいなー。
「もう酔ってんのか?」
どうやら美味しさと嬉しさに、ニタニタしていたらしい。
「まだまだ」
グラスを持ち上げて再び口をつければ、幸せなこの瞬間がたまらなく愛おしくなる。
貴哉の笑顔と一緒だから、余計かな。なんて言ったら、あたりめーだと、片方の口角を上げて得意げな顔をするのが想像できるから、それは内緒。
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