第23話 プレゼントグラス

 夏休みを精一杯楽しく過ごした私たちは、日々仕事という通常運転に戻っていた。

 夏の日差しはまだまだ厳しくて、このままずっと暑さからは逃れられないんじゃないかっていうくらい、エアコンと大の仲良しになっていた。

 そんな中でも、浅野さんこと社長は、相変わらず黙々と穏やかな表情で会社の前をきれいにお掃除していて、どこで修行を積んだらこの暑さの中そんな平常心を保っていられるのだろうと驚くほどだった。

 吉川さんも佐藤さんも相変わらずよくしてくれて、増えていく仕事の種類や量にあたふたしている私を気遣ってくれる。

 相変わらずと言えば、デスクの向かい側に座っている専務だ。寡黙に仕事をこなしているけれど、その瞳はキリリというよりも険しいと表現する方がぴったりと当てはまるほどで、とにかくとても話しかけにくい。

 お陰で、さっき頼まれた仕事で専務に話しかけなくてはいけないのだけれど、機嫌が少しでもいい時にとタイミングを見計らったままはや数分。資料に目を移しては、専務の機嫌を窺うという動作を繰り返していたら、隣で吉川さんが苦笑いしていることに気がついた。

「専務に用事?」

 面白そうに訊ねながら、こちらに体を向けるようにして片方の手で頬杖をつく。

「さっき、営業の方から頼まれて。倉庫のワインの一部を、二階の貯蔵庫へ移動させておくように言われたんですけど。営業車が全部出払っているらしくて。それで、倉庫の様子も専務に確認してもらいたいから、丁度いいし専務と一緒に行くように言われて」

「なるほど、専務の車でってことね」

 訊ねる吉川さんに、コクリと頷く。すると、迷うことなく吉川さんが声を上げた。

「センムー」

 眉間にしわを寄せてパソコン画面を睨みつけていた専務が、そのままの表情で顔を上げたものだから、ひっ、となり思わず怯えてしまった。

「倉庫、確認に行く日ですよ」

 吉川さんに言われて、すぐにスケジュール確認をしている。

「営業から貯蔵庫用も頼まれてるんで、水野さん連れてってください」

 迷うことなくどんどん話しかける吉川さんと専務の様子を交互に伺うようにしてみていたら、すっくと立ち上がった専務が車のキーを手にしてそばに来た。怯えたままの私は、仁王立ちのようにそばに立つ専務を怖々と見上げる。

「小動物かよ」

 呆れた溜息と共に、先を行く。

 小動物。まさに、今の私はそんなところだろう。抵抗すらしている暇もなく、一気にやられるところだ。

 ガウゥーと唸り声をあげてもおかしくない専務の背中を見ていたら、急に振り返るからビクリとしてしまう。

「なにしてんだ。行くぞっ」

「はっ、はいっ」

 ガタガタとデスクのあちこちにぶつかりなら営業からの資料を持って立ち上がると、吉川さんがおかしそうに顔を歪め見送ってくれた。


 まだ空っぽの大きなクーラーボックスを肩からかけて、駐車場にて立ち尽くす。専務というのだから当然なのだろう。社長の息子なのだし。そもそも、夜の街で高級料亭に迷いなく入るくらいなのだから当然だよね。

 後部座席のドアを開けた専務が、私の肩からクーラーボックスを引き取り詰め込んだ。

「右側に座るの、初めてです」

 恐縮しながら、ゴツい高級外車に乗り込むと、これまた高級な革張りシートの座り心地の良さにほぅっと息を吐く。しかも、乗り込む時にわざわざドアを開けてもらうという、この先経験することのないような気遣いまでしてもらっていた。

 専務にしてみたら、当たり前の行動なのだろうか。やっぱり社長ジュニアだから、育ちが違うのかもしれない。貴哉なら絶対してくれないだろうな。それよりも、早く乗れよ、といたずらな顔で運転席に座り笑っていそうだ。

 音もなく滑らかに走り出した車の助手席で、特に会話もないままひたすら通り過ぎていく信号や対向車を見続ける。

 倉庫というのは、遠いのだろうか。会社から余り遠いと不便だろうけれど、敷地の問題もあるよね。

車でどのくらい掛かるのかな。

 会話のなさが息苦しくて流れる窓の外を眺めていたら、普段気にもしたことのない呼吸の仕方さえわからなくなって、急にむせて咳き込んでしまった。

「どうした。体調悪いのか」

「あ、いえ。何でもないです。大丈夫です」

 むせ返り出る咳を何とか沈めるようとしていたら、車が静かに止まった。

「ちょっと待ってろ」

 車を止めて歩道に降り立った専務は、颯爽と歩いて行き、戻ってきた手にはアイスコーヒーが握られていた。

 備え付けのホルダーにコーヒーを置くと、ミルクとガムシロップを手渡された。ミルクだけを注ぎ、頂きます。と恐縮しながら口をつけたら、咳も気持ちも少し落ち着いてきた。

 専務はブラックのまま一口だけ飲むと、また車を静かに始動させる。コーヒーを半分ほど消費した頃、倉庫にたどり着いた。

 自社の倉庫なのだろうか? よくわからないまま、クーラーボックスを再び肩に提げて専務の後についていく。

 倉庫の外観は小さく見えたけれど、中に入ってみたら意外と奥行きがあって驚いた。ひんやりとした温度管理と紫外線を避けた暗さは、ビルの二階と同じだ。

「頼まれたのは?」

 手を出す専務へ、営業からの書類を渡した。専務が僅かに眉間にしわを寄せて書類を眺めていたら、お疲れ様です。と背後から声をかけられた。振り返ると、倉庫の管理を任されている社員の方がいた。

 歓迎会の時に居たかな?

 記憶を手繰り寄せていたら、「水野さん?」と訊ねられて頭を下げた。

佐伯さえきです。ここの管理を任されています」

 四十代くらいの佐伯さんに、よろしくお願いします。と再び頭を下げると、直ぐに仕事が始まった。

「ここに載っているワインは、左奥の方にあるからな。俺は、佐伯と別件があるから、終わったらこの辺で待ってろ」

 専務と佐伯さんは何やら話をしながら、倉庫を出ていく。きっと、倉庫にも事務所があるのだろう。そちらで話をするのかもしれない。

 ひんやりと肌寒い貯蔵庫で、よしっ。と少しの気合を入れてから、専務が教えてくれた左奥を目指した。ずっと奥に進んで行くと、書類に書かれているワインが見つかった。棚の前を陣取り、クーラーボックスの蓋を開けて手にしていく。いくつも並ぶワインは、どれも高級そうだ。

「えっとぉ。これと、あっ、これもだ」

 同じ名前と年代に気をつけながら、ぶつけないように優しくそうっとクーラーボックスへ次々とワインを入れていく。そうして、最後の一本を入れたところで気がついた。

「重くて持ち上げられない……」

 クーラーボックスの肩紐を手にして、余りの重さに愕然とした。せめて、出入り口にクーラーボックスを待機させておくんだった。ここから出口まで運ぶのでさえ、ままならないからだ。

 腰を痛めそうな重さに歯を食いしばって持ち上げようとしていたら、出入り口から専務の呼ぶ声がした。

「水野ー。まだやってんのか?」

「いえっ、あの。はい」

 慌ててクーラーボックスを持とうとしたけど、持ち上げられずに転んで膝をつく。

 痛いっ……。

 へなちょこすぎる自分の情けなさと、専務を待たせている焦りだけが嵩(かさ)を増す。何かいい方法はないかと、考えを巡らせた。簡単に持ち運べるアイテムでもあれば。台車っ。そうだよ、台車とかないのかなか。

 あたふたと辺りを見回したけれど、そういった類のものは見つからない。入り口の方へ行ったらあるだろうか。

 慌てて走っていくと、こちらに向かって歩いてきていた専務に鉢合った。

「何やってんだ。用意できたのか?」

 不機嫌そうな問いかけに、ひんやりしているこの場所で変な汗が浮いた。

「えっと。はい。揃えたんですけど。あの、台車とかないですか?」

 問いかけに息を吐くと、専務は答えずにスタスタと横を通り過ぎていく。慌てて後を追うと、その先で見つけたクーラーボックスを軽々と持ち上げ振り返った。

 その目が、使えないと言っているようでまた汗がでた。

「すみませんっ。私、持ちますからっ」

 クーラーボックスへ手を伸ばすと、その手を遮られた。

「俺が一緒だと思って、量が半端ないな」

 ボソリと呟き、そのまま「帰るぞ」と歩き出してしまった。恐縮しながら駐車場へ向かう専務と私を、佐伯さんがニコニコと見送っていた。

 向かう時と同じように、クーラーボックスは後部座席にどっしりと積まれた。

「こんなにあるなら、佐伯に配送頼んだ方が良かったろうに」

 独り言のような呟きのあとに、エンジンをかける。

 来たときと同じように、専務によってドアを開けてもらい、右側にある助手席へと乗り込んでいた。

「きっと、直ぐに必要だったんじゃないでしょうか」

 フォローになっているかどうかよくわからないけれど、私が運べなかったせいで営業の人が叱られるかも知れないと思うと言わずにはいられない。

「私、頑張って筋トレしますっ」

 必死になってフォローの言葉を探したら、ハンドルから右手を離して専務が口元へと持って行った。

 あ、笑ってる。

「期待してる」

 グーにした右手を口元に持って行ったまま、目が笑っている。

 良かった。久しぶりに和やかな空気になり、肩の力が抜けていった。

 そうだ。

「歓迎会の時に頂いたワイン、とても美味しかったです。ありがとうございました」

「そうか。少しずつワインの繊細な味も覚えていけよ」

「はいっ。私、いつかステキなチューリップグラスを買いたいんです。今まで、グラスなんてどれも一緒かと思っていたけど。歓迎会のときにあのグラスに出会って、少し調べてみたんです。そしたら、グラスって、すごく大事だってわかって」

「そうか。まーでも、グラスくらいなら今でも買えるだろ」

「そんなことないですよ。中途ですけど私新卒ですよ。しかも、しばらくニートでしたし」

 肩を竦めると、「そうか」なんて、専務である自分との生活ギャップに気づいているのかいないのか、よくわからない表情をしている。

 迷いなく高級和食のお店に入る人は、感覚が違うんだろうな。こっちは、貴哉のために買い貯める缶ビールでさえ時々しんどいのに。

 会話が止まると専務の笑みも消え、車は元のようにただ静かに道路を進んだ。倉庫へ向かった時と同じように、通り過ぎる信号や対向車を目で追っていたら、会社の方向に進んでいないことに気がついた。

 他にも用事があるのだろうか。専務の仕事内容まで把握できていない新人の私は、口出しすることもなく、ただ黙って行きとは違う景色を見ていた。

 暫くすると、古い倉庫を店舗に改装した通りに出て、車は近くのパーキングへ停められた。

「行くぞ」

 会社を出る時と同様のセリフを言って車から降りる専務は、慌ててシートベルトをはずす私を、助手席のドアを開けて促した。

 こういうところ、紳士的だよね。お姫様にでもなった気がしちゃうよ。

 ちょっとだけ抱いた嬉しさを抱えたまま、車から降りて専務を見たら、相変わらずの険しい表情なものだから、あっという間に浮ついた感情が引っ込んだ。

 一歩後ろをついて行けば、迷うことなく歩を進め、とあるショップの中へと入っていく。中に踏み込めば、窓ガラスから日の光をふんだんに浴びたガラスたちが、店内を更に明るく照らしていた。

「ワイングラス」

 あまりの素敵な輝きに、ほろりと言葉がこぼれ出た。

「ここは置いている商品には拘りがあって、職人が作る一点ものが多い」

「そうなんですか」

 色や形やデザインもステキなグラスたちが、キラキラと輝きを放ち飾られている。触って落としてしまわないように細心の注意を払いながら、入り口付近に立ったままで眺めていた。

 だって、ここから見えるだけでも、どのグラスも高い。普段一つ千円二千円でも高いと思うのに、バカラなの? と思ってしまうくらい高額なんだ。といっても、バカラのワイングラスがいくらするのか知らないけれど。

「何してる。奥に行くぞ」

 入り口から動かない私を、専務が促した。

 お仕事、お仕事。

 グラスを引っ掛けないよう、そおっと棚の前を通り過ぎ、奥のグラスに手を伸ばす専務のそばに行った。

「ショールームに飾る用ですか?」

 手に持つ専務のグラスを見ながら訊ねると、そのグラスを手渡されてビクビクしながら受け取った。

「それ、どうだ」

 ドキドキしながらグラスを持ち、どうだ。なんて訊かれても、ただただステキです。という感想だ。

 それでも、じっくりと眺めていて気がついた。グラスは少し大きめで丸く、脚は意外とどっしりとしている。それに比べ飲み口が薄くて、歯を立てたらパリンといきそうなくらいに繊細だ。歓迎会の時に高級ワインを注いでもらった時のような、大きなふくらみのあるチューリップグラスと少し似ている。

 あの時のグラスも本当に薄くて、少しでもぶつけたらお終いだろう、と丁寧に扱ったくらいだ。

 しかも、これ。値段もお高い。こんなのがショールームに飾られていたら素敵だろうなぁ。きっと、暫く眺めていられる。でも、お掃除する時は怖いな。気をつけなくちゃ。

「とってもステキだと思います。こんなグラスで飲んだら、雰囲気もバッチリで、ワインを飲む前にうっとりして酔っちゃいそうですよね」

 もしも自宅にこのグラスがあったなら、なんて想像してみたけれど、うちの部屋の雰囲気じゃ台無し感が強い。安物のテーブルや、こぢんまりとしたキッチンのある自宅を思い出し、苦笑いが漏れる。

「そうか。じゃあ、これにしよう」

 専務は店員さんを呼ぶと、そのグラスを一つ頼んだ。

「一つでいいんですか?」

 ショールームの棚に飾るなら、幾つかあったほうが様になる気がするけれど。

「なんだ、彼氏の分も買ってやろうか?」

「え?」

 言っている意味がすぐに飲み込めなくて、少しの間専務の顔を見続けてからはたと気がついた。

「えっ! ショールームに飾るために買うんじゃないんですか」

 あまりの驚きについ声が大きくなってしまうと、専務の眉間にしわがよる。とっさに口元を手のひらで覆った。

「ニート上がりの貧乏社員相手に、余計な情報を与えてしまったからな。グラスくらいなら、買ってやるから。ワインは自分で買って勉強しろ」

 そう言うと、店員にグラスを手渡した。ワイングラスは素敵な深紅のボックスに入れられて、高級感が満載だった。

 こんな凄いの、むしろ使えない。

「ほら」

 本当にもらってしまってもいいのだろうか、という気持ちで受け取りながら専務の顔を窺った。

「俺も、履歴書はチェックしてるからな。誕生日、もう直ぐだろ。だったら、誕生日のプレゼントだと思っておけばいい」

 なんて、粋な計らい。

「ありがとうございます」

 恐縮しながら受け取り、私達は会社へと戻った。

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