第21話 仲直り
気まずい空気が湿度の高さを余計に際立たせているのか、やけに暑い。明らかに不機嫌で、明らかに怒っている貴哉は、睨みつけるように私を見ている。
「仕事の帰り……?」
こんな遅い時間にもかかわらず、スーツ姿の貴哉に向かって、何か話さなきゃとなんとか口を開いた。この気まずい空気を、少しでもいい方向へ変えたくて訊ねたけれど、貴哉は何も応えない。
「今日も暑いね。梅雨でもないのに、湿気がすごい……」
ヘラッとした言い方が気に障ったのだろうか、眉間のシワがさらに深くなった。あの夜追い返したのに、謝罪もなくヘラついているのだからイラつきもするか。
「誰?」
低く攻撃的な口調で、貴哉がやっと口を開いた。訊かれた相手が誰の事なのかとほんの僅かに逡巡したことで、つい視線がワインバーの中にいる専務へ向いた。
その瞬間にまた肩を掴まれ、強引に視線を戻された。その上、大きい声が頭から降り注ぐ。
「こんな遅くに、何やってんだよっ」
怒りに満ちた声には、あの日父が私を叱った時のような心配も含まれていることがわかった。けれど、頭ごなしの言い方に、心はひねくれて素直さが奥へと引っ込んでしまう。
「大きな声出さないで」
言い返してから、しまったと思った。
さっきまで怒りに満ちていた貴哉の表情が変わった。疲れの溜まった、それでいて悲しそうな顔。
貴哉のそんな表情を見た瞬間に、「ごめん」と言葉がこぼれ出た。
そのまま時間が止まったみたいに、言葉もないまま二人でその場に立ち尽くしていた。
背後にあるワインバーの中からは、相変わらず賑やかな声が聞こえてきているけれど、振り返って確認する雰囲気にはない。時折、道を行き交う人たちが何も話さずに向かい合っている私たち二人へ僅かな視線を寄越す。その中には楽しそうに話すカップルもいて、こんな風に気まずい自分たちとは、あまりにも空気が違いすぎて羨ましさがこみ上げた。
あの日、確かに貴哉はうんざりするほどに聞き飽きた言葉を言ってきた。それにはやっぱり腹がたつけれど、疲れた体で訪ねてきてくれたのに、あんな風に追い返した行動は、優しさのかけらもなかったよね。
時間が経ち、あの時よりも感情のコントロールは利いている。ちゃんと話さなくちゃいけない。
今ちゃんと話さないと、きっとこのまま貴哉は私から離れていく。
こっちへ来てから、何もわからない私のことを、いつもそばにいて助けてくれたのに。疲れて辛そうな貴哉を、私は助けてあげていない。
心配なんて心の中だけで思っていたって、何にも伝わらないのにね。
返信がこなくっても、しつこいって言われるまで、元気になるようなことをメッセージすればよかったのに。くだらない冗談だってよかったじゃない。
それに、再就職できたことだって。あんな風に気まずい空気だったからって、諦めずに話せばよかったんだ。
貴哉ならきっと、きっと喜んでくれたはずだから。
「たか……」
「……千夏」
話そうと声をあげた瞬間、貴哉も同じように私の名前を呼んだ。
お互いに譲るような仕草をしたけれど、貴哉から話して欲しくて言葉を待った。
「この前は、ごめん。最近イラつくことが多くて、千夏の話をちゃんと聞きもしないで」
貴哉が頭を下げて地面を見ている。瞬間、じわりと涙がこみ上げる。
わかって欲しかった気持ちと、わかってあげられなかった気持ちが、胸の中をいっぱいにしていった。
「私もっ。私もごめんなさいっ。貴哉、仕事が大変で疲れてるのわかってたのに、私……」
貴哉が、ゆっくりと地面から私へと視線を移す。それから、少しだけ躊躇うようにしてから手を伸ばし、私を引き寄せ抱きしめた。
ああ、貴哉の体温だ。あったかくて、少しゴツゴツしてて、大好きな香り。
胸に顔をうずめると、ごめんとまた呟くから首を振り、会わなくなってから決まった仕事のことを話した。
「私ね。再就職できたんだよ。さっき一緒にいたのは、その会社の専務なの。仕事のこと、いろいろ親切に教えてくれて。それに、ほら」
貴哉からそっと離れて、ワインバーを振り返る。
「中で楽しそうにしている人たち、みんな会社の人。今日は、私の歓迎会なの」
私の言葉を聞いた貴哉が、驚きと焦りをにじませた表情になり、中にいる専務を見ている。きっと、さっき専務にとった自分の態度を振り返っているのだろう。
あんな風に睨みつけてしまった相手が、会社の専務なんて聞いたら驚くし焦るよね。
「大丈夫だと思う」
「え……」
専務は、きっとお見通しだから。仕事中は笑ったりしないかもしれないけれど、吉川さんが言っていたように、悪い人じゃないって今日でわかったから。
「平気だから」
笑顔を向けると、さっきとは違ってマジごめん。と申し訳なさに少し肩を落とした。
それから気を取り直したように表情を和らげる。
「週末、どっか行くか。再就職祝い」
機嫌の治った貴哉が、笑顔を向ける。私もそんな貴哉へ、同じように笑顔を向けた。
「会えなかった間のこと。千夏のこと、ちゃんと聞きたい」
素直になった心で頷くと、クシャリと笑顔が返ってきた。
それからゆっくりと手を引き歩き、ワインバーから死角になる位置へ行くと、貴哉が少しだけ辺りを気にしながらそっと唇を重ねた。
くすぐったくなるくらい優しいキスは、出会った時に初めてしたように好きが溢れていて、少し不器用だった。柔らかく触れただけの唇からは、愛しさがにじみ出ていた。
貴哉を見送ったあとワインバーへ戻ると、吉川さんが興味津々でそばに来てからかうから、それをかわすのが大変だった。けれど、貴哉と会って話せたことで、心は晴れ晴れとしていた。
専務はといえば。
「エキサイティングなものを見せてもらえるかと思ったけど、意外とすんなりいったな」
なんて、やっぱりからかって笑う。
こんなに笑う専務は、もしかしたらこの先見られないかもしれないと、酔った勢いに任せて面白がらないでくださいと窘めてみた。
歓迎会限定かもしれない専務の笑顔を堪能して、明日からまた始まる仕事がますます好きになりそうな予感に、目の前のグラスをダウンライトへ向かって傾けてから、ルビーの紅い色を飲み干した。
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