第20話 貴哉
歓迎会には、入れ替わり立ち替わり社員が出入りして、その度に私は乾杯を強いられ、気がつけばヘロヘロになっていた。
何杯目かわからないグラスのワインをテーブルに置き、フーッと息を吐く。
「大丈夫?」
佐藤さんが心配して、グラスにお水を持ってきてくれた。
「前にも言ったけど、新しい人が入るのは本当に久しぶりだから、みんな嬉しいのよ。しかも、こんな若くて可愛い子だしね」
佐藤さんは、冗談を言って笑っている。若いは否定すると寧ろ嫌味になりかねない。けれど、可愛いはどうだろう。酔った思考で、そんなことをつらつらと思っていた。
「可愛がってもらえるうちは、どんどん甘えた方がいいよ。おじさま社員は、若い子に優しいんだから」
楽しそうに声をあげて笑う佐藤さんも、少し酔っているみたいだ。
「はい。ありがとうございます」
佐藤さんに小さく頭を下げて顔を上げると、ふわりと体が揺らぐ感覚になり、これはマズいなと貰った水を口にした。ワインとチーズや料理で満たされた口の中が、少しだけリセットされるも、まだまだあやしい。
「ちょっと、外の空気吸ってきます」
脳内を埋め尽くすアルコールに、ちゃんと帰れるだろうかと、足元も少しあやしいながらワインバーを出た。
帰りの心配をしながら外に出ると、夜の風は湿気を含んでいて暑さがまとわりついてきた。ワインバーの中が適温だっただけに、余計に息を吐きたくなった。
それでも外の空気にはアルコール臭が含まれていない分、気分を変えるにはいい。湿気を含んだ闇の上には、月が雲の陰に隠れるようにこちらを窺っていた。
見上げていたら、ファミレスバイトの初日を思い出した。慣れない仕事に疲れてクタクタな私を、貴哉が迎えにきてくれた。
乗ってく? そう言って背中を指差すから、笑ってしまったっけ。
貴哉の背中はゴツゴツしているけど安心できて、空を見上げれば月が今日みたいに少しだけ雲の合間から顔を覗かせていた。まるで、おんぶなんて恥ずかしいもの見せるなよ、そう言われてるみたいだった。
以前ならこんな風に酔ってしまえば、必ずと言っていいほど貴哉が迎えにきてくれた。ふらつく私を支えながらコンビニに寄り、アイスを買って食べながら帰るんだ。
貴哉のことを思い出したら、急にメッセージが気になりだした。久しぶりに確認しようと、スマホを取り出す。
忙しくなった貴哉から返信がこなくなってから、メッセージの期待をしなくなり。挙句、喧嘩をしてしまってからというもの、再就職の忙しさもあって、スマホを気にしないようにしていた。メッセージが来ていないことに落ち込むくらいなら、初めから気にしない方がいいからだ。
忙しさのおかげもあって何度も確認することもなくなり、考えてみれば今朝もメッセージをチェックしていない。
アプリを開いてみれば、母から相変わらず謎のメッセージが届いていて、意味不明すぎて逆に笑ってしまった。それから、貴哉の名前をタッチした。
「あ……」
くるはずがないと思っていたメッセージが、今朝届いていた。慌てて開くと、「おはよう」と素っ気ない挨拶だけで、他には何もない。既読にならないから、その後に続く文章を打たないまま終わってしまったのだろうか。
急いで今メッセージに気がついたことを打っていたら、専務がタバコを吸いながらワインバーから出てきた。
「彼氏か?」
くわえ煙草で特にからかう風でもなく言って、ライターで火を点けた。
「久しぶりに連絡が来て」
突然訊ねられて、思わず正直に答えてしまってから後悔した。
何をペラペラと個人情報を話してるんだ私は。久しぶりになんて、喧嘩してますって教えているようなものじゃない。
余計なことを言ってしまったと思う私のことを気にしている風もなく、専務は深く息を吸い、タバコの煙を吐き出している。その煙は、さっき見上げた月を隠す雲のように空へと登ってかすれて消えた。
「ワイン、好きか?」
外に設置されていた背の高い灰皿に、半分ほどまで吸ったタバコをもみ消して専務が訊ねた。
「はい」
詳しくはないですけど、と付け加えようかと思ったけど、そんなことは既に承知だろうと思ってやめた。
「好きなら良かった」
手持ち無沙汰なのかライターを右手で弄び、どこか遠くへ視線を向ける。
「あ、あの。さっきのワイン。銘柄を教えてもらえますか?」
合格と言って大きなチューリップグラスに注がれた、今まで味わったことのない美味しワインの名前を知りたい。専務が教えてくれたワインの銘柄は、一度聞いただけではとても憶えられそうになくて。さっきまで貴哉にメッセージを打とうと思って途中になっていた画面を閉じて、メモアプリに打ち込んだ。
「水野が頑張っても、なかなか手の出ない高級ワインだ」
からかうように付け足すから、それは余計ですと笑いながら言い返した。
「いつかグラス一杯分でもいいから、自分で頼めるくらいの仕事ができるように頑張ります」
心の底からそう思った。
浅野さんに。社長に拾ってもらったこの会社の人たちは、みんないい人で。以前のところと比べちゃいけないとは思っても、人間関係は大事だなって改めて認識させられている。前のところは、初日からとても厳しい扱いをされたし、それがどんどんエスカレートしていったから。
「やけに前向きだな」
からかう専務だけれど、正直な気持ちだ。
「まずは、うちで仕入れているワインの名前と産地を、頭に叩き込むことだな」
真面目に返してくれた専務に、両手をグーにして頷いた。
そのポーズが可笑しいのか、専務が笑った。今度は、口元に手を持っていかない。口角をあげて笑う表情は、会社にいるときの気難しさなど微塵もなくて親しみやすい。
ちょっと大きな子供位には見えるかも。なんて言ったら、怒られそうだけれど。
「さっきテストに使ったのは」
「ピノ・ノワールですよね」
かぶせるように応えると、優しく目尻を下げた。こういう穏やかな表情は、社長と似てるかも。
「覚えたか」
「はい」
「あれはな、元々はオーストラリア品種の黒ぶどうから作られているんだ」
専務のうんちくを酔った頭に刻みこめるだろうかと、真剣に話を聞いていたら、ズカズカと誰かが近づいてくる気配がして、首を巡らせた瞬間に肩をぐっと掴まれ引っ張られた。
突然のことに驚いて、小さく声を上げて相手を見たら貴哉だった。
驚いたまま声にならずにいると、貴哉の眉間に刻まれたシワが、この夜でも深いことに気がつき言葉が出てこない。
怒っている。
瞬間的にそう思った。
わけのわからない専務は、驚きながらも状況を把握したようだ。
「エキサイトすんなよ」
私にというよりも、怒りに満ちている表情の貴哉へ言っているみたいだ。冷静にそう言ってから、私の肩にとんと手を置いた。
「先に中へ戻ってる」
言い終えて踵を返す専務を視線で追って返事をしようとしたら、また貴哉にグッと肩を掴まれ、専務への返事が出来なかった。
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