第15話 笑顔でいるために

「こんばんはー」

 玄関口で声をかけると、好子さんがゆったりとした歩調で現れ出迎えてくれた。

「いらっしゃい、千夏さん。さあ、さあ、上がってちょうだい」

 ウキウキとしたように迎い入れられると、こちらも嬉しくなる。相変わらずの癒し系だ。

「お久しぶりです」

 頭を下げたあと茶の間に案内されて入ると、以前とは違って好子さんの手作りだろう手料理がテーブルにたくさん並んでいた。

「横文字の名前がついた料理の方が若い人たちにはいいのかしら、なんて思っていたのだけれど。ほら、以前レストランにお邪魔した時に、貴哉君が千夏さんはこういったものの方が好きだって話してくれて」

 座ってね、と促され床にぺたんと座る。

 貴哉があの時、好子さんとそんな話をしていたなんて知らなかったな。昨日の夜に喧嘩をしてから、電話もメッセージのやり取りもしていない。それが昨夜の喧嘩のせいなのか、それとも単に忙しくてなのか、判断はつかないけれど。少し前の貴哉が、私のことを思っていてくれていたことに、じわっと涙腺が緩む。同時に、昨夜の呆れたような怒った顔も思い出されて、溜息も出そうになった。

 貴哉のことに気を取られているうちに、好子さんによってテーブルの準備は進んでいた。

「あ、お手伝いしなくてすみません」

 慌てて立ち上がろうとしたら、いいの、いいのと止められた。

「ご招待したのだから、こういうのは私にさせてちょうだいな」

 ふんふんと鼻歌交じりの好子さんは、箸や取り皿を私の前に置いて、用意ができると自分も席に着いた。

「どうぞ。たくさん食べてね」

 好子さんに勧められるまま、私は空腹を満たした。以前の貴哉のようにパクパクと大量に消費するようなことはないけれど、それでも普段よりは食べたと思う。だって、好子さんの手作り料理は、とても美味しいから。

 母の味に似ているようで、祖母の作る味にも似ている気がする。煮物を一口頬張れば、心がすっと安堵するような、ほっとできるような懐かしさに包まれた。

「お芋、ホクホクで美味しい」

「よかったわぁ。貴哉君が煮物や魚なんかの和食を好むって教えてくれて、これは私の腕の見せ所だわと思ったの」

 ふふっとしとやかに笑うと、好子さんも煮物をつまむ。

「そうそう。今日は、貴哉君も誘ったのよ」

 何も知らない好子さんにそう言われて、心臓が跳ねた。あんな喧嘩をした翌日だったから、とてもやましいような気持ちになってしまった。けれど、あんな酷いことを言った貴哉が悪いのだから。と自分が追い出したことを正当化しようとした。

「貴哉君は、なんだか、とてもお仕事が忙しそうなのね。大丈夫かしらね」

 好子さんは、貴哉の体を本当に心配しているようだった。来られないようだから、タッパーに詰めてお届けできたらいいのだけれど、と首を少し斜めにしている。

 片や私はといえば、自分が悪いんじゃないなんて、そればかりで。そんな自分が嫌になるのに、それでも素直に貴哉の心配をできないことに、どうしようもなく甘ちゃんなのだろうと情けなくなる。

 好子さんは、純粋で優しい。いつも微笑みを絶やさなくて穏やかで、怒ることなんてあるのだろうか。

 仕事の忙しい貴哉の心配をして、私にご飯を作ってくれて。好子さんに会えて嬉しいはずなのに、純粋な優しさや思いやる気持ちを前にしてしまうと、ダメな自分がどんどんさらけ出されていくのは苦しくもあった。

 情けなさに苛まれていると、純粋な瞳の好子さんと目があった。心の中のダメな自分を見られた気がして、咄嗟に目を伏せてしまう。

 そんな私に気がつくはずもない好子さんは、なんら変わらずのんびりとした口調で話した。

「千夏さんも、レストランには慣れました?」

 ファミレスのことをレストランなんて言われてしまうと、なんだか高級なところをイメージしてしまって、好子さんには申し訳ないけれど可笑しくなる。

「ファミレスの仕事にはだいぶ慣れましたけど、週末でやめることにしてます」

「あら、そうなの?」

 驚いたようにしてから、次の言葉を待つようにして見ている。

「仕事が決まったんです」

「あら、それはとてもおめでたいことだわ、千夏さん。それで今日は、素敵なスーツを着ているのね。ケーキの一つも買うんだったわ」

 残念だわぁ、と好子さんは本当に残念そうにして、なにかお祝いになるような和菓子はなかったかしら? なんて顎に人差し指を添えている。

「あ、いえ、そんな。はい、ありがとうございます」

 その気持ちだけで、充分嬉しい。

「実は、今日が初日で」

「あらあら、それはお疲れだったわよね。ごめんなさいね。寄り道をさせてしまって」

「いえいえ、そんな。寧ろ、お腹が空いていて、だけど疲れてしまって作る気力もなかったので、好子さんに誘ってもらえて本当に嬉しかったです。ご飯も、とても美味しいです。田舎で母が作ってくれたような気持ちになって、心がほっとするっていうか」

 好子さんは、ゆっくりと相槌を打ちながら穏やかな表情で聞いてくれる。その仕草は、田舎にいる祖母を思い出した。

 あわてんぼうで、気持ちが焦っている時の会話が早口になると、祖母はよく落ち着いて話してごらんなさい。とゆっくりとした口調で言ってくれるから、私はそれに倣って話すことができていた。

「ご実家は、遠いのかしら?」

「そうですね。飛行機に乗らないと帰れないかな。北海道です。なので、滅多に帰ることもなくて」

「そうなのね。それは、お互いに寂しいわね」

 自分のことのように、好子さんは悲しそうでさみしそうな顔をする。

「それもありますけど、意地もあって」

「意地?」

「貴哉が事あるごとに、私に田舎へ帰れって言うので」

 言ってしまってから、告げ口みたいだなと思うのに、昨夜の言い合いが蘇って、話す言葉は止まらないし感情に声が震えた。

「なんていうか、貴哉は東京育ちだから、私みたいに田舎から出てきている人たちは、辛くなったら帰って逃げ込めるって思ってるみたいで。貴哉にしてみれば、田舎へ泣きつくようにして帰るなんていうのは、苛立つんだと思います。逃げ込みたいなんて思ったりしないけど、そんな風に言われると顔を見に少し帰ろうかなっていう気持ちも、全部そう取られるんだって思えて。だから、意地でも帰らないって」

 大学でなかなか単位が取れなかった時も。就職がうまくいかなかった時も。入った会社で上手くやっていけなくて、辞めたいと泣き言を言っていた時も。その会社を、結局は具合の悪さから耐えられなくて辞めてしまった時も。そして、仕事がなかなか決まらなかったつい最近も。

 貴哉は、何かにつけて田舎を持ち出して、帰れときついことを言ってきた。

 悔しくて泣きたくなって。けど、うまく言い返すこともできないし、ただ言われっぱなしで気持ちを抑え込んできた。

「何度か帰りたいなって思ったことはあったんです。けど、貴哉に、ほらな。なんて言われるだろうって思うだけで、ホント悔しいんです、私」

 話しながら涙腺が緩んでいく。泣くなんて、もっと悔しい。

 けれど、小さな子供を見守るみたいに優しい顔の好子さんに、心は緩んで、涙腺も緩んで。結局、大粒の涙が膝の上にポタリと落ちてしまった。

「千夏さん」

 辛かったわね。そんな風に言ってくれているみたいに、好子さんが私をふわりと抱きしめて背中をそっと撫でてくれた。

「よく頑張りました。千夏さんは、よく頑張っています」

 よしよしと好子さんに背を撫でられながら、私は静かに涙を流した。意地になっていた気持ちが、好子さんのおかげで楽になっていく。

 貴哉の言葉に意地になって田舎から遠ざかっていた私は、今好子さんがしてくれているような優しさを求めていたのかもしれない。帰ればいい、なんてきついことを言われながらも、どこかでこん風な優しい気持ちで接してくれることを貴哉に対して望んでいたんだ。

 それは、叶わず喧嘩になってしまったけれど。


「これ、温めて食べてね」

 タッパーに煮物とお稲荷さんを詰めてくれた好子さんは、それが入った紙袋を握らせる。

「ありがとうございます」

「また、お食事、お付き合いしていただけるかしら?」

「もちろんです。是非」

 好子さんが笑みを見せる。

「千夏さんの笑顔、とても素敵よ。だから、その笑顔のためならあなたの育った町や場所は、いつだってあなたが帰っていい場所なの、誰がなんと言ってもね」

 コクコクと何度も頷き、また緩くなってきた涙腺から涙が溢れ出さないよう、好子さんに負けないくらいの笑みを浮かべて、「また来ます」と家路を辿った。

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