第12話 喧嘩
スーツに着替えてから、駅前の証明写真ボックスで履歴書用の写真を撮りマンションへ戻ると、エントランスを他の住人と一緒に抜けて入ってきたのだろう貴哉が、疲れた顔をしてドアに寄りかかるように立っていた。
貴哉の姿を確認すると、久しぶりに逢いにきてくれたことに心が一気に高揚した。
忙しくなってメールもままならない毎日だというのに、こんな風に会い来てもらえるなんて思ってもみなくて自然と声が明るくなる。
「貴哉」
足元は写真に写らないからとスーツにスニーカーを履いた姿で、久しぶりに会いに来てくれたことに気持ちが弾み軽快な歩調で走り寄った。対照的に貴哉は私の姿を見てとても感じの悪い、呆れた溜息をこぼした。
「なんだよ、そのちぐはぐな格好。やる気ないんだな」
溜息とともにこぼされた言葉は、久しぶりに会ったというのにとても攻撃的で陰湿感満載だ。いつもの貴哉にある“ぞんざい”ではなく、とても感じが悪いのだ。
一瞬にしてムッとなったけれど、もしかしたら何かしらの気遣いに気づいていないだけかもしれないと、苛立ちの小さな芽を頑張って摘み取った。
ドアを開けて貴哉を先に促し部屋に入ると、盛大な溜息とともにドサリと貴哉がベッドへ倒れこんだ。日々の残業で相当疲れているのだろう。
「おつかれさま」
声を掛けて、履歴書写真のためだけに着ていたスーツを脱ぎ部屋着に着替える。テーブルに出しっぱなしの、書きかけだった履歴書やペンは床におろした。
「冷たいお茶、飲む」
ベッドにうつ伏せてしまった貴哉が、体をだるそうにしながら仰向けになり、「うん」と応えた。
グラスに氷と麦茶を注いでテーブルへ置くと、やっとベッドから降りて私の前に座った。目の下には、クマができている。忙しさに、睡眠も余り取れていないのかもしれない。
注いだ麦茶を半分ほど飲んだ貴哉は一度息を吐き、顔を少しだけ睨むようにして見てくるから、何か悪いことしたかなって気にさせられるのだけれど、そんな覚えは少しもないまま、なんとなく緊張に鼓動が早くなる。
自分の分も用意した冷たいお茶の入っているグラスを持ち上げて、緊張に飲み込む音がゴクリと鳴った。
氷がカラリと音を立てれば、しーっと口元に人差し指を持っていき、静かにしなければいけないような貴哉の態度に、テーブルに置いたグラスからゆっくりと手を離し膝の上に置いた。
「昼間のメール、あれ何?」
わけのわからない緊張した空気に、膝の上に置かれた手がもじもじと動き始めた頃、責めるような言いかたで貴哉が訊ねた。何か気を悪くするようなメッセージを打っただろうかと考えたけれど、今日の昼間に打ったメールは一件しか思いつかない。ハローワークにいると、良くない空気にのまれてしまいそうだというものだったはず。
貴哉の忙しさを考えて、それ以外のどうでもいいようなメッセージを無駄に送りつけたりしてはいない。そもそも、ここのところは返事もないから、メッセージを送る意味がないと思っていた部分もあった。
「えっと。ハローワークのかな?」
伺うようにして貴哉の顔をみれば、それ以外にないだろ、とばかりに苛立つ顔を向けられ萎縮してしまう。
貴哉が飲んだお茶の氷がカランと鳴って、しーっとまた心の中でヒヤヒヤしてしまう。こんな雰囲気で余計な音が鳴ってしまえば、それだけで険悪な空気が増していきそうな気がしてくるからだ。
「千夏さ。本気で仕事探す気あんの?」
責めるような口調でそう話し始めた貴哉が怖くて、言葉が出ずにただコクリと頷いた。
ほら、やっぱり険悪な空気が増している。
着実に空気が淀んでいく中で、ヘラヘラ笑うわけにもいかず、膝の上に置かれた手がぐーっと力を入れて丸まっていく。
「ハローワークにやっと行ったかと思えば、空気が悪い? なんだよ、それ。かと思えば、スーツにスニーカーなんて、真面目に仕事探す気ないだろ」
呆れかえって目も合わせたくないみたいに、プイッと貴哉が視線を外した。その態度が悲しくて、自然と俯き加減になる。
「えっと、これは」
スーツにスニーカーの理由を説明しなくちゃ、誤解されたままだといけない。そうは思っても険悪な空気に委縮して、どう弁解すればいいのか言葉が上手に出てこない。
反論しないというか、できないのだけれど。黙ったままの態度に益々苛立ちをあらわにした貴哉が麦茶を一気飲みほすと、氷だけが残ったグラスをタンッと大きな音を立ててテーブルに置くから、ひっと怯えに小さく息を呑み体が飛び上がりそうだった。
床にある貴哉の足はあぐらをかいていて、イライラに貧乏ゆすりしているらしく、体が小刻みに揺れている。
ぞんざいな貴哉はよく知っているけど、苛立つ貴哉は初めてだった。
大学の時にも腹の立つようなことはあったけれど、それは子供じみた喧嘩で、それさえも楽しんでいたから、こんな険悪なことになったのは初めてだった。おかげで言葉を見失い、ただ目の前にいる貴哉が怖くて、早く時間が過ぎてこの険悪さが綺麗さっぱりなくなることだけを願っていた。
ほら、時間が解決してくれる、なんてことよく聞くし。
けれど、テレビもついていない、まして音楽が流れているわけでもない静かな部屋の空気は、貴哉の醸し出す険悪な空気に埋め尽くされ始めていて、このまま圧迫死してしまうんじゃないかと息苦しさに微動だにすることさえできずにいた。
「マジでさ。そんなんだったら、帰ったら?」
出たっ。貴哉の田舎へ帰れ攻撃。
けど、いつもと違うこの雰囲気での”帰れば“は、かなりグサッと胸を貫いた。アニメだったら、出血多量になるんじゃないかというぐらいの血飛沫が上がっているはずだ。
貴哉の貧乏ゆすりは止むことがなく、体はずっと小刻みに揺れている。その揺れは、貴哉の中にある苛立ちに比例していて、それを止める術など思いつかなものだから、ただ口を閉ざして俯いているしかできなかった。
だいたい、いつもいつも、なんなのだろう。なんでそんなに帰らせたいのだろう。
以前考えたように、貴哉はやっぱり私と付き合っていくことに疲れているのだろうか。田舎者の相手は、実は面倒だと感じていたのかもしれない。
何十社も面接してお祈りメールをもらうたびに貴哉に愚痴って泣きついていたのに、やっと受かった会社をあっという間にやめてしまったことをよく思っていないのだろうか。けれど、あれだけ具合の悪くなった姿を見てもそんな風に思っているのだとしたら、男として彼氏として優しさレベルが低すぎると思うのは甘え?
そもそも、毎回帰れば? って言われるたびに、嫌な気持ちでいることに気がつかないのだろうか。
散々「帰らない」と言っているのに、しつこいよ。
そうだよ。帰らないって、言ってるじゃんっ。
抉られた胸から滴り落ちる血を抑えながら、表面的な感情を押し殺した。胸の中では、グルグルと黒い感情が色を濃くしていく。
私は、この雑多で、他人の気持ちなんかどうでもよくて、街はゴミがいっぱいで人もいっぱいで。隣近所との付き合いなんかからっきしなくて、クレープ屋やラーメン屋や、はやりのものがめまぐるしく変わる都会の速さに目が回りそうで。外国人も増えて、グローバルで、英語の一つも出来ないとやっていけなくて。夜に一人歩きもできなくて、キャッチも多くて、ローンやお水の宣伝チラシがおさまるティッシュなんて、街を歩いてれば山ほどもらう羽目になって。
それでも、好子さんや今日面接をしてくれた浅野さんみたいな人に巡り会える、そんなこの街が好きなんだっ。
こんな街だから、優しさに触れた瞬間の幸せは、田舎よりもずっとずっと感動的なんだ。私は好子さんも浅野さんも大好きで、こんな雑多な街も大好きで。目の前で怒りを感じて呆れ、部屋中の空気を悪くしている、そんな貴哉だけれど、私は好きなのにっ。
拳は強く強く握られていて、膝の上で今にもバンッと大きな音を立てて爆発しそうになっていた。グルグルとどす黒く変わってしまった心のうちは、その色を薄めることなどできなくて、ただただ攻撃的で、感傷的になっていた。
帰れ、帰れって。いい加減、アッタマきたっ。その言葉、そっくり返すっ。
「……て」
やっと言葉にしたけど、怒りに支配されている声は、うまく音になって出てこない。
伝えたい言葉の一つも口から出てこなくて、もどかしくて悔しくて、なのに貴哉が愛しいのがもっと悔しくて、握った拳が震える。
「あ?」
機嫌の悪いままで、貴哉が訊き返した。
震えるように少し息を吸い、今度ははっきり言ってやった。
「帰って」
膝の上で握ったグーで、手が真っ白だ。その白さを睨みつけるように、もう一度言った。
「帰ってっ」
目も合わせない私に盛大な溜息をこぼした貴哉は、何も言わずに出て行った。
残された私は、テーブルの下で握られたグーをゆっくり開いて、爪が刺さって痕になっている赤い線に涙をこぼした。
氷しか入っていなかった貴哉のグラスは、たくさんの汗をかきテーブルは水浸しになっていた。なんだか涙の水たまりみたいで、貴哉の涙みたいで。やっぱり私は、また泣けてきた。
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