第11話 ワインで乾杯
突然決まった面接に、慌てて求人誌を片付けて残りのコーヒーを一気飲みしたせいか、歩きながら噴出す汗が止まらない。
ハンカチ一枚では足りないかもしれない、と額の汗を抑えて目的の会社を探した。太陽はそろそろ真上にきそうな時刻で、暑さに体力を奪われ、空腹にひもじさを感じ始めた頃に、目的地へとたどり着いた。とてもわかり易い場所にあって、方向音痴のためほっとした。
古くからある会社の事務所なんていうから、築二十年くらいの雑居ビルを想像していたのだけれど、思っていたより綺麗な外観の建物だった。
ネットで現在地を確認して、プレートに書かれた社名を確認する。
大丈夫、間違っていない。
ガラスの自動ドアの前に立つと静かにスライドし、生き返るような冷風が迎えてくれた。入ってすぐに、ここで扱っている幾つもの商品となるワインが、そこかしこにおしゃれに飾られ置かれているのが目に入る。コルクのほのかな香りに頬が緩んだ。
慌しさのまったくない静かな社内には、同じくらい静かにクラシックが流れていた。受付らしいものはなく、実務机などもうかがえない。一見、ワイン販売店のような事務所内だ。
誰も現れないので声をかけようとしたところへ、左奥のドアが開いて一人の男性が現れた。
「こんにちは」
先に挨拶をされて、慌ててお辞儀をする。
奥から出てきたのは、五十代は当に過ぎていそうなおじ様だった。
なぜ、おじ様かって。おじさんというには、着ている物が洒落ているからだ。
スタイリッシュなオーダースーツに身を固めたおじ様は、とても人懐っこい笑みを浮かべ迎えてくれた。
「あの、私先ほどお電話いただいた」
そこまで言うと、了承していますよ。と、今出てきたのとは別の、真っ直ぐ奥にあるドアへと案内された。そこは、来客室のような会議室で、席へと促される。
おじ様社員の方は案内をしたあと、「
「こちらに、ざっとでよろしいですから、今までの経歴を書いていただけますか」
おじ様社員の浅野さんが一旦会議室を出ていく。待つ間に、渡された用紙に経歴を記入していった。そうしていると、自らアイスコーヒーの入ったグラスを二つ運んできて、一つを私に。一つを自分の前において腰掛けた。
「すみませんね。何分、人が足りないもので」
自らコーヒーを運んできたことを言っているのだろう。とんでもない、というようにいえいえと恐縮すると、「暑かったでしょう。お飲みになってください」と自ら先にコーヒーへ口をつけた。きっと、そうすることで、私が飲みやすいようにしてくれたのだと思う。
お言葉に甘えて一口頂くと、きりりと冷えていて苦味が効いていた。
美味しい。
グラスをテーブルへ戻すのを待っていたように、浅野さんが口を開いた。
「少し前に、お子さんができた女性社員がおりましてね。とてもおめでたくて喜ばしいことなのですが、悪阻が酷いようでして。無理をさせるのもかわいそうで、お休みに入っていただいたのですよ。ほかにも社員はいるのですが、なかなかデスクを離れることの出来ない者達ばかりで。今は私しかおりませんが、宜しくお願いします」
ニコニコと笑みを浮かべて断りを入れられてしまったけれど、そんな忙しい時にとなんだかこちらの方が申し訳ない気がしてくる。
私は、「いえいえ、そんな」と首をふる。
「この会社のことは、サイトか何かで?」
言いながら書いた経歴書を受け取ったあと、数枚の書類を広げペンを取り出した。どうやら面接開始らしい。
「はい」
「以前はー、大手ですね。凄いじゃないですか。どうしてまた」
辞めた理由だろう。取り繕っても仕方ないかな。小さな会社だからとなめてかかったわけではないけれど、アットホームな話し方につい気持ちが緩む。
「体調を崩してしまいまして」
「それは大変ですね。今はどうですか」
「はいっ。今はすっかり元気ですっ」
張り切って答えたけれど、言い方失敗したかな。応えてから思っても仕方ないけれど、浅野さんの表情は、とても好意的でほっとする。
「それは、何よりです」
穏やかに微笑まれると、気が抜けてしまう。
その後、以前の事はほとんど訊かれる事はなく。自社の商品についてや出勤体系、仕事内容について説明があり、こういった内容ですが大丈夫ですか。と訊ねられてはいっ。と肯定した。
浅野さんのように穏やかな社員さんがいるなら、以前のような思いをすることはないだろうな。社内の雰囲気はまだわからないけれど、こういう人がいるところで働きたい。
「では、明日からいらしてください」
「はい……、え? 明日からですか?」
思わず驚きに目が点になる。今、明日って言ったよね? 働きたいと思ったけれど、え? うそ。本当に?
「はい。何分、急に人手不足になりまして、一日でも早く入っていただきたいものですから」
いや、えっと。合格ってこと?
「採用して、いだだけるんですか?」
「はい、是非」
驚いた。こんなことって、あるのだろうか。バイトじゃないよ。社員だよ。
色んな意味で大丈夫だろうかと、逆に不安になってしまった。
「では、早速ですが、社則やらなにやらの用紙がこれで。あ、そうだ。少しお待ちくださいね」
浅野さんは会議室を出ると、しばらくしてグラスを二つとワインを一本持ってきた。
「うちで扱っている商品のひとつです。本当なら創業当時、初めて仕入れたものと同じものを飲んでいただきたいのですが、流石にもうそのワインは貴重になりすぎまして、申し訳ありませんが最近売り出し中のものでご勘弁を」
にこりと笑みを浮かべると、コルクを小気味いい音とともにスマートに抜き、香りを確かめ、二つのグラスへ優雅に注いだ。まるでレストランのソムリエみたいでかっこいい。
「では、これからよろしくお願いいたします」
グラスを手渡され、少し掲げる。
「こ、こちらこそです」
「かんぱーい」
浅野さんは、そう言ってワインに口をつける。
「うん。おいしい」
笑顔で促され、ひと口飲んだ。
頂いたワインはとてもフルーティー、なのにしっかりとした重みとかすかな渋みがあって、チーズが欲しいなぁ、なんて思うのだった。
ていうか、仕事中にアルコールっていいのだろうか? けど、目の前でニコニコされると、何も言えないよね。
頂いたワインに舌鼓を打ちつつ、浅野さんと世間話のような状態になる。実家のことや食べ物のこと。最近の若者の間では何が興味の対象ですか? なんて訊かれてあれやこれやと答えてみたりした。
なんだか、飲み屋さんに来て、隣のお客さんと意気投合でもしたみたいな状況になっていた。
アルコールも入って楽しいし、酔っているのかな、私。空腹だから、酔いが回るのも早いのかもしれない。
「ここの会社は、今はこういった感じで随分と小奇麗な場所に移る事ができましたが。以前は、もっと雑然とした古いビルにおりましてね。トイレも和式でしたから、女性社員はきっとイヤだったでしょうね」
シミジミと呟く浅野さんは、話からしてずっと働いているベテラン社員さんなのだろう。
「創業当時など、パソコンなんてものもありませんから。ワインの販売などというのは、全て電話でのやり取りでして。しかも、横文字ですから、何かと聞き間違いや言い間違いもありましてね。それはもう大変でしたよ。今ではネット注文などという、とても便利なシステムも構築されていますから、遠方の方との取引も、とてもスムーズになりました」
初めて触れる業種に私は興味津々で、浅野さんのお話をワイン片手に聞いていた。
「それでも仕入れは、やはり自分の味覚が勝負になりますから、機械を頼りにする事はありません。これだけは、絶対です。買っていただくからには、満足のいくものをお届けしなくてはいけませんからね」
「浅野さんも、仕入れに行かれるんですか?」
「そうですね。数年前までならよく行っておりましたが。最近は年も年ですし、若い方にお任せすることが多くなっています」
そう話す表情が少し寂しげで、本当なら自分が率先していきたいのだろうなというのがよくわかった。ワインを語る口調だけでも、どれほどこの仕事に愛着があるのかも判る。
浅野さんは、きっとこの会社が大好きなのだろう。
私も浅野さんのようになれるよう、この会社のことをたくさん勉強して好きになりたい。
そんな時に、突然勢いよくドアが開き、一人の多分社員だろう男性が焦った表情で飛び込んできた。そうして、怒ったような、呆れたような顔をしてひと言零した。
「やっぱり……」
溜息を盛大に吐いた三十代くらいの男性社員が、ワインを片手にしている私と浅野さんの顔を見て脱力してしまった。
「どうして、こう。勝手なことを」
浅野さんへその言葉を向けた後は、一緒にワインを飲んでいる私を恐い目で見てくる。思わずグラスを置いて立ち上がり、頭を下げた。
「
挨拶をして顔を上げると、男性の表情が歪んだ。
「採用、したんだ ……」
私から視線をはずした男性社員が、浅野さんへと訊ねる。
「ええ。とてもいい子ですよ。以前は大手にいらしたようですし、お話も上手です。ワインも美味しいといってくれました」
浅野さんの言葉に男性社員は、右掌で顔を覆い項垂れている。
なんか、これってよくない雰囲気。まさか考えたくないけれど、採用取り消しになったりするのかな……。
不安にどうしたものかと立ち尽くしていたら、男性社員が、ちょっとこっち。と浅野さんを会議室の外へと連れ出した。
「水野さん。ワイン、頂いていてくださいね」
出て行く間際に笑顔で浅野さんが言ってくれたけれど、なんていうかそれどころじゃない雰囲気ですよね、これ。
ドアの外では、かすかな言い合いの声。といっても浅野さんの声はほとんど聞こえず、男性社員が捲くし立てるように何かを言っている感じだ。
二人は、数分後に戻ってきた。
男性社員はまだ不満を隠しきれない様子だけれど、浅野さんの態度は相変わらず穏やかで好意的だった。
「水野さん、お騒がせしましたね。お気になさらず。明日からよろしくお願いしますね」
浅野さんにそう言われて、本当に来ても大丈夫なのだろうかと不安になり男性社員を見ると、渋々ながらも頷いている。歓迎されてはいないようだ。
来た時と同じように自動ドアは静かに開いたけれど、今度は外の熱風が吹きかかる。
「明日。履歴書を持ってくるように」
男性社員は一言口にし、奥へと引っ込んでしまった。
「あの。私……」
不安になって浅野さんの顔に訊ねると。
「心配は要りませんよ。明日、お待ちしていますね」
そう言って見送られた。ついでに言えば、飲みかけのワインもコルクで再び栓をしてお土産のように渡された。
一抹どころではない不安を抱えた帰り道、途方に暮れたような気持ちになった。
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