第9話 アルバイト初日

 体を使う仕事なんて、考えてみたらしたことなかった。そもそもファミレスの店員なんて、客の注文を聞いて厨房に通すくらいにしか思っていなかったのだ。

 指定の制服はスカートの丈が中途半端に短くてヒラヒラが気になるし、これまた指定のローヒールからの仕打ちは、何時間も同じ場所をグルグルするだけのせいか足がパンパンだ。少しでもいいから座りたいけれど、そういうわけにもいかない。しかも、どんなにきつくても笑顔を絶やすわけにはいかない。

 その上、たくさんあるメニューも覚えなきゃだし、空いた食器もどんどん下げなくちゃいけない。あわあわテンパっていても、お客は構わず店員を呼ぶ。

 やばい、この仕事向いてないかも。

 隣の駅にもファミレスがありますので、そちらに行かれてはいかがですか?

 お客に向かって、何度そう口にしようとしたことか。まず、間違いなくクビになるだろうけれど。

 ああ、疲れた。ああ、座りたい。ああ、帰りたい。

 初日でへこたれそうになっているところへ、また客が来た。またというのはおかしな話だけれど。疲れに辟易する感情を押し殺し、片付けていたテーブル席から入り口へ向かって「いらっしゃいませ」と明るく声を上げて出迎えた。そこには、とても嬉しいお客様が立っていた。

 好子さん。

 人間の造りとは不思議なもので、疲れた、座りたい、帰りたいと、あれだけしんどかったはずなのに、会いたい人に会えた瞬間に、それら総てが吹き飛んでいく。

 どうなってるんだ、私の体。と考えるよりも先に、入り口に貴哉と並んで立つ好子さんの元へと駆け寄った。

「好子さん。いらっしゃいませ」

 弾むように迎えると、好子さんが「こんにちは」と笑顔をくれた。

 ああ、なんて癒される笑顔だろう。慈愛に満ち溢れている。今日のこの日のために、頑張ってきたのだとさえ思えてならない。

 拳を力強く握り、高々と掲げたい衝動を堪える。なんなら、好子さんへぎゅっと抱きつきたいほどに嬉しいのだ。

 その位の歓喜で好子さんに満面の笑みを向けていたら、隣に立つ貴哉が少し呆れていた。

「俺もいるし」

 冗談めいて不満を口にして笑っている。が、苦笑いだ。

「ごめん、ごめん、貴哉とはよく会ってるからね」

 そんなやり取りを聞いた好子さんは、あらあら。と上品に微笑んだ。


「千夏さん、とてもよく似合っているわ」

 テーブルに二人を案内してメニューを渡すと、ふふと好子さんが制服姿を褒めてくれた。中途半端なスカート丈も、裾のヒラヒラ具合も、好子さんの一言ですべてオッケーに思えてしまう。

「ありがとうございます。好子さんは、お元気そうで良かったです」

「毎日暑いけれど、私は元気よ」

 胸元でぎゅっと拳を握る姿が可愛らしい。

「この前、孫が来てくれてね。前回の穴埋めだからって、泊まっていったのよ」

 お孫さんがきてくれたと、好子さんが嬉しそうに話す姿に、こっちまで嬉しくなる。きっと、また抱えきれないくらいのデパ地下惣菜や、デザートを買い込んだに違いない。

 お孫さんがそれらを美味しそうに食べているのを見て微笑んでいる好子さんを想像すれば、とても幸せな気持ちになるし、自分のことのように嬉しくなる。幸せって、伝わってくるのよね。

「好子さん、とりあえずなんか頼もうよ。俺、腹減ったし」

 遠慮のかけらもなく言って、貴哉が好子さんへメニューを差し出している。ぞんざいな態度だけれど、和食のページをさりげなく開いて渡しているのは見逃さない。

 雑な言い方の中に隠れた気遣いは、貴哉のいいところだ。

 ただし、こちらがその気遣いに気がつかない場合は、ぞんざいさだけが際立ってイラっとするのだけれど。気づけないのは、こちら側の問題だから仕方ないのか。うーん。

「千夏、決まったら呼ぶからいいぞ」

 昼時の慌ただしさを感じ取り、仕事へと戻るよう促す言い方はやっぱりぞんざいだ。

 私の上司か?

 もう少し、好子さんとお話ししたかったな。エセ上司からの指示に納得はいかないものの、店内が混み合って来ているのは事実で、知り合いだからと言ってここにいつまでも居座り続けるわけにはいかなくなってきた。

 正確には座っていないから、居座りじゃないか。とにかく、本物の上司に注意されないうちに、お仕事へと戻らなくては。

「了解」

 下がる途中で他のお客からコーヒーのおかわりを頼まれて取りに戻る道すがら、チラリと二人のいるテーブルを振り返るとなにやら楽しげで、仲間に入れないことが悔しくて寂しくなった。

 私もお話ししたいよ~。

 やっぱり土日に働くのは、まずかったかな。今更だから、どうにもならないけれど。

 覚えたての仕事にテンパりながら、お昼時の戦場をなんとかやり過ごした。一息つく間もなくテーブルを片付けていると、「千夏さん」と声をかけられる。好子さんだ。

「そろそろ、おいとまするわね。お食事、とても美味しかったわ」

 私が作ったわけじゃないけれど、美味しいと言われると嬉しいものだ。

「ありがとうございます」

 頭をさげると、頑張ってね。と私の肘あたりを柔らかく触り、ファイトと可愛く付け足した。

 好子さんてば、やっぱり可愛らしい。大好きだ。

 出口までついて行き、お見送りする。

「また来るわね」

「はいっ。是非」

「んじゃあ、俺はまた後で連絡する」

「うん」

 二人を見送ってしまうと、再びどっと疲れがきた。人間の体の不思議その二だ。

 疲れた、座りたい、帰りたい。

 再び呪文のように心の内で唱えて、誰にともなく恨みがましい表情をしそうになり慌てて引っ込める。好子さんに応援してもらったのに、こんな顔してるなんて、ダメダメ。頑張れ、私。


 長いバイトを終えて裏口から外に出ると、スニーカーに収まる足が疲れに浮腫んでパンパンになっていた。ズリズリと引き摺り歩きながら、しょうもないことを考え始めた。

 足を動かさなくても家に着かないだろうか。あ、セグウェイがあったらいいのに。あれって、公道は走れないんだっけ。

 そうだ、スカイウォーカーだっけ? 空港とかにあるエスカレーターの道路版。誰か家までスカイウォーカーを設置してくれないだろうか。

 あまりの疲れに、こんなことでも考えていなければ一歩も動きたくなくなってしまいそうだった。たった一駅だから、元気なら歩いてでも帰れる距離だけれど、今日の私には拷問以外の何ものでもない。改札を抜けすぐにやってきた電車に乗ると、見渡した席は全部埋まっていた。少しでも座りたかったのに、まさに拷問。

 今なら眩しいライトの光を当てられ、取り調べの刑事に凄まれなくても、吐けと言われればなんだって吐いてしまえる。内臓以外なら。

 つり革にダラリとぶら下がり、頑張って一駅を耐えた。ズリズリと足を引きずり改札を出たら、貴哉がいた。

「かーのじょ。乗ってく?」

 そう言って貴哉が指さしたのは、乗り心地は悪いけど温かい背中だった。

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