『トール』
「な…………っ」
目の前で起こった光景が、アシュリーには理解できなかった。
ずっと一緒だった男が、地面に倒れ伏している。
肺まで傷ついたのだろうか? 口から時折ゴホゴホと血を吐きながら、涙で顔をくしゃくしゃに歪めながら――
――口元だけは笑っていた。
「君は……貴女は! 何をやっているのっ!?」
その男と同様に口元に笑みを浮かべている女は、倒れた男の足に、先ほど彼の血で染まったばかりの刃を突き立てる。
男は苦悶の叫びを上げ、涙を更に零す。
だが、自分を斬りつけた女への恨み事の類は一つも出ない。
口元を吊り上げるだけだ。
「邪魔になった人を片付けているだけですよぉ?」
「あ……ぁっ。ただ、そんだけの……話……だっ」
何を当たり前の事をという口調で男を刺している女は嘯く。
そして、女に刺されている男は「見て分からないのか?」と言いたげに、苦しみながら嘯く。
「アシュリー……ゲイリーも……すまなかった」
アオイが刃を引き抜き、呆気にとられて飛びかかるタイミングを逃したヴィレッタに向けて再び刀を向ける。
そしてトールは地面に爪を立て、片方は刺されて血がドバドバ流れているにも関わらず必死の形相で立ち上がる。
「俺ぁ、お前らまとめるリーダーの器じゃなかったみてぇだ……っ」
血反吐を吐いて、激痛に耐え、それでもなお立ち上がる。
訓練された兵士でも、そう易々とは出来ないだろう事を眼の前の少年はやってのける
「お前ら……直接的な衝突を抑えるために俺をまとめ役にしただろう? そして、それに俺は今……失敗しているっ」
「違う! 君は……」
失敗したのではない。
そもそもいつかこうなるのはほぼ確定だった。いつか破るつもりでトールをリーダーとした。
アシュリーも、そしてゲイリーも。
もし、アシュリーではなくゲイリーの仲間が来ていたら、多少の違いはあれど同じような行動を起こす可能性は高かった。
けど、それを口にすることは出来なかった。当然だ。いつか裏切ると宣言する人間なんているはずがない。
そして、こんな状況とは言え――いや、こんな状況だからこそトールという希少な技能を持つ人間の前で、それを認める事は二人ともできなかった。
「文字通り、命のかかった願い事を! 頼みを! 破っちまうかどうかっていう瀬戸際なら、命張って止めるしか……ねぇだろうが…っ! あ゛ぁ゛、クソッタレ!」
きっとそれは、トールも分かっている……ハズだ。
そう思っていた。
アシュリーも、ゲイリーも。
いや、それは合っている。
ただ二人が読み違えたのは、トールという男がそれをどれだけ深刻に受け止めていたのかという一点に尽きる。
「おう、アシュリー……お前……帰るには……スキルと魔法が必要になると考えたんだろ……」
「――っ」
図星を衝かれたアシュリーは、一瞬だけ自分の胸元に押さえつけているゲイリーの視界を落とす。
「ゲイリーからの話で……お前らが魔法をそれほど理解していないってのは分かっていた。更に、そこの二人は知らんが……お前は魔法に関わりの深い所にいて『こっち』に……来た……っ」
それも当たりだった。
他の人間――トールやアオイは分からないが、自分達の所に戻るには自分達がいた『環境』という要素が多かれ少なかれ必要になると、アシュリーは推測していた。
こちらの世界を脱出し、元の世界に帰る。
大雑把に言えば、元の世界への『
その計画が今、崩れようとしている。
「アオイっ!!!」
それ以上、トールに喋らせるわけにはいかないとアシュリーは声を張り上げる。
いつもの『ちゃん』付けではない。
アシュリーは敵意を宿した目で彼女を睨みつけるが、アオイもまた、どこか光を感じさせない瞳でそれを真っ直ぐ受け止める。
「人の話はちゃんと聞きなさいってお母さんから言われませんでしたかぁ?」
アシュリーは咄嗟に、アオイに向けて手にしているナイフを投げつけようとするが、その手が止まる。
確保しているゲイリーの反撃を恐れた――訳ではない。
それよりも早く、アオイの刀がトールの首に添えられていたからだ。
目線はすでに、アシュリーの方を向いていない。
一瞬の隙を付いてアオイを殺そうとしたヴィレッタを睨みつけ、牽制している。
「アシュリー……っ、選択肢は二つだ」
すでに、普通の人間ならば意識を失くしているだろう血を失いつつ、震わせながらトールは口を開く。
「どっちかが犠牲になる選択なんて……俺にはできねぇ。だから二つだ」
前は斬られていないハズなのに、流れ出る血が彼の白い服の全てを真っ赤に染め上げている。
「ここで有力な手掛かりを失うか、お前達三人が俺をリーダーとして認めるかだ……っ」
咳き込む度に血が飛び散り、トールの口元を赤く汚す。
「さぁ、選べ! じっ……時間はあんまねぇぞ……っ!!」
それも事実だ。
今すぐに傷口を押さえて――いや、縫い合わせて止血しないと死んでしまうだろう。
アシュリー自身は失くしてしまったが、今ではサバイバルパックが二つある。
抗生物質、消毒剤やステロイドも。今なら、間に合うかもしれない。だが、だがしかし――
「あ、トールさんも言いたい事は全部言っちゃったみたいなので、もう少し斬っておきますねぇ?」
その一瞬の逡巡の間にアオイは、先ほど刺した足とは別の足に、いつの間にか抜いていたアシュリーの――つまり、アオイが腰に下げていたナイフを突き立てた。
苦悶の絶叫を上げ、その場に倒れたトールはもう言葉を語る余裕も無いだろう。
ただ真っ直ぐ、泣いているのか笑っているのか分からない顔で、アシュリーを見ていた。
「さて、答えを出すなら早くしてくれませんかぁ? トールさんが死んだら、貴女達三人をブチ殺して自分の首を掻っ切る仕事が残ってるんですからぁ」
「アナタ……っ!」
ただ、ゲイリーの拘束を認めるだけで安全が手に入るというのに命を賭けるトールが、そしてそれを受けて入れているアオイという存在が、アシュリーには良く分からなくなってしまった。
「分かってるのアオイ!? このままじゃ彼が……トール君が死んじゃう!」
「何を言っているんですか、そうさせたのは貴女達じゃないですかぁ♪」
実行犯が笑顔で嘯く。
アシュリー自身半ば分かっていたが、言葉だけではアオイという女は揺らがない。揺さぶれない。
「貴女は、トール君と一緒にここにいたいんじゃなかったの!?」
「この人が、自分を曲げて選んだ道を一緒に歩きたいとは思いませんのでぇ」
せめて隙でも引き出せれば。
そう思って浮かんだ言葉をとにかく口にするアシュリーだが、全てが無意味だ。
笑みこそ浮かべたままだが、一言一言発するたびに殺意が質量を持って、似た戦闘服に身を包む三人に圧をかける。
「貴女達は、揃いも揃ってトールさんを舐めてかかっていたでしょう? 便利な道具を産み出すだけのただの凡人だと。だから上っ面の友情や敬意、安い色仕掛けで絡め取ろうとする。……浅はか」
もはや言葉の喋れないトールに変わり、今度はアオイが口を開く。
「どこまで真っ直ぐに、愚直に、自分でも通らないと理解している理想論に沿ってあがき続ける狂人をなぜ、御せると思ったのか」
口調がいつもと違う、重圧を感じさせる声に誰も驚きはしない。
それくらいの事は出来る女だと誰もが思っていたからだ。
トールを本気で危機にさらす様な事はしないと、二人は半ば確信していた。
アオイという女からは、トールという男に対しての依存に近い感情を持っている事は――それだけは理解できていた。
逆に言えば、アシュリーもゲイリーもそれしか分かっていなかった。
「
今、アオイはトールを斬りつけ、刺し貫き、地べたに這いつくばらせている。
不思議なのは、加害者と被害者の関係と言っていい二人が、今もっとも互いを信頼していることだった。
「さっさと膝まづいて、額を地面にこすりつけて降参してくださいよ。私も貴女達殺すの面倒ですし、自分の首掻っ切るのなんていやなんですから……」
ならばそちらが刃を引け、などという言葉は出てこなかった。
ただただ、一見いつもと変わらない様子で話す女が怖くて怖くて仕方がない。
「もう分かったでしょう? この人は貴女達のいいなりになるような人間じゃあありません」
アオイは手にした刀をトールの左肩の辺りに軽く突き立てる。
「さぁ、どうしますか? トールさんや私と一緒に死ぬか、生きるか……ほら。ほらっ。ほらぁっ!」
そうして挑発するように、じくりっじくりっと刀を動かして肩の肉を抉る。
出血量も傷も、とっくに致命的というレベルに達していた。
「……めて……」
「はい? よく聞こえませーん♪」
「もう止めて!」
「何をですかぁ?」
ほとんど動かなくなったトールの、その首元を狙って刃を付き合ってようとするアオイ。
そのアオイに向けて――
「お願いだからもう止めて! この子は解放する! トール君の意向にも従うから……だからっ!」
ナイフを放り捨て、ゲイリーの拘束も解く。
気管を締めつけられていたゲイリーはその場に崩れ落ち、むせている。
ヴィレッタは反射的に解放されたゲイリーを拘束し直そうとするが――なぜか、いつの間にか距離を詰めていたテッサがヴィレッタの動きを牽制する。
笑ったまま、邪魔をするなといいたげにヴィレッタを見ている。
「アタシ達の負けよ……負けよ! だから早く手当てをっ!」
「ふぅ……ん」
「…………だ、そうですよ。トールさん」
小さい穴から空気が漏れるような呼吸音をさせているトール。
アオイはしゃがみこんで、トールの耳元でそう囁く。
「最後の賭けには勝てましたか?」
その言葉に、自分が吐いた血でベトベトになった顔をニヤリと歪めてトールは返す。
その手に握られているのは、アシュリー達が重要視していたデバイス。
スマートフォンが握られていた。
その画面には、こう書かれていた。
『スキルの習得が完了いたしました。使用しますか? Y/N』
震える親指で、トールは『Y』の部分へ静かに押し――
――体中が、蒼い光に包まれる。
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