第26話 弟の過去
あれからどれだけの時間が経ったのかわからない。
私とイリアちゃんは互いに抱き締めあったまま玄関で眠ってしまったのか、気が付いた時には待合室のようなところのソファーで、毛布を掛けられていた。
「おや、目が覚めたのか。少し調べさせてもらったよ、当麻翔の姉の、当麻薫さん。そちらの娘さんの情報は出てこなかったが、それだけ大事そうに抱いていたんだ。まさか危険はないと判断させてもらったよ」
向かい側のソファーに座ってコーヒーを啜っていた老人が言った言葉に身構えると、諭すように掌を向けられた。
「まぁ、まさかこちらに敵意は無い。そう身構えるな。恩人である当麻翔の姉ならば同等に扱うのは当然のこと。と、挨拶はこれくらいにして本題に入ろうか。そちらも気になっているであろう、当麻翔のことだ」
翔の名前が出た瞬間に私が反応したことに気が付いた老人は、早速といった具合に身を乗り出した。
「翔は……翔は無事なんですか? 今、どこに?」
抱き締めたままだったイリアちゃんが微かに目を開いた事に気が付いて手を放すと、体を放した代わりにギュッと手を握られた。
「当然、当麻翔はここに居る。手術は成功して、今は隣の病室で点滴を打ちながら眠っているよ。しかし、無事かどうかというと――微妙なところだな。まさか、あそこまで酷いとは」
「どういうことですか? 助かったんですよね? 手術は成功したって……じゃあ、何が……ちゃんと、生きているんですよね!?」
私の言葉の意味を理解したのか、老人は目を閉じて小さく数回頷いた。
「ああ、ああ……ちゃんと生きている。脳も正常だし、自発呼吸も出来ている。だが、そういう話ではない。もっと根本的な、人間的な話だ。極論を言ってしまえば、今は、まだ生きている。もちろん、麻酔が切れる一時間以内には目を覚ますだろう。しかし……」
「しかし? しかし、なんですか? ちゃんと隠さずに教えてください! 私にはもうっ――もう、翔しかいないんです……」
懇願するような私の言葉と声に、老人は苦々しくも重たそうな口を開いてくれた。
「専門的な話になるが、極力噛み砕いて説明するとしようか。まずは、君が当麻翔をここに連れてきたときの状況から話そう。知っているかどうかはわからないが、彼は過去にも何度か大きな傷を負っていてね、今回のを合わせると四回だ。特に三回目の時が酷く――生きているのが不思議なくらいだったのを覚えているよ」
そんな話、一度も聞いたことが無い。……当然か。数日前に連絡を貰ったのでさえ数年振りだったわけで、私だって翔が一人で生きていて幸せならそれでいいと割り切っていたのだから。
「……つまり、その過去三回の大怪我が今回の怪我にも影響していると?」
「その通り。実は、三回目のときに当麻翔はいくつかの臓器に損傷を受けてね。幸いにも命に別状は無かったものの、損傷した臓器と、その一部を失うことになったんだ」
「それじゃあ――そんな体で……」
「いやいやまさか。話は最後まで聞け。当然、そのままでは一般的な生活はできても銃を持って戦うことなど不可能に近い。だから、本人からの強い要望もあって人工臓器を使うことになったのだ。だが、それも開発段階の物がいくつか含まれており、決して万能ではない」
「何か、副作用が?」
「副作用、とは少し違う。詳しく言うとややこしくなるのだが――要は輸血ができない体になってしまったのだ。しかし、輸血ができないこと自体は珍しいことではない。血液型の問題であったり、遺伝的な問題であったりで輸血が不可能な者は普通に居る。当麻翔の場合は、例えば――仮に小さな怪我をしたとしても、すでに人工臓器と肉体は細胞レベルに合わさっていて、むしろ以前の肉体よりも回復力が増したほどだ。つまるところは副作用というよりも代償だな。輸血ができない代わりに、少しの傷やナイフに刺されたりしてもすぐに治るほどの回復力を得た。つまりは――」
「細胞分裂の速度が増した?」
「ほぅ、驚いたな。まさか君の経歴を見る限り、そのようなことには疎いと思っていたのだが」
「これでも格闘術を教えている身なので、多少の医学知識は勉強したんです」
人が一生のうちに行う細胞分裂の数には限界がある。大抵の場合は限界に到達する前に死を迎えることがほとんどだと本で読んだけれど、もしも、生きているうちに細胞分裂の数が限界に達したとしたら……行き着く先は一つだけ。
「まさかまさか。しかし、想像しているのとは違う。当麻翔の細胞分裂の回数は未だ限界には達していない」
「じゃあ……何が問題なんですか? 回復力が高く傷は治るし、手術にも成功した。……血ですか? 輸血ができないから、血が足りていないとか?」
「いや、血に関しては点滴で補えているから問題は無い。目を覚ました後は多めの食事で血は戻る。だから、血ではない。問題なのは――問題は、その回復力なのだ。回復するのが、早過ぎた」
「…………え?」
言っていることが矛盾しているような気がする。
疑問符を浮かべて、纏まらない思考に視線を泳がせていると、イリアちゃんに握られていた手がギュッと握り締められた。
……うん。大丈夫。ちゃんと、話を聞こう。
「どういう意味ですか? 早い細胞分裂に体が耐えられなくなったとか?」
「いや、問題なのは撃たれたことだ。貫通していれば良かったのだが、使われた弾に難がある。ホロ―ポイント弾。聞いたことくらいはあるだろう? 簡単に言えば、人に命中すると形を変えて体内に留まる弾だ。本来ならば取り除くことも充分に可能だが、当麻翔の回復力がそれをさせなかった。撃ち込まれた先が人工臓器の中で、うちに運ばれた時にはすでに臓器の修復が済んだ状態だった」
「じゃあ、その人工臓器を切り開いて弾を取り出せば……」
「まさか。それは無理は話だ。無理にでも人工臓器を開けば、その時点で臓器は死ぬ。まぁ、しかし――何もしなかったとしても、このままでは残った弾の影響で臓器は使えなくなる。そして――」
「死ぬ。だから……今は生きている、なんですね」
「ああ。残念だよ、本当に」
こればかりは、どうしたって私には手の出しようもない。
翔は助からない。私にも誰にだって救うことは出来ない。
「そんなの……だって、翔は――」
私は、どうすればいい? 翔がいなくなれば私にはもう生きていく意味が無くなってしまう。連絡を取らなかった数年の間も、ずっとどこかで生きていていつか連絡が来るのを待っていたけれど、こうして目の前で死の宣告をされてしまっては、知らずに叶わぬ希望に縋って生きていくほうが余程マシだった。
「薫さん。現実を見たくないのはわかるが、今は考えなければならないことがあるだろう。まさか、放っておくわけはあるまいて。残された時間をどう過ごすのか、よく考え為され」
「っ――」
ダメだ。溢れ出てきた涙は、上を向く暇も無く零れ落ちてしまって、せめて声が漏れないようにと、イリアちゃんと手を繋いでいないほうの手で口元を押さえて頭を垂れた。重力に従って落ちていく雫が床を濡らしていくのがわかる。
――嫌だ。翔を失いたくない。もう絶対に助からないというのなら、失う悲しみを味わう前にいっそのこと私が先に――
「…………イリア、ちゃん?」
先程よりも強く、痛いくらいに握り締めてくる手に気が付いて顔を上げれば、真っ赤に充血した目をしたイリアちゃんが真っ直ぐにどこでもない壁を見詰めていた。
私よりも圧倒的に関係が浅く、過ごした時間も少ないはずの年端もいかぬ少女が、必死に感情を押し殺して耐える様に目を見開いている。どうしてそこまで? とは思うけれど、この子は翔が命を賭してまで助けようとしていた子なんだ。だとしたら、私までこの子を残して去るわけにはいかない。
「……ちょっと待って」
漸く落ち着いてきて、思い返してみた。
私は、イリアちゃんが狙われている理由を知っている。要は、洞窟の中にある何かと関係していて、それを利用するために追われてたんだ。
そして――現れたドラゴン。
ドラゴン……随分と安っぽい言葉だけれど、それ以外に形容のしようがないアレが、あのタイミングで姿を現したのには何か意味があるんじゃないのか? けれど、こんなタイミングでそんなことを訊けるはずがない。訊く、わけがない。私はただ黙って、もう一度だけイリアちゃんを抱き寄せた。
すると、その直後に奥の部屋へと姿を消していた老人が顔を出した。
「そういえば、まだ当麻翔には会えないから必要なものがあれば今のうちに買い出しに行くことをお勧めするが……いや、その前に風呂に入ったほうがいいな。二人とも、まずにその血を流して来い」
言われて手を見れば乾いた血がバリバリにへばり付いていた。よくよく見れば服もパンツも、全部が血塗れだ。もちろんそれはイリアちゃんも一緒だったけれど、お互いそんなことを気にしていられる状況ではなかったのが窺える。
「……お風呂は、どこですか?」
「向こうだ。看護士に案内させよう。おい!」
そうして、看護士に連れられてお風呂場へと向かった。
この血が翔から流れ出たものだと思うと、途端に愛おしく感じて洗い落とすことすらも勿体無いと思えてしまう。けれど、そう思いながらも――それは何かが違うかな、とイリアちゃんと共に頭からシャワーを浴び始めた。
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