第69話 予習と復習

(セケル、セケル、セケル……)


 就寝間際、メネウは敷布に包まってセケルの名を唱えた。


 意識がひっぱられ、目を開けた時には真っ白な空間……葦の原野に立っている。


 いつも通りアフタヌーンティーを嗜む紳士が、ローテーブル前のソファから手を振ってきた。


「メネウさん、こんばんは。最低限文化的な生活を送っているようですね」


「おかげさまで、すっかり健康的な生活になったよ」


 最低限文化的な生活を送ることは、セケルとの最初の約束である。もう一つ、転生したことを誰にも言わないというのも遵守している。


 勧められる前から自らソファに腰掛けると、メネウは「色々と聞きたいことはあるんだけど」と前置きして、時間が足りないので核心から切り込んだ。


「死者の書、って何?俺、何かしなきゃいけない事があるんじゃないの?」


「……」


 微笑んでいたセケルが表情を改める。


 真剣な表情でメネウを見詰めると、諦めて嘆息した。メネウの、知りたい、という目に負けたのだ。


「私が、冥界と芸術の神であることはご存知でしょう」


「うん。そんで、俺が知名度を上げたからってことで転生させてくれたんだよな」


 そしてステータスやスキルを盛りたいだけ盛ったのだ。しかし、それに親心以外の理由があるのだとしたら。


「その説明をした時に、私は言いましたね。何かに襲われたり、魔王が出ても大丈夫なように、と」


 メネウはキョトンとした。


 そんなことを言われた気もするが、それは例え話であって現実のことだとは露ほども思っていなかった。


「まさか……」


「あなたを転生させた23年前、貴方の体をあの世界の環境で密かに作りました。そして、時間をかけて丁寧に成長させた。それが貴方の体です。魂は、移ろうのに時間がかかります。魂として自らの生きた時間を遡り、この原野に到着するのです」


 つまり、メネウの体は所謂試験管ベイビーで、死んでから23年以上経っていると。


「その23年前、貴方の情報を今の世界に落とす穴を開けた時、冥界に捉えていた悪神が同時に逃げ出しました。……私の油断です」


「それじゃあ……?」


「その悪神はあなたを元の世界へ巻き戻してしまうほどの力を持って現界しています。私たち神が現界する場合、能力の制限を受けます。その世界にはその世界のルールがあり、それは肉体が知っているからです。……悪神はあなたの身体情報を掠め取り、適性な肉体を作り出したものだと思われます」


 セケルはそこで言葉を切ると、一口紅茶を啜った。


 メネウは言われたことを整理する。


 冥界に捕らえられていた神が、自分と同じ姿であの世界にいる。


 そしてそれを、セケルたちはどうすることもできない。


 目の前が真っ暗になりそうだった。


「……悪神の名は、アペプ。秩序より前に生まれたもの。混沌の神は、秩序を壊す本能によって動きます。一度は死者の書によって冥界に封印できましたが、今回彼が動いているのは人間の世界。我々神の手が及ばない場所です。何故なら……」


 そこまで聞いたところで、時間切れが来たようだ。メネウは引っ張られる感覚を覚えてセケルを見た。


「いいですか、メネウさん。また必ず来てください。全てをお話ししますから」


「うん。……絶対に来る」


 そう告げて、メネウは虚空の穴へと落ちていった。


 目を覚ましたメネウは、まだ朝焼けの群青を残した空の下でうんと伸びをした。


 朝の空気が冷たい。息が白く凍っている。


 足元に、カノンが寄ってきた。


 微かに燐光を放つと、半透明の大きなカノンが隣に座っている。少し落ち込んでいるように見えた。


「兄弟よ、何も知らなかったのですね。申し訳なかった」


「いずれ知らなきゃいけないことだし、別に何しろって言われたわけじゃないしな。気にしなくていいんだよ」


「しかし、メネウは何か考えている。そうでしょう?」


「うん……、知らなかったとはいえ、この責任は俺にもある。もっとちゃんと聞いて、手伝える事があったらやるつもり」


 カノンは鼻先をメネウに押し付けると、いつもの小さなカノンへと姿を変えた。


「セケルに話を聞くまでは、保留だ。……じゃあどこ行こうかなぁ!」


 保留と決めたら頭を切り替える。


 そうして次の目的地を考えていると、天幕の豪華な木の箱からヴァルさんがやってきた。


「主人。次の町へは少し遠い。よければ、先に我の住処を取り戻して欲しい」


 ぬいぐるみの口から重低音で告げられる。


 ヴァルドゥングの追われた住処を取り戻す約束をしていたのだから、ちょうどいい。


 地図なんかも揃えられなかったから、ヴァルさんの提案はありがたいものだった。


「そうか。ここから近いの?」


「今日一日歩けばたどり着ける。国境の狭間、人類未踏のヴァラ森林。そこが我の住処だ」


 人類未踏。果たして気軽にそこに入ってしまって良いものなのだろうか。


 とりあえずはトットとラルフに相談しなければならない。そう決めて、メネウはもう一度伸びをした。


 朝日が遠くの稜線から差し込んだ。新しい朝だ。

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