第5話

「ふわぁぁ!」


 機体が浮き上がった瞬間、思わず歓声をあげる紗菜。今まで旅客機に乗った事はあっても、小型機で空を飛ぶのは全く初めての事だった。


「それでお兄ちゃん、どういうコースにするの?」


「おう、唐津まで飛ぶぞ!」


 まだこの辺りの地理には疎い紗菜には理解できていなかったが、学校から佐賀県唐津市というと直線距離で45km以上もの距離があり、常識的には気軽に放課後に向かう場所では無いのだが、飛行機ならばそれが可能なのだ。


 隼人は慣れた手つきで機体をゆっくり大きく旋回させ、あっという間に博多湾のほぼ中央に位置する能古島の上空に到達させた。


「すごい!」


 紗菜の視線の先には福岡の市街地の白亜のビル郡が飛び込んでいた。さらに奥の山々は緑が美しく、湾内には大小問わず多くの船が見える。だが地上の乗り物なら早くても三十分掛かる距離でも、飛行機の速度であれば湾内を飛ぶのはあっという間のこと。


 ほどなく機体は糸島半島上空に到達。そして道中目に飛び込んで来る絶景に素直な感想を漏らす紗菜。半島を飛び越えると彼女の視界には空と海の上下の紺碧の世界が広がっていた。


「きれい……」


 海岸線に目を移すと虹ノ松原と呼ばれる美麗な松原が広がっている。およそ二十分ほどで、三人は福岡を飛び越えて佐賀の唐津市に到達していたのだ。


「時速300kmだとこんなところだな」


「あの、この飛行機はどれぐらいの距離飛べるんですか?」


 紗菜の質問に隼人は楽しそうに答える。


「燃料満タンで他に余計な物搭載して無いから、2,000km以上は飛べるよ」


「に、2,000kmってどのくらいなんですか?!」


「ああ、鹿児島の最南端から北海道の最北端までの直線距離ってところかな」


「そ、そんなに?!」


「まあ、よほどの理由が無いと、そんな距離は飛ばないけどね」


 声を出して笑う岩橋兄妹。その様子に絶句してしまう紗菜。


「すみません、気分は悪くなったりしてませんか?」


 尚江の問いに紗菜は優しく答える。


「はい大丈夫です。自分で思ってたよりも高いところ平気でしたし、このぐらいの揺れは慣れてますし」


「……。じゃあ、試してみよう」


 何を思ったのか隼人は機体を急上昇させた。


「ふぇ?!」


「ちょっとお兄ちゃん?!」


 隼人は高度を5,000mまで上げると、機体を一気に降下させた。


「初心者にはやらないって!」


「任せろ!!」


 降下角度は約30度。急降下の定義ギリギリの角度で機体を降下させる隼人。紗菜の眼前に紺碧の海面がぐんぐん迫ってくる。紗菜は声も出せずに自分の腿を掴んでいた。


「よし、歯を食いしばれよ!!」


 高度500メートルほどで機首を水平に引き上げた隼人。三人に自重の倍ほどの重力が襲い掛かってきた。


(!!)


 僅かに視界が紫かかる。やがて重力は収まり、機体は水平に最高速度寸前で突き進んでいた。


「お兄ちゃん!いきなりなにやってるの!」


 尚江が兄を叱責するが隼人は返事しない。


「いきなり驚かせてゴメン。で、紗菜、どうだった?!」


 隼人は紗菜に感想を尋ねる。尚江は兄と同じ戦闘機乗りなので慣れているが、初心者の紗菜は果たして。


「は、はい!何だかスッキリしました!」


「ああ。だったらよかった!」


 紗菜が高いところでも大丈夫だというのと、振動にも平然としていたのを察したので、隼人は適性を見るために降下運動を行ったのだ。そして紗菜は気分を悪くしたり怖がるどころか、気分がよくなったとまで言い切っていた。


「余裕あるから学校の少し先に行くよ」


 隼人は真っ直ぐ戻らず、少し学校の先に見せたいものがあるという。


「そろそろ日が沈みだす頃だな」


 隼人の言葉通り、傾いた夕日がゆっくりとコーラに溶け落ちるアイスクリームのように海に沈んでいく。場所は宗像市の沖合い。陸地には宮地獄神社が見えている。


「この辺り、宮地獄の参道に並ぶと光の道になるんだ……」


 黄金に輝く夕日がゆっくりと沈んでいく光景。


「……」


 兄妹の耳にインカム越しに嗚咽する声が飛び込んできた。紗菜は泣き出していたのだ。


「大丈夫か紗菜?!」


「ご、ごめんなさい……。こんなに……、綺麗な景色……、随分と見てなかったから……。それで……」


 彼女の脳裏に、十年前の光景が浮かんでいた。父母に連れられ、姉とも一緒に山の上から沈み行く夕日を眺めた懐かしい思い出。随分と忘れていた心から美しいと思えた景色が、思い出が蘇ってきたのだ。


(世界って、こんなに綺麗だったんだ……)


 この日、隼人に連れられて九九式双軽爆撃機の機首座席から見た景色を紗菜は生涯忘れる事はなかった。

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