現実
イフに、少し考える時間がほしいという旨を伝え、了承を得た柳は、またいつもの日課を繰り返していた。桐の背中を五分だけ追う毎日。それでも、今まで渡ってきた二つの世界よりはましだと思った。
桐は柳を見ない。好意の視線もむけないが、はじめに渡った世界のように嫌悪や恐怖の目を向けない。柳は桐をずっとは見られない。きっと桐は学校では二つ目の世界と同じように他のクラスメイトに笑いかけているのだろうが、柳はそれを見ないでいい。ただ自分がみている五分間だけ、あの背中は自分のものである、この世界の方が良かった。見ているものだけが真実。
しかし、事件が起こったのは三日後だった。柳は偶然にも見てはいけない真実を見てしまったのだ。生活用品を買いに大型ショッピングモールに行ったとき、その光景が網膜に焼き付いた。手を繋いで歩く、桐と男子生徒の姿。二人で楽しそうに笑って寄り添い歩く。見たことも無い明るい桐の笑顔。見たことも無い可愛らしい、フリルのついた白いワンピース。人が多いのでやや高めを浮遊していたイフの顔が引きつった。
柳の手が小刻みに震え始める。他の人間や、景色なんて何も見えなくなって、ただ二人だけが鮮明に見える。心臓がばくばくと壊れそうで、息ができず、脳に酸素が回らなくなって、くらくらする。それでも柳は歩き始めた。二人のあとをつけていった。
二人はもう帰る途中だったのか、すぐに別れて、桐は一人で家路をたどる。いつもの朝のように柳は後ろを歩いていた。違うのは、普段の柳はある種非常に穏やかで、完成された感情を持って桐を見つめていた。しかし今は、狂おしい歪な気持ちを抱え、その背中を見つめている。腹の中を醜い感情が渦巻いている。
そうして、いつも通る人通りの無い裏路地にたどり着いた。朝見ている風景とは逆の景色、逆の感情。この背中が自分のものではないことを見せつけられた今日。柳の心臓は燃えていた。
愛も憎悪も同じ炎だ。胸を焦がしていくそれがどちらなのか、そんなことはもうわからなかった。心臓を中心に身体の芯が灼けつくように熱い。それでいて、指先は氷のように冷たい。嚙み切った唇から垂れる赤い筋。腹の中で渦巻いていた浅ましい、醜い感情は、ヘドロになって口からこぼれそうだった。
柳は、ただ桐と幸せになりたかっただけだ。その方法を、知らなかった。柳の純粋だった気持ちは、激情に巻き込まれ泡沫のようにはじけて消えていってしまった。
「桐ちゃん。」
弱弱しい声だったが、異様な重みがあった。振り向いた桐は、愛想よく笑う。
「あの、どうかしましたか?」
桐が言い終わらないうちに、柳は桐にとびかかっていた。桐を突き飛ばし、のしかかって、首に手をかける。
この日、人生で初めて柳は桐に触れた。愛するために触りたかったのに、殺すために触れた。桐は一瞬呆然とし、そのあともがいたが、柳の狂気には勝てなかった。柳の指が、桐の喉に食い込む。冷たい指先に、その温かさが気持ちいい。
桐は柳の両手を強く掴み、引きはがそうとする。爪が手首に食い込んで、血が流れたが、柳はびくともしなかった。桐の手の力が徐々に弱くなる。桐はどうして、やめて、以外の言葉を発さなくなった。大きく目を見開き、血管が切れたのか白目の部分に赤い筋がはしる。顔は真っ赤になって、必死に息を吸い込もうと大きく開けた口がら白い泡含んだよだれが垂れる。
柳はかすかにアンモニア臭を感じた。桐は漏らしていた。きっとあの男子のために着たであろう特別なワンピースが薄黄色に濡れていた。柳はさらに強く締め上げる。突き出された舌の赤さが目に痛い。
それから、永遠のようなほんの数分後、桐の手から完全に力が抜けた。真っ赤だった顔色も、今は白い。失われていく体温と比例して、柳も冷静さを取り戻す。
「どうしよう…警察…救急車…」
荒い息を吐き、冷や汗をだらだらかきながら、震える手でスマホを取りだす。
しかし、ダイヤルしようとした左手を、あの石膏粘土のような手が優しく掴んだ。振り返れば、イフはこの上なく穏やかに微笑んでいる。
「いいんですよ。あなたはあと一回だけ別の世界に行けるのだから。大丈夫。」
こんな時でも、イフの声は甘く、優しい。耳元に吹きかけられる吐息が、脳と心を犯していく。
「さあ、最後はどんな世界に行きましょう。」
柳は体温を失いかけている桐の頬を優しくなでて、何かを言いたげに半開きになった唇に、血の匂いのする自分の唇を重ねた。冷たくて、固い。桐の色のない唇が、赤く染まって美しかった。
「こんな世界には行ける?」
柳は前置きする。
「どんな世界ですか?」
「私が正しい愛し方を知っている世界。」
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