最初の選択



 最初に選んだ世界はやはり「もしも私が男だったら」の世界だった。自分の恋愛の妨げになるのは兎にも角にも性別だと思ったのだ。この世界では、普通の女は男を好きになるという不変の真理があった。


柳は同性愛にひどく悩んでいる。女の自分が、女に恋をしたとあっては、相手はきっと気持ち悪がるだろうと怯えがあった。それで、自分を嫌悪していたのだ。実際、女と男であれば、6つの歳の差など大したことではない。世の中には20もはなれて結婚する人だっているのだから。


「私が男の世界もあるんですか?」

「ええ、もちろん。そちらの世界に行きますか?」

イフの唇の動きからはなんの感情も読めなかった。ただ、声音は優しく、笑っているような気がする。自分が男の世界が良い物か悪いものかはわからないが、これで失敗してもまだあと二つの世界に行ける。そこまで悩むこともないだろうと結論付け、柳は首を縦に振った。


「それではさっそく参りましょうか。」

柳はあまりに唐突なことに面食らった。今から行くのか、と。現在時刻は夜中の二時だ。明日は休日とはいえそろそろ休みたい。柳が時間を気にしているのをみとったのか、イフは微笑む。

「世界の移動は時間はかかりません。向こうについてもまだ同じ時刻ですから、そちらで休めばいいのですよ。」


さあ、と差し出された手。白く、骨ばった手の甲には一筋の血管も見えず、細い指と色の無い爪、美術の時間に作った石膏粘土の手を思い出した。恐る恐る手を重ねれば、契約を交わした時と同じく、体温の無い冷たさ、皮膚が固い。業を煮やしたイフが柳の手を握った時には、あまりの不気味さに思わず振り払いそうになった。


「私が怖いですか?」

その手の力はまるで絶対に逃がすまいというように強く、骨が食い込んで痛いほどだ。柳は震える手で静かに握り返す。

「少しだけ。」

誰にも聞こえないような小さな声だったが、イフは吐息のように笑った。


手を離さないように、暴れないように、それから少しだけ体調が悪くなる可能性があるが、空間の狭間を抜ければ治るから気にしないように、といくつかの説明を受けると、

「それでは、参りましょう。」

と一言あり、同時に身体からふっと重みが抜けた。宙に浮いたのだ。


じわじわとまわりの景色が歪みはじめる。妙な浮遊感と、明滅する景色に、ひどい眩暈が襲ってきた。脳みそを揺さぶられているような感覚で、視線がおぼつかず、軽く白目を剝いていた。次に、身体の血液が波のようにさざめく、皮膚が破裂しそうだ。鼻の奥がつんと熱くなり、血が垂れた。それから絶え間ない嘔吐の波がやってくる。嗚咽に体が痙攣して、酸っぱいものがこみ上げてきた。もう吐きそうだ、と思った瞬間、柳の口がふさがれる。



「吐かないでください。空間の狭間に異物を残してはいけません。」

イフの冷たい手が、がっちりと口元を掴んでいるせいで、口いっぱいの嘔吐物を外にだせない。鼻に抜けていく、鉄と吐しゃ物の臭いに耐えきれず、また嘔吐感が襲ってくる。息ができなくなって、急激に体温があがっていくのが分かった。

「飲み込みなさい。このままだと鼻からでる。」


言葉の意味を聞き返すより前に、イフは柳の口元を掴んだままぐっと上を向かせた。強制的に吐しゃ物が飲み下されていく。どろどろした生温かくて臭い液体が喉をすべり落ちる感覚はこの人生で最悪だった。



 永遠に続くかと思われた悪夢の時間だったが、周りの景色の歪みが元に戻り始めたとき、眩暈も収まり始め、徐々に身体も重さを取り戻し始めた。景色が完全にあるべき形に戻れば、柳の身体も地面に落ちる。イフが手を放すと、そのまま床に倒れこんだ。


息がまだ荒く、口の中には酸味が残っていて気持ちが悪い。喉に残った感覚に再び嘔吐きだした。苦しげな音を喉から鳴らし、身体をしならせる。イフは、体格の良い男になった柳を、事も無げに抱きかかえると、トイレの前に跪かせた。


骨ばった手の甲で背中をさすられる。上手く出せずに、便器にしがみついていると、ぐい、と顎を持ち上げられる。なにをと口を開ければ喉にイフの指がねじ込まれた。長い指が喉の最奥をこじ開ける。柳の目に、生理的な涙がめいっぱい溜まり、こぼれ落ちる。指が引き抜かれ、何度か痙攣したあと、ようやく解放された。


口をすすぎ、顔を洗い、ようやく一息ついた。周囲を確認すると、そこは自分の部屋のよく似た間取りの部屋だったが、薄ピンクのカーテンが青色になっていたり、本棚の漫画が違っていたり、細部の違いがあった。


いつも寝るときにベッドサイドに水の入ったタンブラーを置いておくのだが、たしかにその部屋のベッドサイドにも見覚えのあるタンブラーが置いてあった。ふらつく足取りで、いくつかの部屋を確認すれば、元々いた部屋と同じ部屋だということが分かった、あらゆる小物が男物になっている以外は。そして洗面台で口をゆすいで顔を上げ、鏡に映った自分を見て、柳は自分が男になっていることを確認した。


ワンルームに戻ると、イフはベッドに腰かけ優雅に書類を読んでいる。組まれた足の先が、リズムを取るように揺れていた。

「私……男になってた。」

柳が消え入りそうな声で呟くと、イフは大きく頷いた。


「ええ、ええ、そうでしょう。その姿もなかなか素敵ですよ。基本情報をお伝えすると、名前は柳のまま、変わっていません。桐さんとの関係も同様です。他細部の変更点は……」

書類を読み上げる声がどこか遠くに聞こえた。見つめている手さえも、元の自分とは違う、無骨な男のものになっていた。


まだ、説明は続いていたが、急激な疲れによる眠気に襲われ、瞼が落ちてくる。イフもそれに気づいたのか、言葉を切り、手でベッドへ行くよう示した。ベッドに倒れこむと、シーツの色こそ違ったが、寝心地は変わらない。イフはどうするのだろう、とそちらをぼんやり見つめていると、すっと近寄っときて、手で柳の目をふさいだ。冷えた手が、熱い肌に心地よくて、柳はとろけるように眠りに落ちていった。


 翌朝、柳は桐の家の前をうろうろしていた。恋愛経験のない柳にとっては、なにをしたらいいのかわからない。ただ、会いたい一心だった。イフは他の人には見えないらしく、少し距離をとったところで浮いている。散歩をするふりをして、炎天下の中桐の家のまわりの一区画を回り続ける。


女の自分では、この暑さの中ではすぐ倒れてしまっただろうが、男の身体なら多少は持つ。ただ、会ってどうするのか、そんなところまで考えが及ばないのが悲しいところだった。


太陽が昇りきってお昼に近づいたころ、柳の背後で扉が開く音がした。振り返れば、ちょうど桐が家からでてくる。柳は走って近づき、ありったけの勇気を振り絞って声をだした。

「桐ちゃん」


いつものセーラー服とは違う、安っぽいTシャツに短パンというラフな格好の桐は、いつもに増して可愛らしくみえる。桐はすこし考えてから、ああ近所の、と思い出して挨拶をする。こんにちは、と元気な声に軽く会釈をして黒髪が揺れる。柳は震え声で挨拶を返したが、それ以降言葉が出てこずに沈黙して、ただ少女を見つめた。


「あの、どうかしましたか?」

短い沈黙だったが桐は耐えきれず、すこし訝しがりながら声をかける。柳はもうこらえきれなかった。自分と桐は男と女になったのだから今まで我慢して押し黙ってきた感情を伝えていいのだと。これで結ばれる、気持ち悪いと思われなくて済む。柳は今までしゃべれなかった分をしゃべるようにまくし立てた。


「桐ちゃんずっと前から好きでした。ずっと桐ちゃんのこと見てました。今の私なら桐ちゃんを幸せにできるから付き合ってください。」

柳は三分ほど一人で話していたが、要約するとこうだった。


ただ、柳は男と女の恋愛はわからなかったが、これはまずいことである。挙動不審の十九歳の男が、顔見知り程度の十三歳の少女に一方的に告白しているというのは立派な通報案件だ。もちろん、きちんとした段階を踏めば、いくつかの問題はあれど恋愛はできる。しかし、柳はその段階を大幅に踏み外した。


段々と桐の顔が引きつり、とうとうその指が防犯ブザーのひもを引き抜いた。あたりにけたたましい音が鳴り響き、玄関があいて母親らしき人物が現れる。状況を把握した母親は柳を気持ち悪いものを見るような目で見ていて、桐はおびえて母に抱きついている。ようやく自分がなにをしたのか分かった柳はしどろもどろに言い訳をするが、状況は悪化していく一方だ。


見かねたイフが背後から柳の口を塞いだ。

「もう帰りましょう。」

と言って、腕を柳の腰に回し抱き上げると、急な浮遊感が柳を襲う。一瞬目の前が真っ暗になり、次に見えたのは男の柳の部屋だった。

「あの……私……」

イフはなにも言わずに首を振る。口元はへの字にまがり、呆れたような顔をしていた。


好きな人を怖がらせてしまった。あんな顔をさせてしまった。柳はただ悲しくて俯いていた。しばらく考え込んでから、口を開く。

「多分、私は恋愛の仕方がわからないし、それなら同級生になっていっしょにいたい。」


この世界は完全に失敗だった。もうこの世界にはいられないと思い、おずおずと次の世界について切り出した。

「ただし、男で同級生というのはできませんよ。」

「いいんです。せめて友達になってそばにいられれば……。」

イフは、この嫉妬深そうな女がそれで我慢できるのか、と思ったが口にはださなかった。


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