第5話 彼女の話(消えた女)

 ある日彼女は居なくなった。何も残さずに。


 図書館になんて入ったのは、学生時代以来だった。遠方での得意先との打ち合わせが思ったより早く終わり、帰りの特急の時間までかなりあった。時間つぶしにカフェにでも入ろうかと思ったが、駅に併設されている自治体の複合施設内に図書館があると案内板で知り行ってみることにした。

 入り口正面に大きなカウンターがあった。カウター内には、職員がいて、前に立つ利用者と応対している。図書館の中はいくつかのコーナーに分かれているようで、俺は、新聞か雑誌でもみようと左手にある雑誌閲覧コーナーに向かった。その時、目の端にカウンター内にいるショートカットの女性が入った。

 ドクン、心臓が大きな音を立てた。

 彼女だった。

 2年前の電話を最後に、消息を絶った、付き合って8ヶ月の元カノ。

 コンナトコロニイタ。

 俺は、雑誌閲覧コーナーの方に進み、新聞を手に取ると、カウンターの彼女が見えるところに腰を掛け新聞を読むふりをして暫く彼女を観察した。

 背中半ばぐらいまで長かった髪は、ベリーショートとまでは行かないがかなり短くなっていた。

 彼女は前にいる中年の女性利用者と何か話していたが、その後、カウンターサイドのスペースに誘導し、そこにある椅子に掛けるように勧めているようだった。正面カウンターの左右は、低めのカウンターになっていて、椅子が2,3客それぞれおいてあり、利用者は座ってサービスを受けられるようになっているようである。

 彼女は、正面に座り、パソコンを操作しながら、相手の話を聞いている。女性も何やら新聞の切れ端を見せているようである。彼女は、頷きながらパソコンの操作を続け、何枚かの紙をプリントアウトした。そして、女性に何かを告げると席を立った。女性は、彼女の背中を期待を込めて見送っていた。3,4分後、彼女は戻ってきた。手には、5,6冊の本を抱えている。それを女性に見せながら何かを説明し、女性は、頷きながらそれを見ている。そして、何冊かを貸し出されお礼を言って帰って行った。彼女はそれを立ち上がって見送った後、再度着席し、パソコンに何かを打ち込んでいた。

 こんな職業に就く女だったのか…。

 10分足らずの事だが、ベテランの図書館司書のように見えた。髪型も違うし、他人の空似かも知れないと考え始めていた。もう1度顔を確かめようとカウンターをみると彼女は居なくなっていた。暫く待っても、カウンターには現れることはなく、俺も電車の時間が迫り始めていたので、駅に戻るために図書館を後にした。

 特急に乗り込み荷物を網棚に載せ、指定席に座ると俺は目を閉じた。そして2年前の彼女との事を思い出す。出会いは、飲み会だった。同じ会社に勤めている彼女と俺は、所属先が違うので会ったことはなかったが、合同の飲み会で偶然同じテーブルで隣に座ったことで知り合う事になった。

 その頃、俺は、4年付き合ったモト彼女と別れたばかりだった。学生時代からの付き合いで同い年のモト彼女は、25歳になることを目前に結婚を意識し始めていた。が、就職して3年の俺にはどうしようもない状況だった。せめて婚約して欲しい、駄目ならもう地元に帰ると選択を迫るモト彼女に俺は、別れる選択を取った。

 フリーになって半年、寂しさと開放感が交差する時期に彼女と出会ったのだ。合同の飲み会といっても、合コンではない、会社が主催する社員同士の親睦会のようなもなので、出席者は若い者ばかりではないし、異なる部署との情報交換が主な目的だ。もちろん独身者がお相手をみつけても構わない。この会社は、仕事に支障がでなければ社内恋愛には寛容だ。適当に座ったテーブルの隣席に彼女は居た。地味な物静かな容貌は特に気を引くものではなかった。アルコールは苦手らしく、ソフトドリンクを頼んでいた。座が進み始めると、テーブルを片付けたり、料理を取り分けたり、オーダーを通したり甲斐甲斐しく働いていた。それだけなら、そこで終わりだったはずだ。見た目だけでなく、何もかも自分の好みではなかったから。だが、店員にオーダーを通している彼女の横顔を見た時、心臓が跳ねた。決して華やかではないが、端正な顔立ち、カメオの彫刻のようだと思い目が離せなかった。

 その日はそれで終わった。その後、何度か社内で会ううちに、挨拶をするようになり、ランチを一緒し、夜飲みに行き、休日会うようになり、体の関係もできた。何がいけなかったんだろう。あの晩、スマホ越しに彼女の声を聞いて、それっきりだった。

 翌日の出張に備えて早めに風呂に入って寝ようとした時、22時、スマホが鳴った。みると彼女からだった。珍しいこともあるものだと思ったと同時に、間が悪いと舌打ちをした。

それでも、電話にでた。

『ごめんなさい、少し話せる?』

『俺、今から風呂に入ろうとしてるんだけど』

たいした用事でもないのに、俺の予定を乱すなと暗に思いを込め、苛つきながら返した。電話の向こうで息をのむような音がしたようだと思った途端電話は切れた。何だよと思ったがこちらから折り返すつもりはなかったし、実際しなかった。

 そして、予定通り翌木曜日から、一泊二日で出張に行き、週明け会社に出た。その間も彼女から連絡はなかった。たいした用事ではなかったんだろう、急ぐならまた連絡があるだろうと考えていた。その週、会社で彼女の姿を全く見かけなかった。もともと、部署が違うのでそうそう顔を合わせることはないのだが、それでも、週1,2回姿を見かける事ぐらいはある。しかし全く見かけないのは、付き合いだして初めてだった。

 なんだか、いやな気分だった。それがはっきりしたのは、社内のグループウェアで人事異動の情報を見た時だった。退職者の欄に彼女の名前が記載されていた。日付は、先週の金曜日。電話の翌々日だった。スマホをもって休憩スペースに行き、彼女に電話をしたが、

「この電話は現在使われておりません。」というアナウンスが返ってきた。メールをしようとしたが、聞いているメアドは、スマホのアドレスだ、電話が使われていないならメールも解約されている可能性が高い、それでもと思ってメールを出したが、宛先不明エラーでメールは返ってきた。俺は、彼女を完全に見失った。

 実際は、なりふり構わなければ、何とかなったのかも知れない。俺たちが付き合っているのは、口外していないので社内で知っている人間はいない。それでも、彼女の所属先で聞けば教えてくれるか、俺が連絡を欲しがっていることぐらいは伝えてくれるだろう。

だが、俺はそれをしなかった。彼女に対して憤りを感じていたからだ。

 何に? 何もかもに。大体可愛げのない女だった。滅多に向こうから連絡して来ない。たまにメールが来るぐらい。電話なんて、一度だって…。そうだ、あの電話が初めての電話だったのだ。よりによって初めての電話が最後の電話なんて、最低じゃないか。

 2週間後、俺は、またあの図書館に足を踏み入れた。客先との打ち合わせは順調に終わり、帰りの特急も前回より1本遅いものにした。ネットで図書館の開館時間、サービス内容などチェックした。ここは、駅と直結しているので、閉館時間は、20時となっている。サラリーマンでも立ち寄りやすくしているんだろう。図書館と言えば、夕方5時には終わるもんだと思っていたが、地方なのに遅くまで開いているんだと感心したりした。

 前回来た時は、雑誌閲覧コーナーしか見なかったが今日はゆっくりと館内を見て回る。

フロアの中央にすこし広めのスペースがあり、ソファがいくつか置かれ、特集展示がされていた。何気なく特集展示をみて、心臓が跳ねた。

 特集のテーマは、『土星の環が消える』とあった。これと同じ事を昔彼女から聞いた。

その時、俺はなんと言った?

「そんなことは、今まで聞いたことがない。」

「いえ、本当にあるんですよ。高校の時、天文部の観測会に参加させてもらって、望遠鏡でみて凄く感動して」

「記憶違いじゃないのか、環が無くなるなんて」

「そんなことないわ。ネットで調べればすぐにわかるけど本当に環が消える訳ではないのよ。」

「向きになるなよ、馬鹿馬鹿しい」

「…。」

あれはいつだった?別れるちょっと前か、いや付き合ってすぐだったような気もする。しつこく言い返してくるのが、その様が可愛げがなくてイライラした。

 特集展示は、この地方にある大学の研究機関内にある天文台とコラボし、図書館で大学の研究者による講演があり、その後、天文台で観測会を開くというものだった。併せて天文に関する本などが紹介されている。

 展示されいるパネルや、集められている本、−−CDもあった−−をみながら、彼女が俺の前から何も言わずに消えた訳がわかったような気がした。消えた訳そのものはわからないが、

彼女は俺に別れを告げるのも、その理由を言うのも辞めたのだ。それでも、一度は言おうとはしてくれたのだ。それが、最後の電話だったのだろう。でも俺は、それを知らずに拒否した。たった8ヶ月の交際期間だったが、俺は彼女の話を聞かなかったことはどれぐらいあったんだろう。土星の環は、一定の周期で消えてまた戻るが、彼女は二度と戻らない。

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