14回目の……


 南校舎B棟は空調が効いていて、中に入ると少し肌寒いくらい。


 ここは日常の学校生活から切り離されたように静かで、行き交う生徒もまばらだ。しかもみな足音にさえ気を配って、廊下をゆっくり踏みしめて歩いているようにも見える。


(う……なんかすっごい緊張するんですけど)


 今日も図書館の両開き扉は解放されたまま、受付カウンターの中には年配の女性司書さんがひとり。傍らに積み上げられた本を一つずつ手に取りながら、パソコンに向かっていた。


(さりげなくさりげなく。ブラッと本を選びに来たような感じで……)


 本当は司書さんに事情を話して返却する事も考えたけれど、あの時は監視カメラが壊れたところから逃げ出してしまった。やっぱりそれは言いづらい。


 あたしはトートバッグをギュッと握りしめて館内に足を踏み入れた。そしてカウンターの上にある小冊子をサッと一枚抜き取る。


(ここに中の案内図が……あった!)


 これは前に紫苑ちゃんに教えてもらった情報。図書館にはちゃんとこういう親切なモノが用意されていたのだ。


 あたしはその図を頼りに、近代作家の作品が収めてある一角を目指して右に左に本棚の迷路を進んでいく。


(もうちょっとだ。あの二番目の角を左に曲がった所が近代の)


 冊子とにらめっこしながらあたしは本棚の角を左に折れた。すると。


(えっ!?)


 わずかに覚えのある、近代作家の作品を収めた本棚の通路。その奥で、踏み台の上に座ってぼんやりと本棚を見上げている人がいる。


「虎汰く……」


 思わず漏れたあたしの声に、彼も驚いたようにこちらを見た。


「……夕愛」


 でもその目はすぐに冷めた色に戻り、また視線を本棚に移してしまう。

 

(な、なんでこんなトコにいるの!? だってとっくにみんなと帰ったはず)


 疑問と動悸があたしの中を駆け巡って大騒ぎしている。図書館では静かにしなきゃいけないのに。


「あ……あの、どうして? みんなとカラオケ行ったんじゃ」

「…………」


 虎汰くんは何も答えてくれない。その横顔は凛と澄んで、こんな時なのに思わず見とれてしまった。


「えと……、あたしは本を返しに。ほら、前に持ってきちゃったやつ」


 気まずい沈黙が流れる。それでも引き返すわけにもいかず、あたしはそろそろと虎汰くんの前の本棚に近づいて【ごんぎつね】を適当な場所へ押し込んだ。


 後ろに虎汰くんが居る。それだけでなんだか胸が苦しい。


「……そこじゃないよ。新美南吉の場所はそのひとつ上」

「えっ!? あ、ああ、ホントだ」


 よく見ると棚にはちゃんと作者名ごとのインデックスが挟んである。慌てて正しい場所に戻そうとしたけれど、後ろからスッと伸びた手が本を掴む方が早かった。


「あ……あり、がと……」


 あたしの真横で、虎汰くんが本をひとつ上の棚にしまってくれる。その長い指とやっぱり綺麗な横顔を息を飲んで見つめてしまう。


「ボク、カラオケ行くなんて一言も言ってないよ」


 見ていた横顔が本棚に向かったままつぶやいた。


「え? だ、だってさっき……」


 まてよ? 確かにカラオケかって聞いたのは紫苑ちゃんだった。でもその後、一緒に行く?って。


「誘われたけどね、断った」


 あたしには目もくれず、彼はまた後ろの踏み台にストンと腰を下ろす。


「でも虎汰くん。先に帰れって言ったじゃない。夜も遅くなるって」

「…………」


 またダンマリを決め込んだかと思ったら、虎汰くんはふいに目を上げてニッコリ微笑んだ。


「もう本は返したでしょ? 早く戻りな、己龍が心配する」

「…………」


 今度はこちらが二の句を告げなくなる。だってこの笑い方は絶対ちがう。


(これは拒否だ。これ以上立ち入って来るなって)


 なんだか哀しい。なんだか寂しい。どうしてこんな事になっちゃったんだろう。


 あたしは『早くここからいなくなれ』という虎汰くんの意志に反し、彼の横に並んでチョコンと体育座りした。


「……なにやってんの夕愛」

「あたしにもわかんない……」

「バカなの?」

「わかんない……」


 ぎゅっと膝を抱えて、虎汰くんと同じように前の本棚を見つめる。

 ほんのり甘くて埃っぽいような古い本特有の匂い。それが黙り込んだあたしたちを取り巻いて、静かに満たしていく。


 やがて疲れたようなため息があたしの頭上に小さく降り注いだ。


「昼間はここで時間つぶして、夜は誰でもいいから空いてる人をつかまえるつもりだった。みんなメールひとつでどこにでも喜んで迎えに来てくれるよ」


 ざわっと肌にイヤな寒気が走る。迎えに来るって事はたぶん車で、ラブミー関係のお姉さんたちに違いない。


「なんで……そんな。虎汰くん最近おかしいよ」


 抱えた膝に思わずそうこぼしてしまった。

 だって本当におかしい。こんな図書館でこっそり時間をつぶして、夜だってあてがあるわけじゃなく『誰でもいい』なんて。


(これじゃまるで、あたしを避けてるみたい)

「おかしいのは、夕愛だよ」


 その返答にあたしは目を瞬かせて隣を見上げた。


「あたし……?」

「そうだよ。いまだにボクのしっぽ掴んで抱き上げようとしたり」


 こちらを見ようとしない横顔が、少しだけ口ごもる。


「……ちょっと突き放すとすぐさっきみたいな目をする。今にも泣きだしそうな、迷子の子供みたいな」

(さっきって……、あっ!)


 教室で虎汰くんに面倒事と言われた時の事を思い出して、あたしはパッと両手で頬を押さえた。

 確かにあの時はすごくショックで泣きたくなったけど、そんなに顔に出ていたなんて。


「もうそういうの、マジで勘弁してよ」

「だって……ホントに悲しかったんだもん。それに白虎の虎汰くんモフモフだから抱っこしたい。ダメなの?」

「ダメに決まってるじゃん。そんなの見たら己龍だっていい気しないだろ」

「……!」


 ようやくこっちを見てくれたけど、虎汰くんは本当に疲れたような表情をしている。

 もしかして、急に距離を置くようになったのはそれが理由?


「夕愛は己龍を選んだ。今までと同じってわけにはいかないよ。ボクだってさすがにわきまえる。なのに夕愛がそれじゃ」

「ま、待って。でもあたし、己龍くんの事」


 好きだけど。

 彼は本当にカッコ良くて可愛い所もあって、あたしを大事に想ってくれているけど……でも。


「己龍の事、なに? あのさ、おかしな気遣いは要らないよ? もともと己龍にはアンフェアもアリって言ってあったし」


 違う、そうじゃない。

 同情とか、そんなおこがましい気持ちなんかあたしの中にはない。


「ボクはさ、自分でもけっこうビックリなんだけど」


 虎汰くんがふんわりと、でも少し寂しげに笑った。


「夕愛が嬉しそうに笑っていられるなら。たとえそれがボクじゃないヤツの傍でもかまわない。まして相手が己龍なら」

「違う……!」


 湧き上がる想いをこぼして小さく頭を振る。

 今あたしの中にあるのは、このままじゃ虎汰くんがどこかに行ってしまう、その怖さだけ。


「夕愛……?」


 白虎の時はフカフカで、ここなちゃんの時は女の子よりも可愛くて、小悪魔の時は意地悪だったり優しかったり振り回されてばかりだけど。


「違うの……待ってよ、己龍くんじゃない……」


 この人の言葉ひとつ、視線ひとつに翻弄されて。本気か嘘かもわからない口説き文句に胸を甘く焦がされて。

 全部の虎汰くんが、いつの間にかあたしを捉えて離さない。


「……あたし、虎汰くんが好きなの」


 図書館の通路に浮かんだ、14回目の告白。


 虎汰くんのオリーブの瞳が、まばたきもせずに大きく見開かれた。




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