第四章回答編
真犯人「三人称」
兄の祐介に電話をかけた数分前、玲奈はスカートの隙間に入り込んでくる肌寒い風に身体が我慢できず、目を覚ました。
普段から寝起きのいい彼女でも今回ばかりは最悪の目覚めだった。玲奈は、起きた瞬間に円周率を三十桁くらいまでスラスラと暗唱することが可能なほど寝起きでも頭が冴えているのに、頭を殴られ気絶させられたあとならそれもままらなかった。
なぜ彼女はこうなったのか。
家を出ていった後、玲奈は真犯人である人物と約束していた場所に向かったのだが、着いてみたらそこには誰もいなかった。それで仕方なく、防寒具を持ってくればよかったと身体を縮こまらせながら建物の中で犯人を待っていると、小さな足音とともに急に後頭部へ激痛が走り、誰にやられたのか目視できないままばたりと倒れてしまったのだ。
ああ、頭が痛い――。
あれからどのくらいの時間が経過したかわからないが、激痛はまだまだ収まっていなかった。頭の中はぐらんぐらんと変な音が響いていて、乗り物酔いとは比べ物にならないほどの吐き気もする。後頭部から血が出ていてもおかしくないほどの重症だった。
しかし痛いからといって子供みたいに泣きわめくわけにもいかない。床に倒れている玲奈は、まず立ち上がるため腕を動かそうと肩に力を入れる。
「んっ……」
後ろに回っている両腕は動かない。それに、両足も動かなかった……。
そこでようやく玲奈は自分の手首と足首をぎっちりと紐のようなもので縛られているのを感じ取った。
自分の絶望的な立場を理解して鉄仮面だった顔を少し壊す。玲奈は監禁されているのだ。祐介に一人でも大丈夫と豪語していたのにもかかわらず、気絶させられ、ここまで運ばれて、四肢を縛られ自由を失って。
なんと情けないことなのだろう。やけに埃っぽい床の溝を眺めながら、玲奈はつい無表情を壊し笑みを作ってしまう。
笑えるような状況ではないというのに、しかしそうなるのには理由があった。
よし。まだ私の作戦通りだ――。
彼女はこう思っていた。今はまだ順調に事が運んでいるので、笑うしかなかったのだ。
だからこそそれを顔に出してはいけない――。
こみ上げてくる感情を我慢して、玲奈は冷静に状況を細かく整理することにした。幸運にも自分を拉致した人物は目隠しをせず拘束してくれたので、その厚意に感謝しながら周りを見ることにする。
するとすぐ側から物音とともに。
「やっと目が覚めたのね」
女性の声が聞こえた。正面を向くと、スマートフォンの明かりに照らされた、佐々木明菜を殺した真犯人の鋭い目が見えた。彼女は自由な両足で立ちながら、床に倒れている玲奈を見下ろしている。
「頭の方は大丈夫? ちょっと強くしすぎたかしら?」
彼女は、気絶させる時に使ったであろう頑丈そうな木の棒を見せつけてくる。優越感を浮かばせた表情のまま、中学生に冷笑を向けていた。
「ええ。おかげさまで吐きそうなほど気持ち悪いです。さっきから頭のズキズキが止まらないし、まだハンカチにクロロホルムを染み込ませて気絶させられるほうがマシでした。まああの方法に即効性があるかといわれたら微妙ですけど……」
「ふふ。その状態で呑気におしゃべりできる元気はあるみたいね。ここがどこかもわからないのに、大した度胸だわ」
年齢も立場も状況も玲奈より上にいる彼女が、感心したようにそう言った。
「手足を縛られて携帯電話を取り出すことができないので、今が何時だか教えていただけませんか?」
見上げる形で玲奈が質問する。まるで生徒と教師の関係のように。
「だいたい十八時よ。あなたが気を失ってから三十分くらいたったのかしら」
「そうですか。ありがとうございます」その瞬間の玲奈の声には一切の抑揚がなかった。
「残念ね。携帯電話で助けを呼ぶことはできないわよ。ほら、あなたのは私が持っているんだから」
左手に持った玲奈の携帯電話を彼女は窓の外に放り投げる。そしてまたニヤリと笑った。
「これでもう誰も来ないわね」
「こんな暗いところであなたのスマートフォンの光が灯っていたら誰かが気付くと思いますけど?」
彼女は鼻で笑った。
「生憎だけどそんな希望は抱かないことよ。ここは新宿のど真ん中なんかじゃないから、人なんか数時間に一人くらいしか通らないの」
玲奈は窓の外を見た。確かに通行人どころか何かが動いているような気配すらない。誰かが光に気づいて警察に通報してくれる、なんて都合のいいことは起こりそうもなかった。
「可哀想ね。どこかもわからないところに連れてこられて、そしてそのまま悲しくお別れなんて――」
「私、絵を描くのが趣味なんです」
侮蔑と哀れみの混ざった彼女の言葉を遮るように玲奈は声を被せた。しかも今の状況と全く関係のない話題で。
「……どういうことかしら?」
これには彼女も面を食らった。弱い立場にいるはずの中学生が、顔に笑みを浮かべて話しかけてきたのだから。
玲奈は、そんな疑惑の表情を浮かべる犯人の顔を見ながら後ろ手でどうにか指を動かし、そして数秒間黙った後に自分語りを始めた。
「週に二度か三度、日が暮れるまで外を歩き回っては東京の様々なところを写真に収めているんです。それで、それを見ながら絵を描いているのですが……、実は趣味以外にも絵を書く理由があったんです」
「なんなの?」
勝手に話題を変えた玲奈に怒りを覚えながら、彼女は中学生の話に合わせた。
「それは……。例えばここの廃校になった足立区立千寿梅小学校の跡地を特定できるように、東京の地理を完璧に把握するためでもあったんです」
「なっ……!?」
彼女の目が大きく開く。初めて見せる心の乱れだった。
中学生探偵は、驚きの言葉を発したあとなにも言ってこない犯人を置き去りにして口を開き続ける。
「簡単なことです。まずここが廃校舎の教室の中であることは目を覚ました時に見た光景のおかげですぐに分かりました。あなたの奥にある薄暗い緑の板、よく掲示板に使われているボードが設置された壁、暗くてあまり見えませんでしたがトラバーチン模様の天井、今の私とあなたの関係のように生徒が教師を仰ぎ見させることを目的とした教壇、これらを見れば小学生でもここが学校の教室であることを理解できます。次にここが廃校舎であるということはもっと単純です。カビの匂い、埃の匂い、呼吸をするだけで舞い上がる砂けむり、壁には蜘蛛の巣、割れた窓ガラス、掲示板には一枚も掲示物が貼られていない、カーテンがない、椅子がない、机がない、教卓がない……、まだまだたくさんありますがこれだけでも充分ですよね。
最後にこの廃校舎の正確な位置を把握できた理由についてですが、ようやく絵を描くために歩き回っていた経験が役に立ちました。あなたが教えてくれた三十分――実際には私を運んだりする時間を引いて二十分ほどでしょうか――で移動できる距離というのは、車を使ったとしても東京都内である可能性が高いということが分かります。それを前提にヒントを集めてみるため耳を澄ますと、静かな水の流れる音、近くを通る電車の音、サード、セカンドと野球をしている人の声、もう夜も遅い時間なのに聞こえる甲高い子どもたちの声が聞こえてきました。よって近くには川が、電車のレールが、グランドが、安全な児童公園がある……。それだけ分かれば後は簡単な推理をするだけです。東京都内では十五ほどの廃校になった校舎の跡地がありますが、これだけの要素が周りに存在するところは二つしかありません。そして、工場から香る独特の油っぽい臭いが全くしないことを考慮すると、答えは一つで足立区立千寿梅小学校の跡地だったというわけです」
玲奈の言葉は犯人の動揺を誘うのに効果的だった。今まで勝ち誇った顔を向けていた彼女の表情にも靄がかかり、目の前に倒れている中学生に対しての賤しめが消えていた。
「さすが閉成中学の生徒ね」彼女はゆっくりと、本心から賞賛の言葉を送った。「本当に賢いわ。あの時は社会見学なんて言ってたけど、やっぱり警察に協力する探偵のようなものだったのね」
「はい」玲奈も本心から自分の立場を認めた。「ですが、そんな私でも唯一わからないことがあります」
「それは私に分かることかしら?」
「あなたにしか分かりません」玲奈はここで間を置いて、続けた。「なぜあなたは私を気絶させて、こんなところに監禁しているのですか……?
佐藤由紀恵先生」
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