佐藤由紀恵
殺人現場に数名の警官を残し、俺と玲奈と晋三さんと志村巡査部長は部室の外に出ていた。雨の音は体育館の中まで聞こえてくる。今日は土砂降りだ。
しかし視界から惨たらしい女子生徒の死体が消えて気分も軽くなってきた気がした。夏のじめじめして暑苦しい屋外から、クーラーの効いた市立図書館の中に入ったときのようだった。
晋三さんが志村巡査部長と話している間、玲奈はぼおっと交通安全のポスターを眺めていた。
「ほら見て兄さん。警察のマスコットキャラクターが交通安全を呼びかけているポスターはよく目にするけど、これは実際の事故現場を描写しているようだよ。なかなかリアリティがあって交通事故の緊迫した雰囲気が伝わってくる。いったい誰がこの絵を描いたんだろう」と死体を見た後とは思えないほどのんびりとしている。探偵活動を長くしているらしい妹は、すでに死体を見ることに慣れてしまったのだろうか。俺は聞いてみた。
「慣れているわけじゃないよ。今だって制服の下じゃ変な汗がだらだら流れて気持ち悪いし……。だけど捜査に協力しているのなら遺体を見て取り乱すわけにもいかないの。私のやるべきことは被害者のために犯人を見つけ出すことなんだからそれを全うしないと。だから……、決して慣れているわけじゃないの」
玲奈は自分自身にも言い聞かせるように二度も念を押して言った。どこか寂しそうに視線を逸らす妹を見て、俺はそれ以上口を出すことをやめた。
すると、話を終えた晋三さんが近づいてきた。その後ろで志村巡査部長が体育館の出口に向かっていくのが見えた。
「志村巡査部長は詳細な取り調べは私たちが来るまで待っていたそうだ。もう夜も遅くなってきたし、学生である二人の尋問を早く終わらせないと。彼女たちの両親になんて言われるかわからない」
殺人現場の隣部屋からは女の子のすすり泣く声と、それをあやそうとしている声が一緒になって聞こえてくる。被害者と無関係の俺ですらあそこまで動揺したのだ。同じ学校で生活していた彼女たちの抱くショックはとてもじゃなく大きいだろう。
「第一発見者の女子生徒はさっきからずっとあの調子ですので先に教師からお話を伺ったほうがいいです。女子生徒の二人には両親に連絡をいれるよう言ってありますので少し遅くなっても問題ないかと。それと取り調べをする部屋はさらに奥の部屋を使ってくださいだそうです」
「そうか。では教師を連れてきてくれ」
命令に従った警官が、殺人現場の隣の部室から女性教師を連れてきた。黒いワンピースを纏ったその人は、これまでに多くの男性を魅了してきたのだろうと感じさせるほど存在感があった。化粧を施した顔にもそれが表れている。おばちゃん先生しかいない俺の学校とは大違いだ。
彼女の名前は佐藤由紀恵といった。志村巡査部長の簡単な尋問によると、彼女はこの学校の英語教師で、被害者とはバスケ部の顧問と生徒の関係があるそうだ。死体を発見したうちの一人である。
「それで佐藤先生、もしかしたらすでに聞かれていることかもしれませんが、もう一度佐々木さんの遺体を発見するまでの経緯を話していただけませんか」
早速取り調べを始める。
その前に彼女は俺たちのことについて疑問を呈してきた。たしかに取り調べ室に学生が二人もいたら不審に思うだろう。これは後から聞いたことなのだが、玲奈が閉成中学の制服を着たまま取り調べを行うのには相手に第一印象で下に見られないようにするという理由があってのことだそうだ。普通の中学生なら舐められるが閉成中学の生徒と言うと対応が変わる人間もいるらしい。
佐藤由紀恵先生もその一人だった。玲奈が「学校の社会見学です」と言うと、快く理解してくれた。
「それで質問のほうに戻るんですけど……。歩美さん……えっと、隣の部屋でずっと泣いている女子生徒です。あの子が忘れ物をしたということだったのですが、部室の鍵がまだ私の机に返されていなかったので、誰かが泊まっているんだろうかと思い注意するために部室に向かったんです。体育館に着くと二人で部室の前まで行き、そして歩美さんがドアに鍵がかかっていないと言ってそのままドアを開けたんです。そしたら……部屋の中から変な匂いがしたんです。それでちょっと前に進んだら……」
「佐々木さんの死体を発見したということですね」
彼女は頷いた。
「その証言に間違いはありませんか?」
「間違いありません。それで私が警察に通報したんです。歩美さん、明菜のあの姿を見た途端パニックになって倒れちゃって……。その後は彼女を部室の外に連れていき警察のみなさんが来るまで廊下で待っていたんです」
「その間になにも動かしたりしていませんね?」強めの口調で確認する。
「はい……。おそらく何もしていないかと……。あの時は私も気が動転していてよく思い出せないんです」
「そうですか。それでは佐藤先生はその時になにか気づいたことはありませんか? 例えば見知らぬ人影を見たとかなにか音を聞いたとか」
「なにも怪しいものはありませんでした。それにこの雨だと小さな物音も聞こえません……」
晋三さんは手帳を見ながら頷いていた。どうやら志村巡査部長の取り調べと話の流れは異なっていないようだった。
「被害者はバスケットボール部に所属していたようですが、顧問として彼女の身の周りのことについてなにか知っておりますか?」
「えっと……、なにかとはなんです?」
「つまり、彼女を殺す動機のある人間がいるのかということとかです」
「それは……、んん……」
とても困惑しているような顔で佐藤先生は首を傾ける。左手の薬指にはめた結婚指輪を撫でながら、今の質問に対してどう答えるべきなのか考えているようだった。
「いない……とは言い切れないです。刑事さんの前だから正直に言いますけど、明菜は人の言うことを聞かないし口が悪いので多くの敵を作る子でした。だけどそれがあの子を殺す動機になるのかどうかはとても怪しいんです……」
「ほほう。それはどういうことです」
晋三さんが身体を前に寄せる。
「いつも誰かとケンカばかりしているんです。校内だけじゃなく別の高校の生徒とも……。バスケ部の顧問である私はいつもそのことについて困っているんです。あの子、教師である私たちの注意なんて全く聞かなくて、この前も明菜の担任の先生からは宿題を出さないあの子を叱っておいてくれと頼まれたんですよ!」
「そうですか」
徐々に声のボリュームが大きくなりだした彼女の話を、晋三さんはそっけなく流す。
「ではその中で殺人に発展するかもしれないいざこざは本当になかったんですね?」
「どうだろう。どれも子供の喧嘩のようなものですので……、うーん……、あっ!」
佐藤先生は、なにか思い出したように目だけを斜め上に動かしてポンと小さく手を打った。
「一つありました。二ヶ月ほど前でしょうか、あの子とここの女子生徒が大喧嘩をした日があったんです。理由は……、その女子生徒の彼氏と明菜が秘密に付き合っていたということでした」
「ほほう」
晋三さんの目が輝き出し、彼の声に熱がこもり始めた。
「その女子生徒について詳しいことを教えてもらえないでしょうか」
「はい。三年三組の
「明菜さんは左手の薬指に指輪をつけていますよね。それがその喧嘩と関係があると思いますか?」
「指輪にはなにか秘密があるそうですよ。見せてもらったことはないんですけど、おそらくその男子生徒の名前が刻まれているんじゃないでしょうか。それを綾さんが気づき喧嘩に発展したんじゃないかと」
「その男子生徒の名前も教えていただけますか」
「三年二組の
晋三さんは熱心にボールペンを走らせる。
「喧嘩の内容はわかりますかね? さすがに殴り合いなんてことはないと思いますけど」
「口喧嘩くらいしか分かりません。私も生徒から聞いた程度ですので」
「そうですか」
「でも、その程度の事が原因で殺人までするのでしょうか。もし明菜と遠藤さんの立場が逆ならあり得たかもですけど……。あの遠藤さんがそんなこと……」
それはつまり被害者の方が彼氏を取られた場合、遺体として引き取られた彼女が犯人になっていたかもしれないということなのだろうか。とても気になるところではあったが、そのことを質問する勇気はなくじっとしたまま黙る。
「それは捜査をして決めます」
晋三さんは椅子に深く座り直し玲奈の方を向く。妹はなにも聞くことないと言ったように首を振る。
「えっと」再び晋三さんの体勢が前のめりになる。「あのメガネケースはバスケットボール部のものではないと仰っていたようですがそれは本当ですか?」
「はい。バスケ部のグループラインに連絡を入れましたらみんな違うと言いました。それだけでは信じてもらえないでしょうが、私は生徒たちを信じたいです」
彼女は自身を持って言った。その表情には本気で生徒を信じているような覚悟があった。
「なるほど。では今日はバスケットボール部の活動が終わった後はなにをしていたんですか?」
しかしこの質問をされたとたんに佐藤先生の表情から明るさが失われた。
「それって私も容疑者の一人ということですか?」
「これは通常の手続きです」
晋三さんは短く答えた。
「え、えっと……、その……、はい……」
由紀恵先生は急に歯切れが悪くなる。視線を泳がしどこかよそよそしい。
「どうかしたのですか?」
信三さんは丁寧に彼女を急かした。
「は、はい……、言います……。部活が終わった後、十八時十五分ころから明菜と話をしたんです。例の宿題を出さないことについて注意しようと。だけど今日は居残り勉強会があったので十分くらいで終わりました。その後はすぐに校舎へ戻って、それからはずっとそこに……」
言い終わるころには、彼女は顔色を隠すように下を向いていた。この証言は彼女にとってマイナスであることを俺は理解できたので、彼女の態度にも納得ができる。
「ではあなたは被害者と十分間だけ二人きりの状態でいたということですか?」
容赦なく質問を投げつける。
「そうです、けどっ……!」
うつむいていた彼女が急に机を叩きつけて、その場に立ち上がった。
「ですが私はあの子を殺していません! 注意していた時もあの子はずっとスマートフォンを見ていました。私の話を聞かないで……。その後も誰かとやり取りをしていたはずです。だからスマホの中身をきちんと調べてください! 警察ならメッセージ履歴を見ることができますよね。だからそれを調べてください! 私は殺してなんていない!」
最後の方は部屋全体に響く金切り声なっていた。彼女の身体はとても震えている。自分の言葉が自身の首を締めていることに耐えられない様子だった。
「落ちついて。まだ可能性の話をしただけです」
晋三さんは困ったようにまあまあと手を前に出して由紀恵先生は落ち着かせようとする。彼女は小さくすすり泣きながら顔を伏せていた。
自分も彼女の立場になったらあれだけ取り乱すのだろうか。おそらくそうだろう。
数分経った後、先生は自分で気を落ち着かせてゆったりと席につく。涙のせいでメイクが不自然になっていた。
「す、すみません……。自分が疑われていると思うとどうしたらいいのかわからなくて……」
「はい。……ではその時に被害者が誰とメッセージのやり取りをしていたか目撃しましたか?」
「そこまでは見ていませんで。ただ、それは履歴を見れば分かることだと思います……」
彼女はそれを続けた。そうすることででしか自分の潔白を証明できないと思っているようだった。
数分の間をおいて、もう聞くことはないと晋三さんは尋問を終えた。最後にもう一度「一応」と念を押して住所と電話番号を聞いていた。その間、玲奈はずっとつまらなそうに部室の壁を眺めていた。
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