柴倉玲奈の事件簿

矢内恭介

バスケ部殺人事件

プロローグ「三人称」

 正直に言うと河野歩美かわのあゆみは、控えめのナチュラルメイクを施した顔に生暖かい雨雫がポツポツ落ちていることすら全く気にならないほど、数時間前の出来事に心を奪われていた。

 今日の天気予報では一日中晴れだと予想されていた。そのためか、生徒玄関には部活や居残り勉強会を終えた生徒たちの群れができている。傘を用意してこなかった彼らは曇り空を睨みながら、これからどのようにして頭を濡らさずに帰れるのかを考えているようだ。

 その大群の中を歩美は器用に避けて職員室まで足を進める。上履きを履いていなかったため廊下の湿気に滑って転びそうになったが、女子バスケットボール部で鍛えた足腰のおかげでなんとか踏みとどまることができた。


「失礼します。女バスの部室の鍵を借りにきました」


 ガタンと大きな音をたてて扉を開けると、教師たちの疲れ切ったよぼよぼな顔が一斉に向けられた。まだ新学期が始まって数日しか経過していないため、彼らも残業が多く疲労が溜まっている。新しい環境に移るのは生徒たちだけでなく彼らも同じということだ。


(いけない、ちょっと大きな声出しすぎちゃった……)


 浮ついた気持ちを落ち着かせ、歩美は静かな足どりで目的の鍵が保管されてあるところまで歩いていった。生徒玄関側の入り口から入室して右向け右。それからまっすぐに進んで四つめの机に、女子バスケットボール部顧問である佐藤由紀恵さとうゆきえの席があった。


「由紀恵先生。部室の鍵を借りにきました」


 今度は本人にだけ聞こえるボリュームで、歩美は上半身を前に出しながら言った。


「歩美さん。職員室では静かにしてよ」


 由紀恵は積まれた書類の束から目をそらし、職員用椅子の背もたれに背中を預けて歩美のいる方向に半回転して身体を向けた。

 栗色のボブヘアがゆらりと揺れて、そこからはっきりと香水のきつい匂いが歩美の鼻に届く。直接本人にこのことを言うつもりはないが、タバコの臭いを隠すため香水をつけすぎるのは逆効果なんじゃないかと歩美は思っている。

 由紀恵の服装は黒いワンピースで、教師のわりにはおしゃれしすぎだが全体的に上品な印象を感じられる。どこのブランドかわからないが生地が高そうだから高級品なのだろう。財布からなにまでトミーヒルフィガーで揃えている歩美にはそれ以上の興味が湧いてこなかった。

 歩美は右手を頭の後ろに乗せながら。「あはは……」と笑って誤魔化す。


「それで、なんで部室に行くの? ……まあ、あなたのことだから理由は何となく分かるけども」

「えへへ、お弁当箱を忘れちゃいまして」

「だと思った」


 はあっと由紀恵はため息をつき、面倒くさげに机の引き出しの中を調べる。歩美は二年生に進級してからすでに四回もお弁当箱を部室に忘れているので、由紀恵がこう冷たい態度を取っても反省するしかできない。


「私もそろそろ帰りたいから早く戻ってきてよ。……て、あれ? 鍵、はどこかしら……?」


 由紀恵が困ったように引き出しの中をもう一度念入りに調べる。歩美がそうっと顔を前に出すと、引き出しの中は資料やファイルがきっちり収納されていた。小テストの解答用紙はないものかと期待していたが、そんなものは何ひとつなく、歩美は口を尖らせた。

「困ったわね……」どうやら部室の鍵が見つからないようで、探すのを諦めた彼女は右手の親指をこめかみに当てて小さく唸る。


「まーた誰かが部室に遅くまで残って遊んでいるようだわ。しょうがない、これは説教よ。歩美さん、私も行くわ。すぐ帰りの支度を済ませるから職員室の前で待ってて」

「あ、え……。あ、はい……?」

(え……、嘘でしょ。説教始まっちゃうよ……)


 歩美は、心の中でぶつぶつ言いながら職員室を出ていった。どうやら自分の帰りが遅くなってしまうだろう未来を悟ったようだ。ついでに雨が降っていることも今になって気がついた。

 校門前に、親友の武藤紗佳むとうさやかを待たせていた。彼女の大きなカバンの中には常に折りたたみ式の傘が入っているので雨に濡れることはないと思うが、この天気のなかずっと待たせてしまうのは気が引ける。

 英語教師の佐藤由紀恵は二十六歳という年齢のわりに古臭い熱血的な部分がある。授業では寝ている生徒がいると教科書を閉じて説教を始め、廊下を走る生徒がいるようならば校内放送を使ってやっぱり説教をする。つまり彼女の説教は関係ない者たちまでも被害にあうのだ。

 そのくせ上品で大人っぽいルックスは生徒たち――とくに男子生徒――から好かれていて、学園祭では教師なのに学生人気投票でランクインするくらい人気者だ。左手の薬指には数年前に結婚した旦那との結婚指輪があるが、それを認めていない一部の生徒もいたりする。

 はあ、と溜息を吐き、歩美は紗佳に一人で先に帰っておいてとスマートフォンでメッセージを送っておいた。


「やだ、こんなに降ってるの……」


 体育館に続く渡り廊下を歩いていると、空を見ながら由紀恵がうんざりしたような顔で言った。こっちはあんたの説教で居残りさせられることにうんざりするっての、と歩美は心の中で呟いた。

 二人は体育館の入口までやってきた。すでに部活の活動時間が過ぎているので体育館の中は不気味なほど真っ暗である。

 照明をつけて左側に部室が並ぶ廊下を二人で歩いていく。女子バスケットボール部の部室は奥側にある。


「あれ、部室の電気が点いていませんよ」歩美が指をさして言った。

「おかしいわ。それなら誰かが鍵を持って帰っちゃったのかしら」


 歩美は、そうありませんようにと祈った。由紀恵の説教を回避することができるのは嬉しいことだが、お弁当箱を忘れたまま帰っても母親に説教される。それに四月といえども一晩中放置しておいたらお弁当の中身が腐ってしまう。歩美は大嫌いな人参を残してしまっていた。

 部室の前につき、開いてくれよと念じながら歩美はドアノブを握りしめる。


「よかった。鍵はかかっていないみたいですね」


 がちゃんとドアノブを回し開ける。部屋の中は暗く静まっていた。


「ん……、真っ暗だ」


 歩美は入口付近の壁に設置された照明用スイッチを押した。しかし部室の中は暗闇のまま変わらない。

 彼女は、何日か前に誰かが照明用のスイッチを壊したせいで使えなくなったのを思い出した。スイッチが直るまでは体育館担当の教師から借りた照明用リモコンで部室の電源を切り替えている。


(いったい誰よ。スイッチを壊したやつは!)

「えっと……、リモコンはどこだっけな?」

「ねえ歩美さん。なんか変な匂いしない……?」


 リモコンを探そうとした歩美の後ろで、部室の中に入ってきた由紀恵が顔をしかめながら言った。

 歩美も鼻を使って嗅覚を働かせる。たしかに部室の中は不快な匂いが漂っていた。部活の後に香る汗と制汗剤が混ざった独特の匂いとは違い、冷蔵庫の中に何日も放置していた食肉と同じような、鼻をつまみたくなる刺激臭だった。


「あれ……。あそこ、誰かいませんか?」


 歩美が指をさした方向に人影があった。椅子に座っているようだが薄暗い部室の中では顔がよく見えない。


「きっと部室に泊まろうとしているのね。ったく……、ほらっ、寝てないで起きなさ――」


 ドアを全開に開き、由紀恵はずかずかと部室の中に入っていった。しかし数歩だけ前に進むと、彼女の身体が一瞬にして石のように硬まってしまった。


「先生、どうしたんですか……?」


 由紀恵は目を大きく見開いて立ち尽くしている。みるみる顔色が悪くなっていった。


「先生?」


 歩美は、立ち尽くす教師に近づいて尋ねた。


「あ、あれ……」


 由紀恵は震えた腕を上げて人影の方を指さす。

 最近ツイッターのしすぎで視力が悪くなってきた歩美には、まだ椅子に座る人物の顔がよく見えなかった。だから入口から遠くにある引き出し付き収納棚の中から照明用リモコンを取り出して電気をつける。


「ひいっ!」


 思わずそう叫んでしまった。すぐさま由紀恵よりも濃く歩美の顔が真っ青になっていく。

お弁当箱を取りにきただけの彼女の目の前で、非現実的な光景が広がっていた。つい何時間前までは生きていた女子生徒が、大きく目を開き真上を向いてぐったりとパイプ椅子に置かれていた。


「あ、明菜……、先輩……」


 歩美は全身の力が抜けているような気がした。たまに見るミステリードラマに出てくる、死体を発見した時の女の子のような大声が出てこなかった。金縛りにあったように身体が硬直している。


「まさか……、死んでるの……?」

「せ、先生……」


 歩美の目には大量の涙が溜まっていた。ガタガタと奥歯が震えている。

 もう頭の中が真っ白だ。数時間前、大好きな樋口先輩に告白して成功した記憶なんて遥か彼方にまで飛んでいる。


「うっく……」


 硬直の次に襲ってきたのは強烈な吐き気と、貧血を起こしたときのような全身の倦怠感だった。膝が崩れるように脱力して。


「と、とりあえず警察に通報しないと……」


 由紀恵が携帯電話を取り出した瞬間、歩美はばたりと倒れた。

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