第2話 第一章 初めての海外旅行 1-1 福岡空港

 2021年12月28日火曜日午前8時半、とうとうやってきた出発当日の朝だ。福岡市立アイシティ特殊高等学校1年、稲田広志いなだひろしは、生まれて初めての海外旅行が「大安」にあたり、なんだか世界が彼を祝福してくれているかのような気分になりウキウキとして玄関を出た。


 日本海側の福岡では、冬は雲に覆われていることが多い。

 しかし、今日は珍しく雲ひとつ無い快晴であることも彼の高揚感を助長しているのであろう。


 玄関まで見送りに出てきていた母方の祖母、武田綾たけだあやが「広志パスポートはちゃんと首から提げているわね。元春もとはるさん、くれぐれも広志から目を離さないでね」と念押しすると。


「お義母さん。広志は、もう大人ですから、少しは信用してあげてください。では行ってきますね」


 そう、広志は、小中学校とで絶えずトップ争いをしていたので家族全員から信用がなかった。

 そして、父親の稲田元春だけが、寮生活を始めた広志を大人扱いしていこうとしているのだ。


「早く行かないと電車に遅れるよ。じゃあ綾バァちゃん行って来ます」

 広志は、父が海外旅行に誘ってくれたことを心の内で感謝し、高揚感10%、照れ隠し20%で、30%分ほど赤くなった顔を隠すようにサッサと玄関を出る。


 福岡市東区の人工島アイランドシティーに、昨年、建設された24階建てのビクトリアビル。そこの24階のペントハウスに広志たちは住んでいる。

 この部屋の持ち主は、新エネルギー開発で急成長を遂げているアメリカのベンチャー企業ビクトリア、そこの主任研究者である稲田盛夫は、元春の実弟である。

 そして、ビクトリアのシアトル研究所に勤務していて滅多に日本に帰ってこない盛夫が、僅かばかりの賃料でこのペントハウスを元春に貸しているのだ。


 居住者専用エレベーターの側面には大きな鏡が付いていて、そこには今、元春と広志のふたりだけが映っている。

 現在、陸上自衛隊第四師団所属となっている元春は、もともとは農水省に勤務していたが、8年前の省庁間配置転換の際、防衛省を希望し、かなえられた。


 元春は紺のスーツ姿だ。一見無地なようだが、折り目だけで薄いストライプ柄が入っている元春のお気に入りだ。

 元春は休日でもキチンとした服装をするのは公務員として当然だと言っているが、元春の友人である農水省の現役公務員様はまともな格好で稲田家に遊びに来たことがない。


 先日も、茶髪で絣の入った青い甚兵衛じんべえを着た、どうみても堅気に見えない友人が遊びに来たと、母、姫子と綾がこっそり愚痴をこぼしているのを聞いた。

『まぁ自衛隊の人はキチンとした服装の人が多いみたいだけど……。』


 そっとため息をつく広志だった。

 広志は物心ついたときから父親とどこかに出かけたという記憶は無い。そう、初めての息子とふたりだけの休日旅行なのに・・・。


 広志は鏡に映った元春のスーツ姿から自分の姿へと視線を移動させた。


 広志は自分のお気に入りのエドウィンジーンズに、モンベルの赤いタータンチェック柄の登山シャツ、そしてゴアテックス素材のザ・ノース・フェイス、クライムライトジャケット(ガーデングリーン色)を着ている。


 そして、替えの下着や靴下、テスラの青いTシャツ、それに夏用ジーンズを入れた軽登山用のリュックを背負っている。

 今までのバイト代をつぎ込んだので全て新品だ。


 実は、広志は登山なんかしたことが無い。

 それが登山用の製品で身の回りを固めた理由は、パスポート申請しにいった翌日に、旅行経験豊富な学生会とバイト部の女子に、初めての海外旅行のことをうっかり知られてしまったからだ。


 彼女たちも行ったことが無いという地球の裏側で未知の世界だ。

 つい先日、ブラジルで新しい首狩り族が発見されたなんていうことがニュースになっていたことを思い出す。


 広志の初めての海外旅行というイベントを知ったふたりの女子高特生。いったん話に火が付くと様々な分野にまで飛び火しながら拡大するので、広志も圧倒されながらも無視することはできない。


 おとなしく頷きながら聞いていた広志だが、彼女たちの話を要約すると、日本は冬だが南半球は夏だから、すぐに脱げるうえコンパクトにまとめやすく、頑丈で長持ちの登山用品が旅行に持っていくのに最適だということになった。

 初心者の広志には有り難いアドバイスだ。


 彼女たちの話が終わり、広志は「たいへん参考になったよ。さっそく、アマゾネスでいろいろと検索してみることにするよ。」とお礼を述べた。


 すると美人で学生会長の仲村一華なかむらいちかが「お礼ならのマイケルコースのミディアムトートで良いわよ」と冗談めかして言い、ウインクを飛ばしてきた。普段、厳格なイメージがあり、同級生だが首席入学の彼女の一面が見られた気がして少し嬉しい。


 バイト部副部長の木下花音きのしたかのんには「私はクロエのフルラがいいな。かわいいから。」と言われたが、いつも厚かましい木下の言葉は広志の耳を右から左へスルーする。しかし、仲村会長に対しては何かお礼をしたいと考える。


 感謝の気持ちの筈だが、普通の15歳男子の心に美人に対する下心が生まれるのはごく自然な流れだ。

『そう、女の子にはプレゼントだ。』

 この時、広志は同じようなアドバイスしてくれた女子がふたりいるのに、ひとりにだけプレゼントを渡すことを考えている。

 そんなことをしたら、彼にどのような未来が訪れるか、集団女子のホントの恐ろしさを知らない。


 しかし、自宅で仲村が言っていたブランドをネットで調べ、親友の原田良治が常々言っている「女は信用するな」という言葉をかみしめた。

『何、このウン十万円とかいうふざけた値段は。』学生会長の笑顔の奥に黒い影を見た気がする広志だった。


 ◇ ◇ ◇


 元春は、黒のショルダーと、替えの背広と下着が入っているガーメントバックを持っている。両方ともTUMI製だ。

 TUMIは、バリスティックナイロンという防弾チョッキにも使用されている素材を使っている。


 省庁間配置転換で自衛官になると知った、今は亡き兄の英一郎と弟の盛夫が、ふたりで相談して元春にプレゼントしてくれたものだ。

 修理をしながら既に8年以上も同じものを使用しているが、元春にとって何よりも大切な品物なので、一生涯手放す気はない。


 スーツケースは既に成田空港へ宅急便で送っている。年末年始を挟むこの期間中は海外国内とも旅行者が多くて、駅や空港はごった返す。経験でそれを知っている元春は、なるべく荷物を少なくして行動する。


 自家用車は姫子が使っているので、西鉄香椎宮前駅までタクシーで行く。

 通勤時間帯は連絡橋付近が混雑するので、タクシーを使った方が良い。

 タクシー無線で混雑に捉まることなく迂回路を選択できるからだ。


 母、稲田姫子いなだひめこは今日も仕事だ。

 ボーナスが支給される12月上旬から31日まで、福岡市の天神地区は最大のかき入れ時だ。正月も2日から初売りが始まるので、この時期、姫子に休みは無い。


 タクシーはビクトリアの本社前にタクシープールがあり、絶えず3台以上が止まっている。

 ここから西鉄香椎宮前駅までタクシーで行き、西鉄電車で終点の貝塚駅まで行く。

 そして福岡市営地下鉄に乗り換え福岡空港駅までは地下鉄でいく。

 地下鉄は途中、中洲川端駅で乗り換えなければならないが、自宅から空港までは小1時間で到着する。

 空港までは福岡都市高速を使えば自宅から25分程度で到着する。

 ただし、渋滞していなければという条件が付く。

 年末年始は渋滞することが多いので、電車を使う方が確実だ。


 福岡空港に到着すると、まるで筥崎宮の放生会のように人がごった返している。地下鉄から地上部に出ようとするが、大きなスーツケースを抱えた若者グループが道を塞いでいて人の流れが滞っている。


 元春はスーツケースを宅急便で送るというのを即断していて、一週間前には広志に荷物をまとめさせていた。

 その時広志は、『面倒くさいな』なんて思っていたのだが、元春の判断が正しかったことを目のあたりにし、「親父のくせに」と小さく呟いた。

 元春を見失わないよう、その背中をしっかり見ながら広志はついていく。

『くそっ、親父の背中が頼もしい。』


 成田へはLCCのジェットエア航空を利用する。広志はジャパンエア航空を利用したかったのだが、成田への乗り入れはLCCが優先と決まっていて、ジャパンエアは乗り継ぎ時間の都合上利用できなかった。

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