さあ、帰ろう②

 ガルガルとワザと吠えているようなエンジン音も、だいぶ聞き慣れた。

 この車ではないと物足りなく思ったりする。

 アクセルを踏んで、ハンドルを切って、駐車場へ。

 帰宅途中のいつものスーパーマーケットに到着。


 駐車した銀色のフェアレディZから降り、ハンドバッグ片手に店内へ向かう。その時ふと振り返って、琴子はちょっと笑ってしまう。

 平日の夕方、主婦が多い時間帯に、あんな厳つい男の車が停まっている。かなり目立ち違和感。だけど、琴子はやっぱり笑ってしまう。そして幸せを噛みしめる。

 自分一人では絶対に選ばなかっただろう厳つい車が愛車になっている。それはまるで、正反対である夫が毎日そばについてくれているような、送り迎えをしてくれているような、そんな気持ちになる。

 夫が手入れをしてくれている愛車。夫が『婚約の記念に。結婚したらおまえの車』と譲ってくれた愛車。車好きの夫が手放してくれたのだから、余程のことと琴子は受け止めている。

 あの車は琴子にとっては『婚約指輪』に等しい。一生大事に乗ると決めていた。

 

「今夜はどうしようかな」

 店内、食品売り場を巡る。

 忙しさにかまけて、ついつい簡単な手料理になっているここ数日を反省し、琴子の頭の中は何を作ろうかぐるぐる。

 実はもうすぐ琴子の誕生日。次の土曜日がその日にあたる。しかも『彼と一緒に初めて迎える誕生日』。付き合って一年もしないうちに結婚した。昨年の今頃はまだ出会ったばかりで、彼とは恋人同士にもなっていなかったから……。

「その日にたくさん作ろう。いまからメニューを考えておかなくちゃ」

 彼が好きになってくれたメニューが浮かび、それが新しい住まいの新しいテーブルにいっぱい並べている自分を琴子は思い描いていた。

「じゃなくて……。今夜のご飯よね、まずは」

 冷蔵庫に足りなくなった野菜をカゴに入れ、次は精肉売り場。

 けっこう食べるのよね。と、琴子は精肉パックもひとまわり大きいものを手に取るようになっていた。

 同居当初、母と二人だけの生活をしていた時の感覚で食材を揃えたら、ぜんぜん足りなかったことを思い出す。

 徐々に材料もこしらえる量も増え、そして自分の今までの生活では選ばなかったものも探すようになる。つまり英児がそれまでに好んでいた商品など。最初は彼と一緒に買い物に行かないと、何を好んでいるのか判らなくて困ったりした。

『琴子が選んだならそれでいいよ』

 おおらかな彼だから、そういってこだわりなく笑って流してくれるのが目に見えて、だから、琴子から英児の腕を引っ張って『これとこれ、どっちがいいかな』と聞いて選んでもらったりした。

 珈琲売り場に来て、琴子は足を止める。

『コーヒーはさあ。琴子が選んできてくれたのが、うまかった。だからおまえに任せるな』

 一緒に住み始めたころ、そこだけは琴子に気遣う様子もなく、はっきりと言ってくれた。

 先日。気候も暑くなってきたので、アイスコーヒーを入れてあげたら、大絶賛。それを思い出して、琴子は微笑みながら珈琲豆を手に取った。

 つい肉料理になってしまうので、最後に鮮魚売り場も眺めてみることに。すると『太刀魚』が目についた。そのパックを手に取って眺める……。

『この前の太刀魚の天ぷら、すごい美味かったよ』

 母のやり方を真似して作った天ぷら。彼が初めて食べてくれて、とても気に入ってくれた料理。

「あれから、一年なのね」

 出会ってまだ一年しか経っていない。去年の今頃、桜の季節に別れてそれっきりだった彼と再会したのも、こんな梅雨の時期だった。

 なのにもう。いままでの誰よりも長く一緒に過ごしてきたように感じている。男の人と暮らすのが初めてだから? 初めて毎日毎日一緒にいられるから? でも、もう彼は琴子の日常。すぐそこにいて、いてくれないと心と身体の半分を無くしたように恐ろしくなる。

「天ぷらにしよう」

 また巡ってきた季節を思い、その食材をカゴに入れた。

 

 買い物を終え、フェアレディZに乗り込んだ途端に、夏特有の大粒雨の夕立が襲来。

 激しい雨が跳ね飛ぶバイパスを龍星轟へ向かって走るのだが、琴子はハンドルを握りしめてため息をついた。

「あー、もう。せっかくワックスがけをしたばかりだったのに」

 週末、自分で丁寧に磨き上げたばかりだった。ワックスがけは楽しいしけれど、楽しい分、一手間かけている。その手間をあっという間に台無しにしてくれるのが、この雨。手間を思い出すとほんとうにがっくりする。  そしてまた思い出している。

『夕立はやっかいだよな。これで外でワックスがけしていたら最悪なんだ。俺の敵』

 あの時、彼が本気で雨雲を睨んでいた顔を思い出す。そして、一年経ち、今は琴子もまったく同じ気持ち!

「本当に敵なんだから。ピカピカになったゼットが汚れちゃうし」

 ため息をついた。どんな時もピカピカでキラキラ煌めく愛車にしておきたい。そんな気持ちになっている。

 大好きな車がキラキラ綺麗になっていくのは、自分がメイクをして嬉しい気分になる時と同じだと琴子は感じている。

 だから車が大好きな男性達が、あのワックスじゃないこのワックスがいい。あの商品も試してみるかと、あれこれ夢中になってしまう気持ちが良く判る。

 いまや琴子も、そんな車好きな男達の仲間入り。お店に新しいワックスが入ってきたら使いかけをほうって試してみたくなるし、水アカ取りにウィンドウ撥水コーティング剤にタイヤワックスなどなど、入荷品はひとつひとつ手にとって眺めてしまう。最近はタイヤとかホイールまで『こんなの履かせてみたいな』とか本気でカタログから物色したりしてしまう。それは化粧品をあれこれ試したり、お気に入りを探し当てるあの気持ちと一緒だった。

 結婚後も、土曜日曜はお店の手伝いもよくする。滝田店長からもらったあの龍星轟のジャケットをはおって、彼と一緒に接客もしたりする。そうしてお店に顔を出すことで、まだ見知らぬ顧客さん達と顔見知りになれる。

 そしていつも、店長の彼が『女房になった琴子』と紹介してくれる。そして顧客さんと知り合いになり、その人それぞれの車への愛情を知る度に、『龍星轟のオカミさん』になっていく実感をすることが出来た。

「この雨だと、英児さんも怒っているかもね~」

 ボンネットに、止まぬ雨と激しく散る飛沫。店先で顧客の車を磨いていたなら、彼も同じ気持ちになっていることだろう。

 

 空港近くになると、道路はびっしょり濡れているが既に小雨になっていた。

 龍星轟の店先も水溜まりが出来るほど濡れていたが、龍星轟から見える海空には晴れた夕空がひろがっていた。こちらはもう夕立も通過済みで、そろそろ雨も上がりそうだった。

 ガレージへと向かう。隣のピットには整備士兄貴コンビの清家さんに兵藤さん、そして矢野さんが車を整備している姿が見える中、琴子はガレージへ、ゼットを駐車させる。

 まだ初心者マークだけれど、もう夫の監督なしで車庫入れ駐車が出来るようになった。

 これも一年前には考えられない自分の姿。

 車を運転する自分など想像もしていなかったし、ましてや、新しい恋人が一年後にはいるのかしらと思い悩む以上に、大きく通り越して『結婚』している。

 ほんとうに、こんなに変われるとは思ってもみなかった。

 しかもこんな銀色のスポーツカーに乗って、車屋のオカミさんになっている。

 車のエンジンを切っても、琴子はハンドルをもう一度握りしめ、感慨深い溜め息を吐いていた。まだ夢を見ているよう。住む自宅も自分が生まれ育った実家とはまったく違う会社兼自宅で、本当に車に囲まれた暮らし。

 望んでいた世界ではなかっただけに、いや、思いつきもしなかった『男の世界』にいつのまにか馴染んでいる。

 運転席を降りドアを閉めると、ガレージの入り口に傘をさしている人影が現れる。

「おう、おかえり。琴子」

 いつもの作業着姿の彼が出迎えてくれる。

「ただいま、英児さん」

 あのにぱっとした笑みをみせてくれる夫。英児は毎日ちゃんと、このガレージまで琴子を出迎えに来てくれる。

 そんな彼が傘を閉じながら水に汚れたゼットを見て、やっぱり同じようにため息をついた。

「雨、残念だったな。週末、自分で綺麗に磨いたばかりだったのに」

「ほんと敵ね、あの雨は。ゼットが濡れていく瞬間のあの脱力感ったらもう……」

 英児も笑う。

「これからの季節、しょっちゅうこんなんだよ」

「英児さんは。お仕事中、大丈夫だったの」

「おう。俺はセーフだった」

 良かったと笑うと、英児は嬉しそうに琴子の目の前にやってくる。

「おかえり」

 ハンドバッグや買い物袋を両手に持っている琴子をそのまま、英児が大きく腕を広げて抱きしめてしまう。しかもぎゅっと力を込められ、逆に琴子の身体から力が抜けそうになる。

「た、ただいま」

 毎日ではないけれど彼は時々、『おかえり』と出迎える時にぎゅっと強く抱きついてくる。まるで『おまえが帰ってこないかと思った』とか『おまえが帰ってくるまで、待ち遠しかったよ。寂しかったよ』とでも言いたそうな、そんな寂しがり屋の英児らしい抱擁。たぶん、そういう気持ちが素直に行動に出てしまう彼だからこそ。そう思うと、こうして帰りを待っていてくれる彼を知るたびに、琴子の胸はきゅんとしめつけられる。

「おかえり、琴子。おかえり」

 自宅が職場である彼、私の夫。そして彼の会社があるここが、私たち夫妻が暮らす家。

 毎朝、彼が『おう、気をつけて行ってこいや』と見送ってくれ、そして毎日、彼が『おかえり』と迎えてくれる。

 夫が送り出してくれて、夫が待っていてくれる。いま琴子が帰る場所。

「お、太刀魚を買ってきたな。絶対に、あの天ぷらな!」

 買い物袋の中身を知った彼がそういいながらも、琴子の手から、その買い物袋を取り去って、代わりに持ってくれる。そういうさり気ない気遣いも相変わらず。

 しかもガレージを出ると、荷物片手の英児が傘をさして、それを琴子の上にかざしてくれる。

「ありがとう、英児さん」

 こんな時、普段は元ヤンの名残を感じさせる怖い目つきをする彼が、本当に穏やかに優しく微笑んでくれるので、今度は琴子が思いっきり彼に抱きついてしまいたくなる。待っていてくれた彼に、琴子を大事にしてくれるお返しに抱きしめてあげたくなる。

『おう、お疲れぃ。琴子』

『おかえり、琴子ちゃん』

 だけどそこで、ピットで仕事をしている矢野さんと、整備士コンビの兄貴ふたり清家さんと兵藤さんの声も届くのも毎日のことで、英児に抱きつきたくなった琴子はグッと堪える。

 ピット内でワックスがけを仕上げていた矢野さんが、この時間になると見られる夫妻の姿を見て、これまたお馴染みの呆れた溜め息をこぼしている。しかも今日は夫が妻に傘をかざしてという……。

「おい、クソ旦那。毎日毎日、待ちくたびれたワンコみたいに迎えに行くと、嫁さんにウザイって嫌われるぞー」

「うっせーな。嫁の帰りを待っていて、どこが悪いんだ。このクソジジイ!」

 いつもの師弟のどつきあいも相変わらずで、琴子も整備士兄貴達と一緒に笑ってしまう。

 いつの間にか雨上がり。初夏の夕。すこしだけ茜色に染まっている雲が海から近づいてきている。今年も龍星轟の夕空には、小さなコウモリがぱたくた。二人の頭上を飛んでいる。

 

 良いことも悪いことも、たくさんのことが降ってきても、ちいさな傘の中、肩を寄せ合って一生懸命歩いていく。いま、そんな気分。

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