24.あの日の、潮風ベール
それは結婚式当日の少し前のこと。
いよいよ日曜日は滝田夫妻の挙式披露宴。親族がこれだけきて、三好堂印刷からは父親の三好社長と、琴子の上司であるジュニア社長と、琴子が入社当時から親しんできた製版課の男性先輩数名が出席する。場所、集合時間、移動経緯、漁村披露宴での段取り……などなどを、龍星轟一同も間違いがないよう確認。
琴子も式前とあって、数日の休暇をもらい、その最終確認の場に事務所にいた。
――どうぞ、皆様、よろしくお願い致します。
英児と琴子が、出席してくれる従業員にそろって礼をした後だった。
「琴子、英児。おめでとうな」
入籍した時にも言わなかった言葉を、こんなときに矢野じいが呟いたので、英児と琴子は揃って顔を見合わせてしまう。だが矢野じいの顔は『しっかりやれよ、クソガキ』と言った時同様、怖いほど真顔だった。
その矢野じいがこう言いだした。
「琴子。母ちゃんと二人で心細かったかもしれないが、これからは英児もいる、英児の父ちゃん兄ちゃん、義理の姉ちゃんもいる。それに、わすれんな。龍星轟という家族がいることを。俺も出来る限り協力するし、兄貴も三人いるだろ。一人で困っていないで、ちゃんと言えよ」
兄弟もなく、片親になり、鈴子母と二人きりだった琴子へ。矢野じいからまだまだおまえのそばに人はいるぞと安心させる言葉。
何故か、いつも穏やかで陽気な兄貴も、明るい武智もしんみり俯いていたりしていた。そして英児も、矢野じいの言葉が、どれだけ琴子を安心させるかわかっていたので、感謝の気持ちで溢れそうになる。
琴子はもう、英児の隣で静かに涙を流していた。
「有り難うございます。矢野さん」
彼女の心に微かな不安もあったのだろう。夫と家庭が持てたことは素晴らしい幸せかもしれない。だけれど、最後の最後、強みは実家。その実家には体が不自由な母だけが待っているのみ。いつどうなるかわからないことも、彼女だから身に染みているはず。
そこを矢野じいがしっかり見抜いて、支えようとしてくれている。その気持ちが琴子に通じ、だからこそ涙が止まらなくなってしまったようだ。
涙が収まると、琴子がまた急に言いだした。
「あの……お願いが……」
矢野じいも早速に頼られ『おう、なんだ。なんでも言ってみい』と胸を張って受け止めようと構える格好。
「私、もう父がいないから。英児さん同様、私も矢野さんに親父さんになってほしい。だから一緒に歩いてくれませんか」
歩く? 龍星轟の男共一同、一瞬なんのことだと揃って首をかしげた。だが、矢野じい以外の男共と英児はすぐになんのことか解って、急に『うんうん。それいいんじゃないか』と口を揃えた。
矢野じいだけがきょとんとしているので、隣にいた武智が矢野じいを肘で小突く。
「ほら。ヴァージンロードのことだよ。お父さんの代わりに、歩いてくれと言っているんだよ。教会では親族が適役だけど、お手製ロードだから矢野じいでも出来るだろ」
それを聞いた矢野じいが『なにー!』と、途端に仰天した顔。
「いやっ、ほら。なあ……!」
なあ。じゃないだろ。こういう時こそ、協力してやれよ! 武智と兄貴二人がここぞとばかりに、戸惑っている矢野じいのお尻を叩いてくれた。
すると、矢野じいもようやっと、『琴子のためだ。おう、やってやらあっ』と、最後にはドンと引き受けてくれた。
それを聞いた伊賀上マスターが、くすりと笑っている。
「そうか。琴子さんのお父さん代わりか。英児君の親父同然の彼だから、それは当然なことかもね」
照れて引き受ける様が目に浮かんだよと、マスターも楽しそうに笑っている。
「緊張して、矢野君が転ばないといいけどねえ。麗子さんの話では、お嬢さんの教会式の時もガチガチだったらしいよ」
「それ。俺も麗子さんから聞いているんで、ちょっと心配。いや、あのクソ親父のそんなところ、見てみたかったりして」
「言えてる」
マスターと笑っていると、武智から『花嫁さん、到着です』との一声。
親族に、既に到着していた三好堂印刷の社長親子に従業員が、武智の案内で海辺に向かう花の道を取り囲むように並んだ。
「新郎はテーブル前で待っていてよ」
きびきびとした武智の『進行』。英児も従って、白いテーブル前に立ち待機。店先に止まった白いワゴン車。そこから留め袖姿の鈴子母が降りてくる。
そして、矢野じいの手添えで、後部座席から白い手袋の手が見えた。そして、ふわりとした白いベールが風に誘われ舞いながら、空へと流れるのが見えた。それだけで、花道にいる親族知人が『わあ』と歓喜の声と拍手で湧いた。
その中、ふんわりとした白いドレス姿の花嫁が楚々と降りてくる。琴子が母親鈴子と一緒に見立てた『いまの私に一番似合うドレス』姿だった。
彼女の雰囲気にぴったりの、ふわふわした優しい白いドレス。
白無垢は綺麗だったが、ドレスはかわいい彼女だったので、英児はまた惚けてしまう。
皆様、拍手でお迎えください――。武智の声に皆が到着した花嫁を迎えてくれる。
鈴子母が親族と合流し、ついに武智が作ってくれた花のヴァージンロードの向こうに、矢野じいと腕を組む白い彼女が立った。
「綺麗だよ、琴子。おめでとう!」
直ぐ側にいる三好ジュニア社長のかけ声に、琴子はもう泣きそうな顔になっている。
「泣くな、琴ちゃん。化粧が落ちるぞ!」
三好堂印刷の兄貴達のかけ声で、琴子もグッと堪えて、幸福の微笑みを見せている。
矢野じいも、そんな琴子の隣で今日はカチカチではなく『俺が支えてやらにゃあ』みたいな意気込みなのか、落ち着いて琴子をエスコートして歩き出す。
春の可憐な花に囲まれた道を、琴子がゆっくり歩いてくる。
「琴子、おめでとう」
「琴子ちゃん、おめでとう」
「琴子さん、綺麗よ。おめでとう」
大内滝田両家の親族や龍星轟の兄貴二人にも声をかけてもらい、琴子が笑顔を返している。
そして最後。英児のすぐ側に立っている頑固な顔つきの男の前で、琴子から立ち止まった。
「滝田のお義父様」
英児の目の前にいたのは、滝田の父、英児の父親だった。英児へと辿り着く前に、琴子はちゃんと英児の父親の所に頭を下げてくれる。
「なにも持っていない私ですが、精一杯やっていきますので。どうぞ、よろしくお願い致します」
矢野じいまで一緒に頭を下げてくれる姿は、知らない人が見れば本当に父娘に見えてしまうほどだった。
黒い礼服姿の父も、今日はにっこり。
「こちらこそ。堪え性なく聞き分けのない悪ガキに育てましたが、どうぞせがれを頼みます」
いちいち気に障る言い方をする実父だが、琴子や矢野じいよりも深く深く一礼をしてくれる姿に……。甘やかしてはくれない父親ではあったけれど、やはり自分の父親。今日の日を今か今かと待っていたと、兄と義姉から聞かされていただけに、英児も滝田の父と共にこちらも歴とした父子として一礼をする。
そしてついに。矢野じいの手が琴子の白い手袋の手を、新郎の英児へと差し出す。
「この日を、二人とも忘れんなよ。いいな」
娘をお願いします――は、この日はない。それはいつまで経っても、琴子の父親のもの。そこまで父親気取りをしない矢野じいからの言葉に、二人は揃って頷いた。
矢野じいの手から、英児の手に。その小さな白い手がふわりと乗った。
「英児さん」
潮風にベールが舞う中、琴子がきらりとした眼差しで英児を見上げた。白無垢では楚々と隠された顔に色気を感じたが、今度は英児がいつだって見てきた愛らしい笑顔がそこにある。
その手を、英児は迷わずに自分へと引き寄せる。
しかも、そこにテーブルがあって。マスターがなにか飲み物の準備をしていることを解っていても、英児はそんな琴子を、いつもそうであるように、もう……胸の中に抱きしめてしまっていた。
黒いモーニングの男が、後先考えずに、花嫁に触れるなりぎゅっと抱きしめる姿。参列している皆が『わあ』と笑い声で湧いた。
「こらー、滝田社長。順番が違うぞ!」
「なにやってんだよ。それじゃあ、いつも通りじゃないか!」
堪えしょうがなく、溺愛している琴子に触れずにいられない性分をよく知っている龍星轟の兄貴達の野次に、また参列者達が笑い出す。
「流石、速攻の滝田君。そのまま、誓いのキスいっちゃえ」
三好ジュニアからもそんな野次が飛んでくる。
「そうだそうだ。もういっちゃえ、誓いのキッス、誓いのキッス!」
ついに武智まで、進行を投げてしまう始末。
武智とジュニア社長の調子の良い音頭に、参列者にマスターまでもが催促の拍手を揃えてくる。
「英児、いけ!」
側にいる矢野じいも大きく手を叩いて煽ってくる。
しかも英児の父親まで。
「まったく。それほど琴子さんが好きなら、おまえ、絶対に彼女を困らせたりするんじゃないぞ」
といって、やっぱり矢野じいと一緒になって手を叩いている。
皆に煽られ、英児はやっと胸元から琴子を離す。ベールをまとう琴子の顔を見下ろした。今日も彼女の口紅は淡い色。いつもと変わらない。
キスをする前に、英児は琴子の瞳をみつめる。この日に言おうと決めていた言葉がある。
「琴子、俺、すげえ、おまえのこと――」
あい、愛、愛し……。
言ったことがない言葉だった。言ったことがあると思っていたのに、言っていなかったことに婚約してから気がついた。
言いそびれると、いつ言えばいいか判らなくなり、それなら結婚式で言ってやろうと思っていた。それが今。
「これからもずっと、おまえを、愛し、愛」
どうした。言えるはずなのに言えない?
琴子がじっと英児を見つめている。
『どーしたのー、英児おじちゃん。誓いのキッスまだあ!?』
英児の甥っ子と姪っ子まで、楽しそうに急かしてくる声。
琴子がそこで、にっこりと英児を見て笑った。
「言わなくても……。もうたくさん『愛している』て、聞いてるから」
え、俺。そんなこと、いつの間にか言っていたか? 思い当たらないと英児は目を丸くした。
「言葉なんて、貴方には似合わない。強いキス、いつも肌に触れる手、毎日、いつも。その一回一回、いつも英児さんから『すげえ愛している』て聞こえていたもの」
「そ、そうなのか?」
確かに。英児の愛し方はそれだった。彼女を見ると抱きしめずにいられない。キスをしたくなる。素肌に触れずにはいられない。彼女に触れること、肌を愛でることが、英児のおまえが欲しい愛している――だった。
「そうよ。だから、もう、その言葉はいいの」
言えないのは、英児さんが動物的に愛してくれるからよ。そう言って、今度は白いドレス姿の琴子から英児の首に抱きついてきた。
しかもあろうことか。琴子は飛びついてきたそのままの勢いで、愛しているが上手く言えずにいる英児の唇をぎゅっと塞いでしまう。
「わー、嘘だろ! タキさん、なにやってんだよ。琴子さんからキスをしてもらうだなんて!!」
「英児叔父ちゃん、ちゃんとやれよー!」
武智と甥っ子の声が遠く聞こえるほど。英児は花嫁からのキスに茫然となっていた。参列者もますますからかいの歓喜で湧いている。
キスをくれた琴子がそっと囁く。『ずっと一緒よ』と。それを聞いて、英児もやっと我に返り、花嫁の彼女をまたぎゅっと抱きしめる。
彼女の頬に触れ、塞がれている唇を今度は彼女へと押しつける。今日は濃密なキスは人目を憚るので、英児もグッと堪える。それでも琴子の唇を吸って噛んで、なんどもキスを繰り返す。やっと琴子が『ん』と困った顔になる。
いつまでも続く英児の長いキスに、ついに龍星轟の兄貴達が『いい加減にしろ』と、一足早く花びらを投げつけてきた。
もう進行もめちゃくちゃ。決まりきったヴァージンロードの段取りを無視した、でも、賑やかな祝福。
唇を解放された琴子が、また英児を見つめて、ふんわり優しい微笑みを見せてくれる。それを見て、英児はまた琴子の頬を捕まえてキスをしてしまう。
「さあ、皆さんも一緒に『この野郎!』と叫びながら、花を投げてください!」
武智のかけ声で、帰りの道で投げてもらうはずだったフラワーシャワーが、海辺でキスを繰り返す二人に一斉に投げられる。
花びらが降る中、潮風にふわりと海辺に流れていく白いベール。そこに花嫁の微笑み。愛して止まない唇。
俺、ジジイになってもずっと思い出すよ。今日のおまえを。
それが、彼女にやっと言えた言葉だった。
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