10.ロケットに乗って、どこまでも
彼女と通じ合えたから『大丈夫』。
なんて。それだけで終わると思ったら大間違いだった。
【 社長の仕事が片づかなくて、帰りは遅くなります。夕飯は待たずに食べてください 】
ステッカーの依頼をしたその日の夕。彼女からそんなメールが届いていた。
残業期間でもない時期だったが、琴子の仕事は納期との戦いで、とにかく勤務時間は英児より不規則。よくわかっていたのだが、もう……一人の食事が侘びしくなってしまい、つい彼女の帰りを待ってしまう。
それでも琴子は思ったより早く、二十時前には帰ってきた。
「ただいま」
疲れ切った顔で帰ってきたので、珈琲を傍らに新聞を読んで待っていた英児は驚いて琴子を出迎える。
「どうした。顔色、よくないな」
力無く頷くと、琴子はすぐにテレビ前のソファーにへたり込むように座り、頭を抱えてしまう。
嫌な予感がした。
「なにか、あったのか」
「うん、ちょっと」
それでも、彼女がこんなに疲れ切った顔で帰ってくるのは残業期間以外では珍しい。
「……あの、今日、仕事中に『あれ』が来ちゃって」
『あれ』? 一瞬だけ首を傾げたが、琴子と暮らし始めてしばらく、英児もすぐになんのことか判る。
「あ、そう、だったのか」
「うーん、また『今月も』って、がっかり」
つまり『月のもの』が来てしまい、また愛の結晶が出来ていなかったとがっかりしているのだ。
「だからさ。式が終わってからでもいいだろ。俺だってすぐ出来ることは大賛成だけどさ。本当に出来た場合、ドレスとかどーすんだよ」
「まだ選んではいないけど。お腹がちょっと大きくなってもいいようなドレスにしようと決めているの」
ドレスをまだ選んでいないのに、お腹の子供が出来た時のことは『決めている』とはっきり言い切る彼女。それほどに、俺の子供を欲しいと思ってくれているんだと、英児だって感激する。
「はあ。いつもの痛み止めを持っていくの忘れていて、仕事中、痛くて痛くて」
「なんだ。そうだったのか。待ってな」
置き薬がある戸棚へ英児が向かう。そこから常備している痛み止めと水を入れたコップを琴子のもとへ持っていく。ソファーに座っている彼女がやっと『ありがとう』と笑顔になる。
だが薬を飲み干して落ち着いたのか、ローテーブルにコップを置いた琴子が、意を決したようにしてそばで立っている英児を見上げる。
「雅彦君が、ちょっと荒れちゃって」
「マジで」
まさか、とは思った……。琴子も致し方なさそうに小さく微笑むと、またため息。それどころか英児から目線を逸らすように俯くと、小さく呟いた。
「おまえの旦那、なに考えているんだよ。ワザと俺を指名してくれたのか。――と言われた」
「そ、そうなんだ」
なんだか、急激にがっかりさせられた。こっちが正面から直球投げたのに、その球を上手く捕れなかったのかよ。しかも俺じゃなくて、女の琴子に言いがかりつけやがったな。俺が感じたような『わかる男の気持ち』は同等じゃなかったのかよ――と、男の気持ちを裏切られた気分。
「それで、三好社長と雅彦君がやりあって」
「マジで!!」
今度はもっと驚かされる。上司とやりあうほど、嫌なのかよ――! そして、『しまったー。やっぱり俺の独りよがりだったか。三好さんに迷惑かけた』と本気で英児は焦り始める。
「でも。三好社長が『おまえのデザインを気に入ったという男のどこがいけないんだ』て吠えてね。ちょっと騒然としちゃって、それでなんかスケジュールがずれちゃって」
「うわ、もしかして、もしかしなくても。俺がごたごたするような依頼を持っていったから……残業に?」
やっぱり独りよがりだった。俺が良いと思っても、三好さんにも琴子にも迷惑になってしまったのだと英児の心が痛んだ。
「大丈夫よ、いつものこと。クライアントのオーダーを受ける時は多かれ少なかれ、営業マンでもある社長とクリエイトするデザイナーは衝突するものなのよ。よくあるの」
でも、琴子が憔悴しているのは『板挟み』になってしまったからなのだろう。
そんな琴子の足下に英児は跪く、昼間、噛んでしまった婚約指輪の手に触れる。そこには英児が噛んだ痕がうっすら赤く残っている。男の我が儘を刻んでしまった彼女の顔を、英児は見上げる。
「無理して俺に合わせなくてもいいんだぞ。琴子が辛かったら、よそのデザイナーを探すから」
だが、琴子は笑顔で首を振った。
「ううん。社長はもうやる気満々なの。大好きな店のステッカーを作れること、いまの龍星轟のステッカーのように、自分の事務所から出したデザインが街中で見られようになることを望んでいるの。それに……本当は雅彦君も。あんなに怒るということは『すごくやりたい仕事だ』と思っているからなのよ。でも、クライアントから仮の指名があってもその条件が『別れた女をイメージした仕事』と来たから、どうしていいか解らなくて混乱しちゃったんだと思う」
英児は言葉を失う。やっぱり元々つきあっていた男。彼女だから、アイツの本心がわかるのだと英児は突きつけられる。しかしそれは自分が仕向けたこと。彼女の前でそんな戸惑いなど決して見せてはいけないと堪える。
それでも、琴子はもう清々しい笑顔を英児に見せてくれる。
「こう言うとおかしいかもしれないけど。『本多に絶対にいいものを描かせるから、三好と私に任せてください』。私、デザイン事務所の大内としても、なによりも『龍星轟のオカミさん』として店長が絶対に気に入るものをうちの事務所から出してみるから」
彼女も『仕事の顔』。だけど、龍星轟の一員の眼差し。英児は再び、自分が噛んだ痕が残る龍の指をぎゅっと握りしめる。
「わかった。俺も改めて腹をくくる。そちらに任せる。彼に伝えてくれ。いいもんあがってくるのを待っていると」
「うん。『本多』なら、滝田店長が望む個性的でどこにもないものを描いてくれると思うわよ。だって、それがこの地方では受け入れてもらえなくて悶々と苦しんでいたんだから」
「でも、俺。そういう男、キライじゃない」
「私は。『そういうデザイナー』はけっこう好き。でも男としてはもう興味はない。だって……もう、ひとりしか……」
噛み痕を残した目の前の男、英児を、琴子はじっと見つめてくれ微かに囁いた。『もう貴方しか、見えないんだもん』――と。
これだけ言ってくれたらもう英児もなにも言うことはない。すぐさま『琴子』と彼女の柔らかい匂いがする身体に抱きついていた。
「私の指、赤くなるまで噛んだでしょ。あの痛み、私、忘れないから。ずっとズキズキ、英児さんが『俺のことちゃんと見てろよ』と隣にいるみたいだった」
今日は英児がダメだった。なんだか泣きそうだ。いつもならここで『くそー。アレの日じゃなければ、いま押し倒して裸にするのになあ』と茶化して笑いあいたいところだが、今日はふざける気になれないほど……。
「どうしたの」
いつもすぐに肌を探して、彼女が困るぐらいに吸い付いてくる強引な男がなにもしないからか、琴子から英児を抱き返してきてくれる。
「俺、メシまだ食ってない」
なんとかやっと言葉を発すると、琴子が驚いて離れた。
「え、待っていてくれたの」
「だからさ。なんか美味いモン食いに行こう。それで、気晴らしにぶっ飛ばしに行こう」
「うん。行く。一緒に行く」
今度こそ。龍と龍の手を繋いで二人は外に出た。
「俺が運転する」
英児が乗り込んだ車は、彼女に運転させているフェアレディZ。彼女も頷いて嬉しそうに助手席に座った。
よく行くレストランで食事をした後、英児が運転するフェアレディZは高速のインターチェンジへ。
ETCゲートを抜けると、そこはオレンジの灯りに照らされながらも、暗闇の向こうへ果てなく伸びる高速道路。
英児はハンドルを握り、ギアをチェンジしアクセルを思い切り踏んだ。
「ゼットがどんな車か、見てろよ」
エンジン全開のフェアレディZ。愛車の助手席で頷く彼女の微笑み。
高く長く鳴り響くエンジン音。一車線だけしかない地方の高速道路はスピードを出せば出すほど、行く先は狭まる錯覚に陥る。ライトに照らされる中央分離帯の赤い反射ポールが道案内のように現れては消えていく。
それでも英児はギアを切り替え、アクセルを踏み倒す。先が見えない暗闇を。どこへ行くかも決めていない道を。思い立ったその時、突然でも、二人一緒に向かっている。
『今夜はどこに行こう』。行き先なんていつも決まっていない。独りの時からずっとそんな夜を過ごしてきた。
『どこに連れて行ってくれるの』。車をどこへ走らせるか、未だに『行く先不明』という独り身感覚で運転席にいるのに。でも、いまはそのままついてきてくれる彼女がいる。
暗闇の高速を走り抜け、この方角のずっとずっと端っこにある岬までいくことに決める。いつものそこらへんのドライブじゃない。今夜はもっと遠くへ――。
高速を降り、風力発電の白い風車がある海辺の街を走り抜け、英児は琴子を隣に灯台がある最西端の岬を目指し走り続ける。
日付が変わる前に、なんとか岬についた。大きな灯台が暗闇の瀬戸内海を照らしている。灯台まで徒歩で行けるのだが、夜中なので展望駐車場から灯りを眺める。
潮の香、冷たい風。優しいさざ波が聞こえる。海の向こうには漁り火がゆらゆら。それを岬から彼女と見渡す。
「本当に、ちょっと前の私には考えられない。突然、夜なのに、どこへとも分からず。でも行ってみよう、なんて。英児さんと一緒じゃないと出来ないもの」
だが彼女は宵闇にほのかに光る内海を潮風の中眺め、とても幸せそうだった。その横顔で琴子が言う。
「ゼットは私には月夜のロケット。夜、こんな遠い岬まで飛ぶように来られるだなんて……」
満ち足りた微笑みを絶やさない彼女を、英児も風の中、強く抱き寄せた。
「どこだって連れて行ってやるよ。そして、どこにだって琴子も一緒に連れて行くからな」
「うん。これからもどこにでも連れて行って。どこでも一緒に行きたい」
もう真夜中は冬の気温。白い息を吐く琴子も英児に抱きついてくる。
やっぱり。あったかい。彼女の温度を感じただけで、英児はいつだってとろけそうになる。
「もう、冬になるんだな。あっという間だな」
あとひと月ほどで、忙しい冬がやってくる。
「今年は琴子とお母さんと、年越しをするんだ。俺」
英児のジャケットの胸元で、彼女も静かに頷いてくれる。
「年越し蕎麦は、英児さんが買ってきてくれたお父さんも大好きだったあのお蕎麦ね。一緒に買いに行こうね」
「そうだな」
はやく、彼女と家族になりたい。もう今すぐ。こんなにそばにいるのに。でもそばにいるから余計に強く思う。
運転席と助手席は、彼女しか乗せない。そして必ずどちらかに俺もいる。誰も乗れない二人だけの車に早く乗りたい。英児も遠い漁り火を見つめながら、白いけど熱い息を吐いた。
それから。琴子がいつの間にか雅彦クンのことを『本多君』と呼ぶようになっていることに、しばらくしてから英児は気がついた。
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