第5話 ノクスの使命

 ノクスの登場に驚きを隠せなかったクリスだが、改めてカイルより説明を受け、彼も冷静さを取り戻す。そして、戸惑うクリスの前に、ノクスは跪き頭を垂れる。


「改めまして、お初にお目にかかります、シン様。私はレプロブス・ノクスと言います。お好きなようにお呼びください」


 落ち着いた声で口にしたノクスの見たクリスは、頭に疑問符を浮かべ、辺りを見回す。『シン様』を自身のことだと理解していないらしいクリスは、一頻り周囲に目を向けた後、助けを求めるようにカイルを見やった。

 その視線を受けてカイルはノクスへと呆れを見せて口を開く。


「いきなり言われてもわかんないよね。シンっていうのはね、君のことだよ。この人は君を『シン』って呼ぶことにしたんだよ」

「……そ、う、な……の?」

「うん。少し分かりにくいけど、よかったら覚えてあげて」


 カイルの言葉に頷いたクリスは静かにノクスの前にしゃがみこむ。気配に気づき顔を上げたノクスを覗き込むように見て、口を開いた。


「ノ、ノ……ノー、さん? よろ、し、く……」

「――っ、えぇ、もちろん、宜しく御願い致しますシン様!」


 クリスと視線を合わせたノクスは、驚きでバランスを崩し僅かに後ずさる。その際に何故か顔を赤くしていたことにカイルは気づいたが、何も言わずにクリスの傍に立つ。やがて感極まったようにノクスは顔を覆ったが、それについて言及することは止め、軽く手を叩く。


「ほらノクス、本題に入るよ! とりあえずちゃんと座ってくれる?」

「え、えぇ、失礼しました」


 短く返答をして、ノクスは躊躇い無く薄汚れた床に腰を下ろす。それを見てカイルも床に座り、寄り添うようにクリスも座した。この部屋には椅子はないが、それを気にするものは誰もいなかった。

 クリスの様子を確認してカイルは口を開く。話すのは、何故ノクスを連れてきたか、についてだ。前述の通りノクスとは友であることと、クリスのためにも、彼の元に避難をしようということを簡単にクリスに説明した。

 クリスは、どこか困ったようにカイルの話に聞き入り、不安げに弟を見つめた。


「……やっぱり、嫌かな? 会ったばかりの人のところに行くなんて」


 クリスの胸中にある不安や困惑といった感情は察するに余りあるだろう。いくらカイルの友と伝えられても、今出会ったばかりのよく分からない大人の元へ避難をと言われても、即決出来かねない。避難ということを理解出来ていないだけならば殊更にきちんと説明せねばならぬ話ではあるが。

 そう考えたカイルはゆっくりと言葉を紡ぐ。


「ここにいたら、クリスは痛くて怖くて嫌なことがいっぱいある。……いつも見る大人の人達は、優しくないでしょ?」

「…………うん」

「でも、この人なら、ノクスなら大丈夫。痛いことも怖いこともしないから。だから、ここより、安全。分かるかな」

「…………う、ん……」


 理解はしたが、納得はいっていないという様子で、クリスは首を傾げて、今度はノクスを見つめる。丸い双眸が僅かな困惑と動揺を秘めて、ノクスを射抜く。その視線からノクスは逃れようと逸らしかけた目線を戻し、クリスの意を受け止める。


「……不安、ですよね」

「…………ノー、さ、ん」

「はい」

「…………いた、い、こと……しない、って、ほん、と?」


 眉を下げたクリスは、小さな声で問う。クリスにとっては重要な問題であろうそれに、ノクスは即答しなかった。その行為により多少クリスは顔を曇らせたが、しかし、返ってきたノクスの言葉に、また別の意味で激しく心を乱された。


「…………只の民かつ反逆者だった私が、私のような無力である人間が、神に等しい月に傷を付けることができるとお思いですか?」

「…………え?」

「ちょっと、ノクス」


 その反応は、安堵や喜びといった前向きな感情ではなく、突拍子もない話による驚嘆の意であった。

 元々丸い瞳を更に丸くし呆然とするクリスの傍らでカイルは冷静に言葉を挟む。しかしノクスは、カイルの声などまるで聞こえていないかのごとく真剣な瞳でつらつらと言葉を発していく。


「貴方は私にとって美しい月。夜空に燦然さんぜんと輝く月。私はその神たる月に仕え、同時に、その輝きを護らねばならないのです」

「………え……?」

「ちょっと、ノクス、そういうのはいいから、落ち着いて」


 まるで意味が分からない――そんな表情を浮かべるクリスの様子などお構い無しにノクスは言葉を続け、胡座から跪くような体勢へと変え、クリスへと頭を下げる。


「……私には使命が、やらねばならぬことがある。貴方という月に仕え、護ること。そして、同様に神に等しい『星』を魔の手から護ること。月と星を導き護ることこそ、私の使命。……それが、一度消滅したにも関わらず、かき集められた残滓ざんしから再びこの世に生を受けた私の役目。いえ、望み」

「…………な、え……?」

「そう、それが私の願いです。……私は、この目で見たいのです。奇跡を。私の愛しき月と星が共に手を取り合い、寄り添い、幸せになれる、そんな、あの世界でなし得なかった奇跡を――」


 顔を上げたノクスは、そこで目にする。クリスではなく、冷ややかな目を向けるカイルを。そして彼がノクスの目の前に立ち塞がり、今まさに額を弾こうと構えている様を。

 ノクスは、一瞬しまったと思ったがもう遅い。直後に鳴った音と共にノクスの額が弾かれ、予想外の痛みが与えられた後、当然のように叱責が飛んだ。


「ノクス! そういうのはいいからって何回も言ってるでしょ! 君だって専門外の分野の話を説明もなく長々と聞かされたらびっくりするよね!?」

「……っ、はい、多分、困惑します……」

「だったらクリスの場合尚更だよ! 返答は極力分かりやすく! 君の言いたいことは僕には分かるけど、クリスにはわかんないんだから、月だの星だのは一旦置いとく! いいね!?」

「……っ、すみません、つい……」


 目を尖らせるカイルの叱責に身を縮こませながら、ノクスは慌ててクリスに向き直り頭を垂れ、膝をついた。


「分かりづらい話をしてしまい、申し訳ありませんでした、シン様」

「…………ん」

「……改めて、貴方の問いに答えます。『痛い事をしないか』……それを問われれば、私は、『絶対にしません』と答えます」

「……しないの?」

「はい。貴方を傷つけるなんて、絶対に嫌ですから」

「…………そ、う」


 小さく呟いたクリスだが、その瞳の意思は朧気である。ノクスを信用したい気持ちと信じられない気持ち、その両方が彼にはあるだろう。絶対に傷つけないと言われたところで、すぐさま肯定的な返答は得られない。

 仕方ないかとノクスは諦めたが、傍らではカイルが何かに気づいたように声を上げ、ある可能性を導き出す。


「……もしかしてクリス、僕が一緒に行かないかもしれないことが嫌なの?」


 手を握るカイルの眼差しに押されたか、クリスは目を逸らし黙り込む。何度か唇を薄く開いて言葉を紡ごうとするが、上手く単語が出ないのか口を閉ざす。


「素直に言ってくれていいんだよ」


 後押しを受けて数秒後、クリスはようやく頷き、拙い言葉で必死に不安を伝えた。ノクスのことがよく分からないから怖いということに加え、カイルが共にいるかどうか分からないから嫌だったと、クリスなりの言葉で言い切る。

 クリスにとっては、何よりもその事が重要だったのだとやっと気づいたカイルは、僅かに眉を下げてごめんね、と口にし、これ以上不安にせぬように強く言い切った。


「大丈夫、僕も一緒に行くよ。大事なクリスを一人にできないもの」

「……!」

「だから安心して。僕とノクスで、君を守ってみせるから」

「……う、ん……!」


 躊躇いのない言葉に安堵したクリスは顔を輝かせ、傍観していたノクスも胸をなで下ろす。これで懸念要素はかなり軽減されただろう。ならばこの敷地内に邪魔者が居ぬ間に避難すべきだ。そう考えたカイルが立ち上がったその時、遠方より女の声が聞こえた。


「カイル様、今のは……」

「母親か。まったくタイミングの悪い」


 冷ややかな声とともに、カイルはクリスから見えぬ角度で思いっきり顔を顰めた。続けて、彼は仕方なく扉へ足を向け、視線とジェスチャーでノクスへと合図を送る。

『僕が母親の相手をしている間に、さっさと向かえ』――指示を受け取ったノクスは毛布ごとクリスを抱え、小屋の外へ足を踏み出した。細やかな雨がしとしとと降る灰色の空の下、女がカイルを呼ぶ声を背景にノクスは急いで自宅へと足を進めた。




「おかえりなさい、おかあさん」

「ただいま、カイル。いい子でお留守番できた? あの変な子供と遊んでたりしてないでしょうね?」

「うん、してないよ」

「それならよかったわ。あ、そうそう、お菓子あるからあげるわね」


 テーブルの上に荷物を置いて、母親は機嫌よく微笑んだ。彼女は、カイルが一人で外出していたことも、小屋に行っていたことも知らない。てっきりひとりで遊んでいたと思っているのだろう、無垢な瞳を向ける子供の前にしゃがみこんで可愛らしい袋に入った焼き菓子を手渡した。

 友人が作ったものだというそれを笑顔で受け取りポケットに入れ、カイルは背を向ける。勿論、クリスの元へ向かうためだ。ノクスがいるから安心とはいえ、カイルと離れることを憂慮していた彼を放置する訳にもいかない。

 本来ならば目的地等を親に言わねばならないがその後の問答さえ煩わしい。それに、思えばクリスは外に出るのは初めてなのだ。直接危害が加えられずとも、恐怖を味わうかもしれない。逸る気持ちを抑えきれぬままに、カイルは母親の目を盗んで慌てて家を飛び出した。



「クリス! ごめんね、遅くなって……!」


 数十分後、額に汗を浮かべ息を切らしたカイルが、慌ててノクスの自宅へと飛び込む。その先で目にしたのは、真っ青な顔でガタガタと震え、ノクスへとしがみつくクリスの姿だった。哀れとも形容できる彼の様子に、カイルは苦々しく顔を歪めたが、クリスの手前慌てて正し、その隣に膝をつく。


「クリス、大丈夫?」


 カイルの声を耳にしたクリスは、華奢な体をびくりと跳ねさせて恐怖に濁る目を向け、手を伸ばす。その手を掴んで抱き寄せたカイルは、拭いきれぬ恐怖に身を震わせるクリスを癒すように身を撫でた。少しでも落ち着かせようと深呼吸を促していく。


「クリス、僕の真似して。……ほら、息吸って、吐いて……吸って、吐いて。そう、それを続けて。そうそう上手」


 瞳に涙を溜めながら、クリスは言われるままに深呼吸を繰り返すこと数分、漸く落ち着いてきたクリスは、一際長く息を吐いて目を閉じ糸が切れたように眠りに落ちた。


「おっとと。やっぱりいきなり外は怖かったのかな。ノクス、どこか寝かせられる場所は?」

「私のベッドで良ければ」

「お願い」


 ノクスにクリスの体を預ける。彼は不安げにな顔つきのままではあるが、クリスの体を抱き抱え、自らが使用しているベッドに横たわらせた。ふわふわの柔らかな白い布団が、細い体を優しく包み込む。


「ごめんね、いきなりベッドなんて借りちゃって」

「いえ、シン様の為ならば喜んで。それよりも何があったか説明致しましょう」

「一応大体の予想はついてるんだけど、お願いしようか。……きっと、周りの視線や暴言のせいだよね」


 忌々しげな面持ちで口にした言葉を、ノクスは静かに肯定した。

 曰く、極力人目のつかぬ道を選び家へと向かう予定であった。しかし、今回は運が悪かったのか、その道が容易に通れないようになっていたり、集団がいたりと予想外のことが多かった。そうなると、有色人種である2人は本人達の意志に関係なく敵意や嫌悪を含んだ視線を集めてしまう。

 慣れているノクスだけならどうってことは無いが、初めて外に出たクリスにとっては、恐ろしいものであったに違いない。

 居心地の悪い視線が、みすぼらしく奇妙な髪をもつクリスを射抜く。せめて髪の色や目の色だけでも隠そうと、薄手の毛布でクリスを隠したが、それでも視線の痛さに変化はない。それを振り切るように急いで駆け出したが、どこまで行っても居心地の悪さや2人を指さす手に潜めた声、そういった悪意が変わることは無い。それは、クリスにとっては非常に恐ろしいものだったことは想像に難くない。気づけば、ノクスの腕の中で大人しくしていた彼は、がたがたと震え始めており、家に辿り着いてもまだ怯えたままだったという。


「……申し訳ありません。本当は、あんな悪意ある目に晒すなどしたくなかったのですが」

「……こればっかりは悲しいけど仕方ない。……クリスに直接的被害はあった?」

「一度小石を投げられましたが、それは私が手で受け止めました。あと、あからさまな暴言をいくつか」

「そいつらの特徴は?」

「小石を投げたのは、10歳くらいの少年でした。茶髪に緑色の目、ソバカスが特徴的です。私が石を受け止めたのを見て、血相を変えて母親らしい女の元へかけていきました」

「そう、ありがとう。あとで潰しに行く。他には?」

「暴言を吐いたものは複数人。覚えてる限りですと――」


 ノクスは、カイルの物騒な発言を止めることもなく暴言を吐いた者の特徴を述べていく。どうやらカイルはそれらにも何らかの制裁を下す予定らしいが、どうやらノクスは止めるつもりはないらしい。ただ、どのように制裁を下すのか疑問ではあった。


「制裁を、とお考えになっているようですが、どういったやり方で? やるなとは言いませんが、あまり過激的なものは控えた方がよろしいかと」


 ノクスの素朴な疑問と控えめながら諫める言葉に、カイルは軽く答える。


「それはこれから考える。君のおかげで、僕は色々やれるって思い出したけど、まだ僕にできることは限られてるからね。体も小さいし、体力もそんなにない。親への報復までに勘を取り戻さなきゃいけないとはいえ、無理するつもりはないよ」

「そうでしたか。……カイル様なら、きっと、如何様にも処理できるでしょう」

「だといいけど。あぁそうだ、うちの母親がくれた焼き菓子があるけど、味みておいてくれる? 勿論変なものはないと思うけど」

「承知しました」


 思い出したように渡された焼き菓子の袋を開けて、ノクスはまずにおいに異常がないことを確かめた。次に丸い欠片を一つ口に含み、咀嚼する。


「……おそらく、問題なさそうです」

「そう。なら、ちょっと忌々しいけど、後でクリスに食べてもらおうか。今は選り好みしてる時期じゃないし」


 軽い調子で呟きながら、カイルは静かにベッドへと腰を下ろす。規則的な寝息を立てるクリスの髪をそっと撫でて、優しげな眼差しで見つめる。結局彼は、クリスが意識を取り戻すまでずっと傍に居続けていた。

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